9
エンジュシティから東に進むと、小さな小島と洞窟を挟んで、チョウジタウンへの道が現れる。
ワカバタウンと同じくらいの静かさが特徴的な田舎町だが、チョウジジムの存在感は大きい。
早速ジムに挑戦しようとしたのだが、ここでも私は見慣れ過ぎた人物と再会することになる。
「そろそろコトネがこの辺りに来る頃かなと思って、待っていたの。頑張っているコトネにプレゼントを渡したくて」
お姉ちゃんは灰色のワンピースのポケットに手を入れ、小さな石を取り出した。
淡い光を放つそれは、特定のポケモンを進化させる石らしい。ひかりの石というのだと、彼女は教えてくれた。
ボールからトゲチックを取り出してその石をかざすと、見たことのないポケモンに進化した。トゲキッスというらしい。
私はお姉ちゃんにお礼を言い、少し余計なことかもしれないが、彼女のことについて口を出してしまった。
「お姉ちゃん。弁護士の勉強はしなくてもいいの?」
「ふふ、今は最終試験の結果待ちなの。これに受かれば弁護士になれるんだよ」
私は驚いた。お姉ちゃんの試験が近いことは知っていたつもりだったのだけれど、まさか既に終わっていたとは思わなかった。
結果が出るまでそわそわしてしまい、じっとしていられず、ポケモン達とあちこちを散歩しているのだという。
手ごたえはあったの?と尋ねると、彼女は首を傾げて困ったように笑った。
「受かってほしい、じゃなくて、受からなきゃいけないの、絶対に」
奔放でマイペースな彼女の口から「絶対」というストイックな言葉が出たことも私を驚かせたが、それ以上に印象的だったのは、その後の彼女の表情だった。
私が旅の中で経験してきたどの感情を当て嵌めても、彼女の表情には合致しなかった。
つまるところ、何かを覚悟するように静かに微笑む彼女の心の内を察することは、どう足掻いてもできそうになかったのだ。
「もうすぐ、裁かれる人がいるから」
故に、そう紡いだ彼女の言葉の意味に、私が気付ける筈もなかったのだ。
裁判など、きっと毎日のように行われていて、それは彼女が弁護士の試験に受かろうと受かるまいと変わらない。
一人でも多くの裁判を受け持ちたいとする、仕事に対する貪欲な姿勢の表れなのかと思っていた。
その「裁かれる人」が、不特定多数を指しているものとばかり思っていた私は、そんな解釈しかできなかったのだ。
「あれから、ロケット団の人には会った?」
私はその問い掛けに首を振る。そっか、と困ったように微笑んだ彼女は、しかし以前と同じように、やはり私を止めなかった。
ロケット団という危ない組織と対峙しようとする妹を、姉であるは否定しないでいてくれる。咎めないでいてくれる。
「コトネは強いね。私も、コトネみたいな真っ直ぐな正義感が欲しかった。だから、時々、コトネのことが少しだけ羨ましいなって、思うことがあるの」
そんなことない。
そう反論しようとしたが、それが音になることはなかった。彼女が私の背丈まで屈み、その空色の目いっぱいに私の顔を映したからだ。
飲まれる。彼女の「青」にこれ程強い引力を感じたのは初めてだった。
「コトネは間違っていない」
「!」
「だから、迷わずに進んでいいんだよ。コトネの強さは、きっと沢山の人を救う筈だから」
間違っていない。
それは彼女が、私に自信を持たせるために発した言葉だったのだろうか。私の背中を押すための文句だったのだろうか。
解らなかった。私には彼女のことは分からなかった。分かるのは私のことだけであった。
私は、間違っていない。
心の中でそう呟くと、私の中で渦巻いていた漠然とした不安が、すうっと消えていった。私に分かるのはそうした、私のことだけであった。
旅に出て、沢山の人に出会えば出会う程、私の心はざわつき、未知の感情は私を目まぐるしく変えていった。
『ここにいるヤドンは全て野生です。私達がどう扱おうと、誰にも迷惑などかけてはいない筈ですが?』
世界のおかしな理不尽を利用する人に憤りを感じたり、
『一人一人は弱いくせに、集まって威張り散らして、偉そうにしているのが許せないんだよ。』
異なる価値観を鋭く突きつけられ、それに賛同も反論もできずにただ虚しく沈黙したり、
『僕に見えるのは、この地に伝説のポケモンを呼び寄せる人物の影……。僕はそれが僕自身だと信じているよ!』
