B 夏ー12

「あら……?」

サザナミタウンのとある邸宅で、私は黒い服を身に纏った金髪の女性と出会った。
とても美しい、不思議な雰囲気のある女性だ。長身である彼女を、自然と私は見上げる形になる。
すると何を思ったのか、彼女はそっと手を伸ばし、私のキャップをつまんで頭から外し、私の目を覗き込むようにじっと見つめたのだ。
反射的に私もその人の目を見つめ返すことになってしまう。なんて長い睫毛だろう、とささやかな憧れの気持ちを抱いていると、彼女は優雅な瞬きの後で口を開いた。

「……ああ、ごめんなさい。貴方の目が知っている子によく似ていたものだから、つい」

そう言って笑った彼女は、名前を「シロナ」と名乗った。シンオウ地方という、此処より北にある場所の出身らしい。。
考古学者を仕事にしているという、サザナミ湾にある海底遺跡を調べるために、つい最近、この別荘にやって来たという。

「まあ、本当の姿はシンオウ地方のリーグチャンピオンなんだけどね」

「え、……貴方が?」

とんでもないことを告白した彼女は、使い古されたモンスターボールを高く掲げて、とても楽しそうに微笑んだ。
私は自分のことを殆ど話さなかったし、外から来た人間が彼女は私がポケモントレーナーであること、それも相当の実力を持った人間であることを、どうにも確信している様子だった。
その「楽しそうな笑み」には、どうにも「久し振りに全力で戦える相手に出会えた」ことへの歓喜が、溶けているように思われてならなかったのだ。

ポケモンバトルは好きだ。大好きなポケモン達が活躍してくれるのは嬉しいし、最良の指示を出せたときの高揚は何物にも代え難いものがある。
シンオウ地方という場所のチャンピオンと戦える、そんな貴重な機会を、私がみすみす断る筈もなかった。
しかし、その戦いの舞台は少なくとも、この上品な別荘の中であってはいけない気がした。
屋内でバトルをすることがどのような惨事を生むかということを、初めてのポケモンバトルで経験していた私は、苦笑しつつドアを指差した。

「取り敢えず外に出ない?折角の綺麗な別荘が滅茶苦茶になってしまうわ」

明らかに年上の女性、敬意を表して然るべき相手であるこの人に対して、けれども私は丁寧な言葉を使わなかった。
今の私が敬語を使ったところで、それは慇懃無礼なものにしかならないような気がしたし、
何よりこの女性は、私の口調がどうであろうと私に対する態度を変えないだろうと思えたからだ。

そんな女性、シロナさんは外へと出るなり、ボールなら見た事のないポケモンを取り出してみせた。
先鋒として繰り出したダイケンキ、彼とのタイプ相性が全く解らない。有利なのか、不利なのか、そうした予測がまるで立たない。
ハイドロポンプは通るだろうか。特性はどんなものだろうか。どんな技を繰り出してくるのだろう。避けられるだろうか、受け止めきれるだろうか。
手探りのポケモンバトルは本当に久し振りで、その高揚に心臓が大きな音を立て始めていた。
どんな展開になるのか全く分からない。だからただ懸命にぶつかるしかない。そんなバトルはとても久し振りであるように思われた。
少なくとも、最後にあいつと戦って以来、私はこの感覚をすっかり忘れてしまっていた。

**

ポケモンリーグを勝ち抜き、Nの城へと潜入し、謁見の間、とかいう大仰な名前の場所で、私はNと対峙した。
そこで反応した私のダークストーンは、真っ黒なゼクロムというポケモンへと姿を変え、レシラムに引けを取らない威圧感と神々しさで私を圧倒した。
こんなポケモンを従えられるだけのポケモントレーナーが、よりにもよって「私」である。その事実は私を混乱させたけれど、その混乱は私の決意を邪魔しなかった。
この立派なポケモンがいなくとも、こいつが私を選ばずとも、私のすべきことは変わらない。迷う必要など何処にもない。
けれども折角、このような形で出会えたのだ。私の我を通すためにちょっとだけ力を借りたところで、罰など当たらない気がした。

『ボクには未来が見える!絶対に勝つ!』

大声で為されたNの宣言は、勿論、虚言などではない。彼は本心からそう言っている。
だからこそその声音は痛烈で、悲惨で、私はどうにも胸が締め付けられてしまう。

白くて美しいポケモン、レシラムを従えた「英雄」は、真っ直ぐに私を見据えている。そしてゼクロムを従えた私もまた、英雄だということになるのだろうか。
そんな歯の浮くような肩書には何の興味もなかったけれど、でも彼と同じところに靴底を揃えられるのなら、それもいい気がした。

