33

海の音が聞こえていた。
9月の浜辺に降り注ぐ陽の光はまだ少しだけ暑く、けれど海と涙に濡れた頬を撫でる風はもう秋のそれになっていた。
私はその海をぼんやりと見つめながら、徐に口を開いた。

「迷惑を掛けて、ごめんなさい」

何度も紡いだ謝罪をもう一度だけ繰り返すと、彼は柔らかな笑顔で首を振った。

「いいえ、シアさん。こうなった原因はきっと、全てわたしにあるのです」

「……どうして? そんな筈ありません。だって、」

だって、何だというのだろう。貴方が私を苦しめる筈がないとでも言いたいのだろうか、私の口は。
馬鹿げている。私はこの人のことを何も思い出せていないのに。この人の首を絞めるという、信じられないような冷たい記憶しかこの頭には残っていないのに。
けれど、私の頭にはそれを立証するだけの根拠はなかったけれど、それでも私は確信していたのだ。この人は私を苦しめない。私を絶対に傷付けない。

シアさん、貴方は何も悪くないんです。貴方は間違っていません」

『貴方は間違っていません』
その言葉を、「誰か」が以前、とても悲しい笑顔で紡いだ気がした。

「……貴方は覚えていないかもしれませんが、前にもこんなことがありました」

「え……」

「泣きそうな顔をしていた貴方を見ていると、わたしも泣きたくなってしまった。貴方はそれに気付いたのでしょう、私の目元に手を伸ばしてくれました。
「わたし達はとてもよく似ている」と、かつてそう告げた私の言葉を、貴方はずっと大切に持っていてくれました」

その瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。
あまりのことに大きな目眩がした。一気に開けた頭の中に、次々と「誰か」の言葉が飛び込んできたのだ。
沢山の情報に驚きながら、しかし私はそのどれもが「たった一人」の言葉であると、知っていた。

『では、きっとわたし達は似ているのですね。ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているように、わたしも貴方を思っているのだと』
『貴方は旅を続けて、あらゆることを知るでしょう。そして全てを知った時、きっと私を軽蔑します。それが今は、少しだけ恐ろしい』
『迷ってもいいんですよ。悩んでもいい。それは悪いことではありませんから。
その迷いに答えが出なかったとして、それは当たり前のことなのですよ。世の中にはそうした問いの方が遥かに多いのですから』

『貴方は間違っていません。仮に間違っていたとしても、わたしが支えます』
シアさん、貴方は何も解っていない!貴方が大切だと思う人物の数だけ、貴方も同じように思われているのだと、どうして気付かないのですか』

『貴方の望む真実が見つからないのなら、貴方がそれを真実にしなさい』

これは、彼の言葉なのだろうか。この優しい人が紡いだ、言葉なのだろうか。
けれど、何かがおかしいと感じていた。その言葉に引きずられるようにして浮かび上がってきた「名前」は、目の前にいる彼のものではなかったからだ。
それらは、たった今、浮かび上がってきたこの言葉達は、おそらくは私が最も慕い、大切に思っていた相手、……他でもない「アクロマさん」のものである筈だったのだから。

その、時に囁くように紡ぎ、時に怒鳴りつけるように発し、時に柔らかな笑みと共に吐き出された、その柔らかなテノールは、確かに目の前の彼と同じものだ。
けれど、この言葉は「アクロマさん」のものだ。「ゲーチスさん」のものではない。
どうしてだろう。どうして、こんなにも不思議なことが起きてしまうのだろう。私は何を見落としているのだろう。
私は、私の記憶すら信じてはいけないのだろうか。真実は何処にあるのだろう。何が間違っているのだろう。嘘は、何処にあるのだろう。

「私達はとてもよく似ているから。……だから、私が貴方を思っているのと同じように、私も貴方を思っている……」

「!」

「貴方は間違っていない、仮に間違っていたとしても、私が支える……」

私は縋るように彼を見上げた。彼の目には紛れもない恐怖の感情が映っていた。

「これは、貴方の言葉ですか?」

そんな筈はない。だってこれらは「アクロマさん」の言葉だ。あのスケッチブックに描かれた、緑の髪に赤い目をした、彼のことだ。ゲーチスさんのことではない。
けれど、その柔らかなテノールは紛れもなく、目の前の彼のものだ。
私の記憶は明らかに、これらの優しい言葉の主が「アクロマさん」であると告げている。それなのに、その言葉を紡いだ柔らかなテノールの主は、目の前のゲーチスさんだ。
噛み合わない。真実が、どうしても見つからない。

