B 夏ー10

沼地を越え、橋を渡り、大きなデパートを通り過ぎ、私はソウリュウシティに辿り着いた。古風な石レンガの街並みを歩く。
進化したバニリッチがボールの中から出して欲しそうに見上げている。
出してあげたいな、とも思ったけれど、生憎、此処は街中で、ボールからポケモンを出して連れ歩くなどという酔狂なことをしている人物は皆無であった。
目立つことはしたくなかった。私は誰にも「英雄」などと見られたくはなかったし、誰にも視線を向けられたくはなかった。

「……ごめんね」

私はボールに向かってそう囁く。囁いてから、ああ、成る程、と思う。
きっと今、バニリッチは私に対して、ささやかな不満の感情を抱いている。そしてもし此処にNが居たなら、きっとその心も聞こえてしまっていたことだろう。
そんな風に、ポケモンをモンスターボールに閉じ込めることを、彼はとても嫌っていた。……そして、誰も彼が間違っていたなどと豪語することなど、できないのだ。

私は10番道路に抜けるゲートへと歩みを進める。
そういえば此処でアララギ博士に呼び止められたな、と思いながら、彼女の言葉を思い出してみる。

『ポケモンと一緒に旅立ったこと、後悔している?』

この場所で彼女にそう尋ねられたとき、私は「いいえ」と答えた。しかしそれは、ポケモンとの旅が心底楽しかった、ということを意味した返答ではなかった。
そんな穏やかな感傷に浸る暇など、私にはなかった。いつだって、何かに、誰かに、何もかもに、誰もに、急き立てられるように旅をしていた。
後悔なんて、したところで何の意味もないことを私は知っていたのだ。どのみち私はもう戻れないと、解っていたのだ。
だから「はい」などと答えたところで、私が、虚しくなるだけだったのだ。あの「いいえ」は、彼女のために、そして私のためにも必要な言葉だった。

……それに、私はポケモンといる時間が大好きだ。
バトルをする時の、私の心を突き上げるような感動や、新しいポケモンにボールを投げる時のあの高揚感。そして仲間になったポケモンに挨拶をする時の、あの優しい気持ち。
私の世界は、旅に出て確実に変わった。

そして、私の世界を変えたのは紛れもなくポケモン達だけれど、私を変えたのは紛れもなく、あいつだった。
初対面から訳の分からないことを言ってきて、やたらと私に固執する、そんな彼のことが私は気に食わなかった。
にもかかわらず、新しい土地、新しい町に訪れる度に、私は彼を探していたように思う。

『あんたが思っているよりも、私はずっと臆病な人間なの。だからこうして乱暴な物言いをして、どこまでも強気に出てなきゃやってられないのよ。』
そして私はあろうことか、敵である筈の人物に自分の本音を見せてしまった。
あの時はそれを、苛立ちが生んだ失態だという風に認識していたが、実はあの発言は故意に為されたものだったのかもしれない、とさえ思い始めていた。

私は「誰か」に、自分を知ってもらいたかったのかもしれない。

いつからだろう、と私は歩きながら考える。
観覧車の中で『キミのその思いを認めてあげる』と言われた時からだろうか。
あるいは彼の前でみっともなく涙を零したあの時からだろうか。
それとも、カラクサタウンでいきなり早口でまくし立てられた、あの始まりの瞬間からだろうか。

いずれにせよ、私は「彼」に、自分を知ってもらいたかったのだろう。
それと同時に、私は彼のことを知りたいと思い始めていたのだろう。

**

記憶の中の私は、Nの城の廊下を駆けていた。
立ち塞がった七賢人の相手は、ジムリーダーの皆がしてくれていた。彼等が私に道を譲る理由は、私の手に握られているダークストーンだ。
私でなければいけない理由が、この小さな玉に込められていた。だから私は、足を止める訳にはいかなかったのだ。
……しかし。

『私は入っても何とも思わないが、お前なら何か感じるかもな。』

ダークトリニティと呼ばれる黒服の男の一人が、私に向かってそう呟く。
私の歩みを妨げようとしているのかとも思い、私は警戒しつつ肩を強張らせたが、彼のその目は不気味な程に穏やかだった。
何より「N様に与えられた世界」という言い方が、私にはとても気になったのだ。
だから私は進むべき方向からくるりと向きを変え、寄り道として、その部屋に足を踏み入れてしまった。

その瞬間、異様なまでにカラフルな色彩が私の視界を抉り取った。

『……。』

ぱっと見た第一印象は「子供部屋がそのまま残されている」というものだった。毒々しい鮮やかさは何故だか私を不安にした。
電車のレールには最近遊んだような跡があり、壁に掛けられたアートパネルにはダーツが刺さったままであった。
バスケットゴールには電車のおもちゃが突き刺さっていて、そこに投げ入れられる筈のボールは、空を描いた床に転がっていた。