『私はこんなポケモンの力なんてなくてもあんたを止められるけれど、折角だから神話とやらに従ってあげるわ。そしてついでに、あんたのことも救ってみせる。』

私は勝つ。自信たっぷりにそう宣言した私の手は、けれども弱々しく震えている。
此処で負けてしまえば全てが終わりだ。緊張しない筈がなかった。けれども不思議と、不安ではなかった。
ここで不安を抱くことは、今まで私と旅をしてきたポケモン達への裏切りに相当する気がしたのだ。
私は、レシラムの向こうで佇む王に報いたい。けれどもそれ以上に、私を慕ってくれる大切なポケモン達の想いに応えたい。

『あんたはさっき「どちらの思いが強いか、それで決まる」って言っていたけれど、それならもう、あんたの負けは確定していることになるわよ。』

『……どういうことだい?』

『だって、あんたもポケモンが大好きなんでしょう?ポケモン達も、あんたのことが大好きなんでしょう?
あんたを慕うポケモンの心が、私にさえ解ってしまうその思いが、あんたに、聞こえていない筈がないわ。』

だから、もしNに未来が見えているのなら、それは敗北の未来である筈なのだ。
彼の論理はずっとずっと前から破綻している。矛盾だらけのこいつの信念は、もう私を打ち負かすだけの力を持ってなどいない。
彼も私もポケモンが好きで。彼も私も自らのパートナーに慕われている。同じところにいる私達がこうして戦う理由など、本来ならきっと、ない。

それでも彼がこの戦いを止めようとしないのは、自分が背負った業を理解しているからだ。
私が大人達に押し付けられ、拒絶した「英雄」としての役目を、彼は最後まで果たそうとしている。
その覚悟を知っている私が、その役目を受け入れる苦しさを知っている私が、彼との戦いを拒んでいい筈がない。拒んではいけない。
それでも、彼の中にある葛藤を私は見逃さない。私を敵と見る彼を、私は仲間だと、同士だと思っていたい。

私はボールを投げた。視界を覆った漆黒の身体に、私と彼との理想を託す準備はもうとっくに出来ていた。

Nの最後の手持ちである、ゾロアークが倒れたその瞬間、私の胸を占めたのは間違いなく安堵だった。
よかった。勝てた。負けたらどうしようかと。いや負ける筈がない。だって皆、頑張ってくれた。私は皆の想いに応えられた。
でもこれで終わった。もう戦わなくていい。もうNを比定しなくていい。もう英雄なんかにならなくていい。もう、いいんだ。
短い言葉が、私の脳内で一気に膨らみ、次々に弾けていった。深く吐いた溜め息も、ボールを握った手もまだ、震えていた。
人の身体は緊張や恐怖にばかり震えるのだと思っていたけれど、どうやら安堵にも同じような震えを起こすらしい。

彼はゾロアークをボールへ仕舞った。労いの言葉をかけることさえ忘れていた。
あまりにも静かな姿だった。あまりにも悲しい姿だった。
もし私がこいつと戦わなければ、彼はこんなだだっ広い空間で一人、打ちひしがれることもきっとなかったのだ。

それでも、このポケモンバトルは行われなければいけなかった。私のために、Nのために、私とNが愛したポケモンのために、為させるべき戦いだった。

『キミの数は、世界を変えるための数式は、とても美しいね。』

『……。』

『相反する値を、キミの作る引数は弾かないんだ。ボクにはできなかった。ボクにはその式は、作れなかった。』

私は数字が苦手だ。故に彼が何を言っているのかさっぱり分からない。分からない言語に耳を傾ける気にはなれない。
だから寂しげなその長身に駆け寄って、背伸びをしてその口を手で塞いで、驚きに目を見開くNを真っ直ぐに見上げて、
もうやめようと提案する私の声が、縋るような甘ったれた様相を呈していることにただ、驚いて。
その驚きを誤魔化すように、Nの手に握られたモンスターボールを取り上げて、彼の眼前に、突き付けて。

『ほら、私には聞こえないから、代わりに言葉にして。この子はあんたを恨んでいるの?傷付けられたって憎んでいるの?』

長い、長い沈黙だった。早口を得意とする彼らしからぬ、あまりにも贅沢な沈黙だった。
やがて紡がれた『違う』という言葉は、まるで先程の私の声のように弱々しく、頼りないもので、しかしそのことに、私はひどく安心したのだった。

『それならきっと、そういうことよ。』

私は彼のように聡明ではない。難しい言葉を操って彼を論破することなどできそうにない。彼の編む数式を私は理解できない。
でもそれは彼もまた、同じことだったのだ。彼も何故だか、数学なんてまるで解っていない私に「数式」を見ている。
そしてあろうことか、その式は自分に編めない崇高なものだ、とまで言い出すのだ。

