「はじめまして、私はトウコ。イッシュ地方からはるばる観光に来たの。どうぞよろしく」
「何故、私のことを知っている」
「何故って、あんた、有名人だもの。雑誌や新聞で顔くらいは知っているわ。
それに、雑誌とかの情報よりもずっと詳しいことだって知っている。あんたをことが大好きな人間から色々と聞いたのよ」
ナギサシティの砂浜はあまりにもきめ細やかで、気を抜けばそのままずぶずぶと足が沈んでいきそうな程であった。
砂浜に靴が沈み切る前に、別の足を踏み出し、そうやってやや駆け足で彼の元へと近付いた。
彼は眉根を寄せて露骨に嫌そうな顔をしていたけれど、逃げ出したり、後退ったりすることはしなかった。
生気を感じさせない冷たい瞳が、すっと私を見下ろした。
雑誌や新聞に載っていた彼の姿から、私は彼のことを、大人びた、それこそアデクと同じくらいの年齢の男だとかと思っていたのだけれど、
いざ正面からその目を見上げてみると、色素の薄い二つの瞳が宿した年月は、シロナさんと同じくらいか、あるいはもっと短いのではないかとさえ思われた。
まるで少年のような、……そう、それこそ「あいつ」のような、不安定で覚束ない、すこぶる不機嫌な、目だったのだ。
警察の差し金ではないことを、両手を揚げて説明すると、彼はぽつりと「要件は何だ」と答えてくれた。
「ヒカリがあんたを探している」
簡潔に答えると、彼は再び押し黙った。
私は肩を竦めてとびきり皮肉めいた笑みを浮かべる。狡い大人には、いくら嫌われようが構わない。
それは、春と夏と秋の旅を経て得た、私の信条であり、このいっそ悪者めいた笑みを浮かべることこそが私の自信になった。
誰もに受け入れられることが私の自信となっていた、以前の私はもういない。私はもう、嫌われることを恐れないし、いっそ私の自信にさえしてみせる。
「私はヒカリのために必死に動ける程、優しい人間な訳じゃないけれど、話を聞いていて我慢できなくなったの。
あんたみたいな狡くて、気持ち悪いくらい優しい大人、私は大嫌いだから」
『ギンガ団は、新しい世界を作るために頑張っているって、私は聞いていたの。
アカギさんは団員の人達から本当に尊敬されていて、……でも、アカギさんは皆のことが嫌いだったみたい。』
私はヒカリのあの言葉を思い出していた。
心を深く傷つけられたが故に、自らの心を閉ざし、それでいて団員達の心を掴み、操り、従わせる。
その矛盾を私は不愉快だと感じたが、きっとあの優しい少女はそれを悲しく思ったのだろう。この悲しい人に自分が寄り添えたら。そう考えたと察するのは容易い。
しかし、その悲しさに気付いていたのが、ヒカリだけではなかったとしたら。
「単刀直入に言うけれど、……わざと負けたでしょう」
彼の表情は全く変わらないが、その冷たい目が不自然に瞬きを繰り返したのが分かった。
「今から話すことは、私の単なる推測よ。
あんたは組織の連中を利用しようとしていた。団員の尊敬を一身に受けながら、彼等のことを使えない連中だと吐き捨て、見下していた。
でも、あんたが見下していた下っ端や幹部達は、そんなに「使えない」連中だったのかしら?」
「……」
「きっとギンガ団の団員は早い段階で、自分達がアカギさんにうまく利用されている、見下されていると気付いていた筈よ。
でもこの組織を離れて行くあても無かった。何より彼等はあんたを信頼していた」
この男に、人が集まり尊敬するだけのどのような素質があるのか、私には解らなかったが、きっと七賢人がゲーチスを慕ったのと同じような理由なのだろう。
組織の中には、外にいる人間には到底分かり得ない複雑な事情があるのだ。プラズマ団の歪さだって、私は彼等のアジトであるあの城に入らなければ分からなかった。