真実を知らずに未来を願い、努力を続けている人に、自分の知る悲しい真実を隠すことを覚えたり、
『お前はポケモンと一緒に強くなる。俺はポケモンを使って強くなる。俺もお前も、ロケット団のような奴らとは違う。』
かと思えば、全く逆の価値観を持った人を肯定してくれる優しさに触れたり、
『貴方のチコリータは……その、もうとっくに進化してもいい強さに達している筈です。』
他人の憶測に揺らいで、目の前の大切なものに向き合うことを忘れそうになったり、
『コトネは間違ってない。』
揺らぐ自分に指針を示してくれる言葉に縋り付いてしまう自分を、少しだけ情けなく感じたり。
私はいつも、誰かの言葉に心を揺らして、誰かの言葉に一喜一憂した。
大勢の価値観や意見によって「私」は大きく揺らいだ。小さくて幸せな世界から飛び出した私は、その揺らぎを少しだけ、怖いと感じていた。
あの小さな世界で生きていた頃は、毎日がもっと単純で平和で退屈で、幸せだった。
毎朝同じように起きて、同じように暮らしていれば、明日も同じように幸せだった筈だ。
しかし今は違う。毎日が旅に出る前よりもずっと複雑で忙しなくて、この時を「幸せ」と括ってしまうにはあまりにも息苦しい。
私はこの、少しおかしな世界に生きる自分をまだ、受け入れられずにいたのだ。
そう、私は受け入れられない。でも、お姉ちゃんがそれを代わりにしてくれる。
お姉ちゃんの言葉が、私よりもずっと上手に私の気持ちをまとめてくれる。お姉ちゃんの笑顔が、私よりもずっと上手に私の揺らぎを許してくれる。
それを狡いことだと知っていながら、しかしそれに縋ることを私は覚えつつあった。私もこの、少しおかしな世界に染まり始めていたのだ。
それは少しだけ悲しいことで、しかし拒むべきことではないのだと。しかし染まりきってしまうことで、失うものは確かにあるのだと。
お姉ちゃんにできなくて、私にできること。彼女はそれが存在すると言うけれど、私にはまだそれが見えない。
それは私がまだ、この世界に染まりきっていないからなのかもしれないと、少しだけ思った。
するとお姉ちゃんは、ふいと私に背を向けた。
俯いて、ワンピースの裾を摘まみ、暫くの沈黙の後で絞り出すように声を紡ぐ。
「もうすぐ、コトネは気付いてしまうと思うの。きっと私は軽蔑されてしまうね」
「……どうして?そんなことないよ。私はお姉ちゃんを尊敬しているし、大好きだよ。今も、これからも」
「ありがとう。……そうだね、軽蔑してもいいから、嫌いにはならないでほしいな。私も、コトネのことが大好きだから」
彼女は静かにこの場を立ち去った。残された私は、しかしその場に長く留まることはせず、進むべき場所へと歩き出した。
たった今、背中を押されたばかりであったからだ。
それは私が初めて抱いた、誰かの思いのために前へと進みたいと願う衝動だった。
*
チョウジタウンから北に真っ直ぐ向かうと、怒りの湖と呼ばれる大きな湖がある。
強い雨が降り注いでいたこの場所で、私はワタルさんという人物と出会った。
「湖の真ん中におかしなポケモンがいる」と言われ、私はスイクンの背中に乗って湖を進んだ。
そこに居た赤いギャラドスに、私の目は釘付けになった。
その赤に強烈な既視感を覚えたことは否定しない。お姉ちゃんもギャラドスを捕まえていて、彼とよく遊んだ私は、この怖いポケモンにそれなりの思い入れがあった。
持っていたモンスターボールを全て使う勢いで、長いバトルの末にようやくゲットすることに成功した。
私はワタルさんに、赤いポケモンの正体はギャラドスであったことを伝えた。
彼によると、この湖のコイキングがギャラドスに突然進化して暴れだすという異変が度々起きているらしい。
チョウジタウンにおかしな電波塔が建てられたことと無関係ではないだろう、と説明してくれた彼は、これからそのチョウジタウンに戻って調査をするらしい。
私は彼についていくことにした。此処へ向かう途中の通行ゲートで、久し振りにロケット団を見かけたからだ。
この事件も、ロケット団が引き起こしたものなのではないだろうか、という、そんな勘が私を突き動かしていた。
新しく加わった水タイプのポケモン、ギャラドスを連れて、私は再びロケット団と対峙することになる。
2014.10.25
「意志」