互いに互いのことを理解できない。
彼はポケモンの声を通して私を知り、私もあの部屋を通して彼のことを知ったけれど、それでも分かり合えない「数式」は多すぎて、今の私達の手にはとても負えない。
私の勝利が、全てのポケモンにとって正しいことだったのだ、とか、貴方の考えは間違っていたのだ、とか、
そんな幼稚な数式を押し付けるつもりは更々ないし、もうそんな風に喧嘩腰で言葉を交わす必要など、きっとない。
この不毛な、けれども不可欠な戦いはもう、終わったのだ。

きっと彼が見てきた、悪意ある人に虐げられ、傷付いたポケモンにとっては、私の勝利は更なる苦しい時間を保証するものにしかなり得ないのだろう。
私の勝利によって、ポケモンと人とが共に生きる世界が守られたとして、喜ぶトレーナーやポケモンばかりではない、ということだって弁えている。
けれどそんなことで私の思いは揺らがない。私は無力だ。解っていた。
どんなに思案に思案を重ね、最善の結論を出したとしても、きっと誰もが誰もを救うことなどできない。解っていた。
だから私は、絶対に譲れないものを絞って、その為だけに私の力を使うことにしたのだ。

誰に何を言われようと、譲れないものは確かにあって、私の場合、それがポケモンと「彼」なのだと。
そう誓って、ここまで戦ってきたのだ。だからもう躊躇わない。

『それでもワタクシを同じ、ハルモニアの名を持つ人間なのか?』

ただ、私は浅はかだった。彼との戦いだけで彼を救えると、本気で思っていたのだから。
この後の戦いで、私は彼が背負っていた荷物の重さを、彼を縛っていた糸の太さを、嫌という程に思い知ることになる。

**

「ふふ、楽しかったわ。こんなにわくわくしたの、いつ以来かしら!」

「……あはは、私も、楽しかった!」

シロナさんは最後のポケモン、ミロカロスをボールに戻して笑った。
私の手持ちはゼクロムしか残っていない。あっさりと勝たせてもらえる相手ではないような気はしていたけれど、まさかこれ程までに苦戦させられるとは思わなかった。
けれども、何故だか「負ける」とは思わなかった。そうした恐れを抱くことを、私はすっかり忘れていたのだ。
負けたらどうしよう、勝てないかもしれない、とバトルの前に考えこそしたけれど、
いざ自分のパートナーを挟んで相手のポケモンを見据えると、そうした不安や緊張は何処かへ飛んで行ってしまっていた。

もっとも、これはシロナさんとのバトルに限ったことではなく、私という人間はいつだってそうだった。
私はポケモンと一緒に戦っているとき、この上なく勇敢になれるのだった。

ポケモンセンターに続く砂浜を歩きながら、私はイッシュの観光名所について色々と話したり、ゼクロムが眠っていた石のことを説明したりした。
「ポケモンが石になって眠りにつくなんて素敵ね」と、シロナさんは楽しそうに目を細めて、考古学者ならではの面白い感想を口にした。

「それで、貴方は誰かを探しているの?」

そんな彼女が、何の脈絡もなしにそう尋ねてきたものだから、私はあまりの驚きに「えっ」と声を上げてしまった。
私はゼクロムやレシラムの話こそしたけれど、Nのことも、私の今回の旅の目的も、まだこの女性に話していなかった筈なのに。
唖然とする私に、彼女はクスクスと肩を揺らしながら笑った。

「誰かを探している人の目は、一様にして悲しそうなものなのね。だからすぐに分かったわ」

「……まあ、探している、のかな?でもきっともう、イッシュにはいないと思うわ。この夏で、イッシュは粗方探し尽くしてしまったから」

私のその言葉に、彼女は何かを思い付いたようにポンと手を叩いた。
私よりもずっと小さな子供が悪戯を思い付いたときのような、これからとても楽しいことが起こるということを確信しているかのような、
そうした、まるで宝石のようにキラキラとした心地が、その美しい表情には溢れんばかりに満ちていたのだった。

「それなら私の出身地、シンオウ地方を探してみてはどうかしら?」

「北国かあ……面白そうだけど、寒そうでもあるわね」

「ええ、とても寒くてとても楽しい場所よ」

寒いのは嫌だなあ、と思いながらも、既に私の頭の中では、その見知らぬ北の地方へと旅立つ算段が立てられ始めていた。
それと同時に、私はとある事象を「認める」覚悟を決め始めていた。

私の二度目の旅は、彼との記憶を辿るためのものであると同時に、彼を探すためのものでもあったのだ。
私はこの大嫌いな土地を旅することで、大嫌いだった彼の名残に、彼に、会おうとしていたのだ。


2014.11.3

© 2024 雨袱紗