きっと私には、ギンガ団の「真実」など到底分からない。分からないということだけしか、分からない。それでいい。それだけで十分だった。
「そこにヒカリが現れて、下っ端や幹部は勿論、あんたとも打ち解けた。ギンガ団の雰囲気は一気に明るくなったでしょうね。
「心を捨てた」らしいあんたが注目した小さな子供に、あんたの部下は全て託したのよ。「私達を止めてくれ」って。
彼等は未知の新世界に期待していたけれど、同時に不安だったのよ。それに、シンオウ地方を滅ぼすことにも渋っていたみたい。……当然よね、彼等にも家族がいるんだもの」
私は肩を竦めた。
組織に属する団員の葛藤を、私はプラズマ団の城で目にしていた。それ故に彼等の思いは理解できたし、納得がいった。
「確かにヒカリはそれなりに強かった。でも、その強さがギンガ団を解散に追い込んだ訳じゃない。ギンガ団の皆が、解散を、計画失敗を、心の何処かで望んでいたのよ。
だから計画を止めようとあんたを探すヒカリを見ても、邪魔しなかった。できなかったの。何処かであんたを止めてほしいと思っていたから。
最後まで新世界を心から望んでいたのは、あんただけよ。……いや、それも違うかもしれないわね」
「何のことだ」
「ヒカリに貰った「心」はどう?素敵だった?」
私のその質問に、彼は初めてその表情を崩した。
誤魔化すことを忘れたその表情には、やはりどこまでも「心」が宿っていて、少年のように粗削りなその感情は、何故だか私の目にひどく眩しく映ったのだった。
きっとヒカリにはそうした力があるのだ。
幼稚で無垢で、難しいことなど何も考えられていないような子供だけれど、そうした存在にしか与えられないものというのも確かにあるのだ。
「私は不完全な人間だ。それを、あの少女に気付かされた。感情を殺しきれない私が、彼女の世界を壊していい道理が見つからなかった」
「……だから、ヒカリを新世界へ連れ込もうとしたのね。あの子に新しい居場所を与えようとした。でも彼女はそれを拒んだみたいね」
「……何もかも知っているのだな、君は」
「そしてギンガ団が解散し、行方を眩ませたあんた達のせいで、ヒカリは物凄いショックを受けている。
……どうして大人って、何も知らない子供を利用したり、強い力を持った存在に何もかもを押し付けたり、用が済んだら何も言わずにそそくさといなくなったりするのかしら」
少しだけ憤ってみせた。本当は彼に対してではない、大勢の狡い大人に対する怒りを、まとめて彼に向けてしまった。
しかし彼が反応したのは「ヒカリがショックを受けている」という部分だった。私は彼の目をじっと見据える。そこには正直な戸惑いと、彼女を案ずる心が確かにあった。
しかしそれを誤魔化すかのように、瞬きの後、視線を逸らす。
「誰かの喪失に心が揺らぐとは、不完全だな。……気に入らない」
「生き物が、独りで完全になれるとでも思っているの?」
生き物、もとい人間というのは、パズルに似ているのかもしれなかった。
欠けていたり、余分にあり余っていたりするそれらを、そのままにしておくのはあまりにも苦しい。何かと合わせたい。誰かと会わせたい。
そして、パズルのピースは、不完全なそれらは、合わさり「完全」のようなものを、目指している。
寂しいという感情は、きっとそんな複雑な心を表現した、とても深い単語なのだ。
「人間って、不完全なのよ。だから、人の傍に在りたいと思うの」
……それは自分に言い聞かせた言葉だったのかもしれない。
私が今も「あいつ」を探しているのは、彼が私に無いものを沢山持っているからで、彼に無いものを私が沢山持っているからなのかもしれない。
あんな出会い方をして、一度は敵対して、今でも訳が分からない存在だけれど、でも確かに、私は彼を求めていた。それはきっと、寂しいからだ。