「ええ、それはわたしが、貴方に向けた言葉です」

しかし、彼のそんな言葉に湧き上がってきたのは、自分の記憶すら信じられないのだという絶望でも、益々遠ざかってしまった真実への落胆でもなかった。
それは紛れもない、安堵だった。私は心から安心したように微笑み、彼はそんな私に驚いたように目を見開いた。
私は今だけは、自分の記憶よりも、彼のその肯定を信じることを選んだのだ。

「よかった、貴方のことを思い出せて」

真実など、どうでもいい。
そんなことを一瞬でも思ってしまう程に、目の前の優しい彼のことを少しでも思い出せたことが嬉しかった。
今は、他に何も要らなかった。これ以上、私の失くした記憶が彼を傷付けることはあってはならなかったのだ。
少しだけ赤くなった目で、私を気遣うように見つめるこの優しい人のことを、私はどうしても思い出さなければいけなかったのだ。そして、それはようやく実現した。

「私が自分の鞄を調べたり、他の人に尋ねたりして聞いた情報の中に、貴方に関するものは一つもなかったんです。全て「アクロマさん」のものでした。それがとても、悔しかった。
だから、貴方のことを少しでも思い出せて、とても嬉しいです」

この人が私にとってどういう存在だったのかはまだ、解らない。けれど確かに解るのは、この人は私のことを大切に思ってくれていた、ということだった。
彼の目に、声に、それは表れていた。だからこそ、記憶の失くした今となっても、その思いを裏切るような真似はしたくなかった。
想いに裏切られるその苦しさを、私は経験したことがない筈なのに、とてもよく知っていたからだ。私は彼の思いに応えたかった。それは確かな私の真実だった。

「『貴方の望む真実が見つからないのなら、貴方がそれを真実にしなさい』」

私は記憶の中にあった柔らかなテノールを引っ張り出して、微笑んだ。彼は驚いたようにその金色の目を丸くした。
私は、私を大切に思ってくれるこの人の、その思いに応えたい。それは紛れもない私の真実だった。私が信じられる真実は、今のところ、これだけだった。
それでいい気がした。私の望む真実が見つからないのなら、私がそれを造り上げればいいのだ。
私が確かに信じられる「何か」は、きっと記憶の中にではなく、今にあったのだ。

「……シアさん」

私は思わず顔を上げた。彼が私の名前を呼ぶその声が、恐ろしい程に真剣だったからだ。
小さく息を飲んで、私は彼の次の言葉を待った。そうして少しの沈黙の後で彼が紡いだ言葉は、私を驚愕させるに足るものだったのだ。

「わたしは貴方に、一つだけ嘘を吐いています」

「え……」

「それが貴方にとって最善の嘘だと思っていた。わたしだけではなく、貴方を大切に思う全ての人が、貴方にとって最善だと考えられていた嘘を重ねた。けれどそれは間違いだった。
わたし達の嘘は、貴方の首を真綿のように締め上げていたのですね。……それこそ、貴方の息を止めてしまう程に」

伸ばすのを止めていた、真実を探る私の手が、またゆっくりと動き始めるのを感じていた。
彼等の嘘とは、何なのだろう。私が直感で、無条件に信じてきたこの人の、唯一の嘘とは一体、どれを指しているのだろう。
彼が告白した「一つだけ吐いた嘘」という言葉に、私の心臓は大きく揺れ始めていた。
けれど私は、その一方で確信していた。この人はもう私に嘘を吐かない。
彼の唯一の嘘がもう吐かれてしまった今、その嘘がどれなのかが解らなくとも、彼がこれ以上、嘘を吐けないことは解った。彼はそうした優しい人間だった。

「苦しい思いをさせてしまって、本当に申し訳ありません」

泣きそうな顔で謝罪をした彼に、私は首を振って笑った。
だって、私も貴方達を苦しめていたのだから。私が悔しさと苦しさに泣いていたのと同じくらい、もしかしたらそれよりもっと、私も彼等を傷付けていた筈だから。

そう、後は私が全てを思い出しさえすればいい。そしてそのための手助けを、きっとこの人ならしてくれる。

2015.2.22

© 2024 雨袱紗