私より年上であった筈の彼の部屋は、彼の世界は、私よりもずっと幼く、暴力的で、異常なものだった。

違う、違う、と私は繰り返しながらその空間を歩いた。
青い空や白い雲は、床に敷き詰められるべきものではない。電車のおもちゃはバスケットゴールに突き刺さるべきものではない。
誰もいないときに電車のおもちゃを走らせ続けるべきではない。ダーツが突き立つ場所は幾何学模様のアートパネルであっていい筈がない。

此処は17歳の青年が「世界」とすべきものではない。

『Nは幼き頃より人と離され、ポケモンと共に育ちました。
悪意ある人に妨げられ、虐げられ、傷付いたポケモン。ゲーチスはあえてそうしたポケモンばかり、Nに近付けていたのです。』

平和の女神と名乗った、彼女の言葉が脳内で反響する。背筋を冷たい何かが伝う。
壁やおもちゃに付いた、ポケモンの引っ掻き傷を指でなぞる。彼の白い肌が脳裏を掠める。

『Nはその傷を分かち合い、ポケモンのことだけを考え、真実を求めるようになりました。』

彼がやたらと私達、ポケモントレーナーに執着していたのは、彼等を憎まざるを得ないそれまでの時間があったからで、
ドライヤーや小説を知らなかったのは、そうした人との関わりが極端に絶たれた環境に彼が置かれ続けていたからで、
彼に見出せたあらゆる矛盾は、彼の思いと彼の背負った使命との葛藤が生み出したもので、
そもそもあの訳の分からない言動やおかしな早口の答えは、全てこの城とこの部屋が差し出してくれるのであって。

つまり私は、彼のことを何も知らなかったのだ。
彼はあんなにも私を知っていたというのに、こんなにも私は彼に知られているというのに、私は何も、何も。

私は空の描かれた床に座り込んだ。近くにあったバスケットボールを抱える。
徐に両手でくるくると回せば、「ハルモニア」という文字を見ることができた。確か「調和」を意味する単語だったような気がする。
私は目を閉じて、彼の言葉を思い出していた。

『ボクはポケモンというトモダチの為、世界を変えねばならない。』
『ボクとボクのトモダチで未来を見ることができるか、キミで確かめさせてもらうよ。』
『世界を変える為の数式。キミはその、不確定要素となれるか?』

『トモダチの声と、キミがボクに見せる姿とが噛み合わないから、おかしいとは思っていたんだ。声に聞くキミはもっと繊細で、優しい人だからね。』
『それにしても、キミはおかしいね。……とても、おかしなことを言う。』
『不思議だね。ヒトの思いや意見はこうやって化学反応を起こすものなのか。』

『キミのその思いを認めてあげる。……だから、ボクを止めてごらん。』

私は立ち上がり、ボールをバスケットゴールに投げた。ゴールに刺さっていたおもちゃの電車にボールは勢いよくぶつかり、電車をゴールから弾き飛ばした。
降ってきた電車を両手で受け止めて、レールの上にそっと置いた。ボールは空の床に落ちて、私の足元へと転がってきた。

ああ、なんだ。そういうことだったのか。
私は笑った。視界がぐらりと揺れたような気がしたけれど、気のせいだと言い聞かせた。泣く必要など、まったくもってないと解っていたからだ。

彼の閉じた世界。彼の悲しい傷跡、彼の歪んだ色彩、彼の完璧な数式。
それらにを知った私が、ようやく知ることの叶った私が、彼に同情するとか、その異常性に恐れをなすとか、そんな「優しい」ことは起こらない。起こりようがない。
私は私の旅をめちゃくちゃにかき乱していったあいつを許さないし、そんな彼を可哀想などと思ったりしない。だから私は彼と戦う。負けない。諦めない。

『自分を大事にできない不器用なあんたの思いは、私がちゃんと拾ってあげる。私は私の為に戦うけれど、そのついでにNのことだって救ってみせるわ。』

それに、これであの誓いを躊躇いなく果たすことができる。

私は彼の世界を飛び出して、長い廊下を駆け抜けた。足は力強く地面を蹴っていた。階段は二段飛ばしで駆け上がった。
下らない寄り道をしたせいで彼を随分と待たせてしまった、なんて、そんな、少しばかり楽しいことさえ考えた。考えることが、できていた。

私は臆病で怖がりだった。誰にも嫌われないように、誰にも拒まれないように生きてきた。
だからこんな風に、誰かに真っ向から対立するのは初めてのことで、その規模も相まって、私は少し、緊張していたのかもしれない。
けれどもう大丈夫、大丈夫だ。私は彼に拒まれない。私は彼を恐れない。大嫌いな彼に、手を伸べることを躊躇わない。
だって彼はずっと、私に訴えていたのだから。

『ボクを止めてごらん。』

あれは、嘘を吐くことを知らない彼の、紛うことなき心からの願いであったのだから。


2014.11.3

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