B 夏ー11

10番道路にやって来た私は、モンスターボールを取り出した。
あの日からずっと私の手持ちに居たのに、私はこのポケモンを外に出すことができなかったのだ。

勿論、その理由はいくらでも思いつく。
先ずこのポケモンは大きすぎる。街中で出そうものならたちまち注目を浴びるだろう。
それにあまりにも有名で、あまりにも珍しいポケモンだ。そのポケモンを連れていれば、私が誰かということが一瞬にして見破られてしまう。
繰り返しになってしまうけれど、私は誰にも見られたくなかった。私を「英雄」だとする全ての視線から逃れてしまいたかった。
だからその「英雄」の象徴であるこのポケモンを、隠しこそすれ、外に出してあげたいなどと思える筈もなかったのだ。

……とまあ、それらは全て私のための理由であって、このポケモンを小さなボールの中に閉じ込めておく理由にはならない。
だから私は、人気のないこの道路でボールを投げて、その大きすぎる存在をイッシュの夏空の下へと導くことを選んだ。

「あんたをずっと閉じ込めていた私のこと、もうそろそろ、嫌いになった?」

ゼクロムはその鋭い目で、静かに私を見下ろしていた。

「あんたを出したくなかった。あんたを見たくなかったの。嫌なことを思い出すから。
……あの時、ダークストーンを叩きつけたでしょう?私、本当はあんたを受け取りたくなかったのよ」

私は草むらに座り込み、両足を地面に投げだした。寝転がって、空を見上げる。
雲が流れていくところを視線で追い掛けようとしたのだけれど、雲らしきものを見つけることが叶わない程に、今日の空は晴れ渡っていた。
……ああ、そういえば、ダークストーンを受け取ったあの日も、こんな天気だった。おそろしく綺麗な空の下で、私はささやかな勇気を振り絞ったのだった。

**

『嫌です。』

私は自分の口から出た言葉が信じられなかった。アデクさんやアロエさん、二人のアララギ博士に、ベルまでもが驚いていたが、誰よりも私自身が驚いているという自覚があった。
どうしたのだろう。どうして嫌だなんて言ったのだろう。今までずっと求められるがままに走り続けていたのに、どうして貫き通せなかったのだろう。

簡単なことだ。私はこのダークストーンを受け取りたくなかった。そんな伝説のポケモンの力に頼らずとも、私はNを止められると思ったからだ。
その自信を、私はバッジを7個手に入れるまでの長い旅で手に入れていたのだ。
更に言えば、このダークストーンを持っていなければあいつと戦う資格がないという理論にも釈然としなかった。
そして、その理論を鵜呑みにしながら、その「資格」をこんな14歳の子供に押し付ける大人達のことも気に食わなかった。

どうしてこの人達は、プラズマ団の目論見を止めるための行動を起こさないのだろう。私はそれが心底不思議だった。
レシラムを従えたから何だというのだ。伝説のポケモンがそんなに凄いのか。そんな力を持っていなくたって、私は彼と戦える。その覚悟と勇気がある。
しかしこの大人達は、その伝説のポケモンに怯み、それに対抗できる手段を血眼になって探して、……そして、やっと見つけたそれを、あろうことか私に押し付けている。
気に入らなかった。何もかもが狂っていると思った。

しかしそれらはあくまでも私の本音であって、私は笑顔で大人達に押し付けられたダークストーンを受け取らなければならない筈だった。
頑張ってみます、という無難な言葉を紡いで、彼等の期待通りにゼクロムを従える筈だった。
旅の仲間がまた新しく増えただけのことだ。そう言い聞かせて、そのダークストーンの重みを気にしないようにしていく筈だった。
何故なら、そうしなければ嫌われてしまうからだ。彼等に拒まれてしまうからだ。

『……嫌、です。』

それなのに私の口は、拒否の音を紡いだ。拒絶することができるようになっていた。
私はもう、誰かに嫌われることを恐れない。恐れなくていい。だって私には、もう。

『では、Nの望む世界……ポケモンが人から解き放たれる世界を待つのか?』

『……。』

『それでも、頼む!いざという時の為に、ダークストーンを受け取ってくれ!』

アデクさんのそんな懇願を聞き終えるや否や、私は目の前の狡い大人をきっと睨み付けた。
続いて、アロエさんとアララギ博士を同じ目でそれぞれ貫いてから、大きく一歩を踏み出して、ダークストーンを引ったくった。
唖然とする彼等に私は一言も言葉を発することなく、踵を返して駆け出した。トウコ、と私を呼ぶベルの声がしたが、聞こえない振りをした。