「私はあんたたちのことに、これ以上深く関わるつもりはないわ。
ただ、ヒカリに大役を押し付けて、全てが終わったら何も言わずに姿を消した、その狡いやり方を私は許せない。
そこまで踏み込んだ関わり方をあの子としたのなら、最後までその責務を果たしなさい。心が大嫌いなあんたでも、あの子の気持ちくらい分かるでしょう」
私はヒカリとそこまで親しい訳ではない。だから本当なら、彼女の為にここまで激情を露わにすることはないのだ。
しかし、きっと私はヒカリに自分を重ねている。そして、この狡い大人にあいつを重ねている。
勝手に私の中に踏み込んできて、勝手に私の心を掻き回して、勝手に居なくなって、最後にあんなことを言って、私の返事を許さないまま消えてしまうなんて、許さない。
だから私はこの人を許さない。彼によく似たこの狡い人を許さない。
八つ当たりかもしれないが、きっとヒカリだって同じように思っている。寂しさばかりが心を埋めているように見えるけれど、きっとあの子の中にも、私によく似た憤りがある。
そして、それだけ勝手なことをしてくれたにもかかわらず、私は、そして彼女は、
「ヒカリはあんたのことが大好きなのよ」
アカギさん、と幼い悲鳴が聞こえた。続いて砂浜を駆ける小さな足音が聞こえてきた。誰がこちらに向かってきているのか、振り返るまでもなかった。
私は咄嗟にアカギさんの腕をぐいと掴み、彼女の方へと押し出した。一歩、彼が踏み出したのと、ヒカリがそのまま彼の腕の中へと飛び込むのとが同時だった。
それは、迷子になった子供が、やっと父親を見つけ出したときのような光景に似ていた。
子供とはぐれて途方に暮れていた父親が、やっと自らの腕に我が子を抱き止めたときの情景に似ていた。
私とあいつよりも、ずっと年の離れたこの二人に、血の繋がりはない。二人は家族にはなり得ない。
それでも彼等の間には、家族に似た、いやそれ以上のもっと強い何かがあるような気がした。
二人は、隣合わせにこうして立っているのが最も自然な姿なのだと、私は何の疑念も抱かぬまま、そう思えてしまったのだった。
「どうして、どうして何も言わずにいなくなっちゃったんですか?ずっと会いたかった、寂しかった……」
「……」
「お願い、勝手にいなくならないで。あなたがいないと、とても悲しい」
嗚咽混じりにそんなことを零し始めたヒカリを、彼は抱き締め返さなかった。ただ静かに、受け止めていただけだ。
けれども長い沈黙の後で、彼の手はやっと動いた。血の気の失せた不健康そうな青白い指先がヒカリの頭に触れて、帽子の上から、そっと撫でた。
「……」
私は安堵の溜め息を吐く。寒いこの地方では、溜め息が白い形を取り、空気に踊る。それが愉快で私は思わず笑った。
直ぐにポケモンセンターに戻って彼女を呼びに行く予定だったけれど、その間に彼が逃げたらどうしよう、ということまで考えていたのだ。
しかし彼女は来てくれた。もう大丈夫だ。私の役目は、これでおしまい。
私は踵を返して砂浜を歩き始めた。こういう時には二人だけにしておくのが気遣いというものだ。
私が急に姿を消したことで、彼女にもう一度喪失のショックを与える訳にもいかないので、連絡先を書いたメモをポケモンセンターに残しておくことにしよう。
この秋の旅で、私は傲慢なことに、「きっと私がいきなり姿を消せば、ヒカリは悲しむ」などと、何の疑いもなく信じ切ってしまっていたのだから、おかしな話だ。
余談だが、このナギサシティはアカギさんの出身地だったらしい。極端に朝方の彼は、早朝の散歩をしている最中だったという。
ヒカリは後に、他の団員や幹部とも再会を果たした。しかしそれらを、私が彼女からの手紙で知るのは随分と先の話だ。
2014.11.5