足を必死に動かして走った。ヤグルマの森に飛び込んで、薄暗い道を真っ直ぐ駆けた。
青空の下に出ても、私は走り続けていた。どこまで走っても足りない気がした。あいつらが追ってきているような気がして、足を止められなかったのだ。
スカイアローブリッジを半分ほど渡ったところで、私はようやく立ち止まった。

心臓が張り裂けそうな程に大きく弾んでいた。
乱暴に繰り返される呼吸を整えながら、私はダークストーンを握った手を大きく掲げて、

『こんなもの……!』

そのまま、強く叩き付けた。

カン、と鋭い音のしたその黒い石は、しかし砕けることなく橋の上をコロコロと転がり、私の足元へと戻ってきた。
それを拾い上げながら、私は自分がとんでもないことをしてしまったと気付き、さあっと血の気が引くのを感じていた。
もし、このダークストーンが丈夫なものではなく、さっきの衝撃で粉々に砕けてしまうようなものだったら。
それだけはいけない。ゼクロムとやらには何の恨みもないし、仮に恨みがあったとして、ポケモンを傷付けるなどということが許される筈がない。

『……八つ当たりをしてごめんね、あんたのことが嫌いな訳じゃないのよ。』

私はダークストーンを拾い上げ、傷が付いていないことを確認しつつそう呟いた。
鞄にそれを仕舞ってから、空いた手で胸元をぐいと押さえつけてみた。そうでもしないと、心臓が飛び出してしまいそうだったのだ。
この暴力的な心音は、しかし激しく走り過ぎたことのみを原因としている訳ではないことを私は解っていた。
そりゃあ、生まれて初めてあのような、反抗的な態度に出れば、平穏に慣れ過ぎていた私の心臓はびっくりして然るべきだ。
だからこれでいい、この鼓動は正しい。そう言い聞かせつつ、乾いた笑いを零してみせた。
橋の上に吹きすさぶ風はびゅうびゅうと鳴り、私とダークストーンの間に生まれた沈黙を乱暴に埋めてくれた。

もっと早くに気付くべきだったのかもしれない。
私は自分だけの為に彼と戦っていたけれど、その規模はとてもではないが、私とNとの間で収まりがつくものではなくなってしまっていたのだ。
彼はイッシュに住む全てのトレーナーに、ポケモンの解放を呼びかけることを使命としている。
そんな彼に私が対抗するということは、イッシュに住むトレーナー、全ての味方に付いていることと同義らしい。
そんなつもりはなかった、と言っても後の祭りだ。あまりにも多くのことが進み過ぎていた。私を英雄にするための準備は、もうすっかり整ってしまっていた。

「嫌です」と拒むのが、遅すぎた。

**

「ポケモンの声も聞こえない、大した正義感も持っていない、そんな私を、どうして認めてくれたのか未だに解らないわ」

私はゼクロムの背中にひょいと飛び乗った。

「私を英雄なんてものに選んだこと、後悔させてあげる。……さあ、手始めにサザナミタウンに飛んで頂戴。
伝説のポケモンの背中に乗るのなんて初めてだわ。さぞかし快適な空の旅になるんでしょうね、楽しみ!」

にっこりと満面の笑みを浮かべた途端、ゼクロムはその真っ黒の大きな翼を羽ばたかせて飛び上がった。
とんでもないスピードで空を駆ける。物凄い風圧に呼吸が危ぶまれる。

「わ、ちょっと待って、速い、速すぎ!息ができない!」

それがゼクロムの悪ふざけであることに気付いたのは、私のその言葉にスピードが緩まったことを知ってからだった。
ありがとう、とても快適よ。そう囁けば、ゼクロムは得意気に空中でぐるりと回転してみせた。
「ソウリュウシティ上空にて、異様な旋回を続ける黒いポケモンの影を発見」そんな噂を、私が耳にするのはずっと後のことである。


2014.11.3

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