ミルクパズル

11

どれくらいそうしていただろう。チコリータは随分前に私の頭からぴょんと飛び降り、不安気な表情で私を見上げていた。
私は彼女をそっと抱き上げる。あれだけ迷っていた癖に、結論を出してしまえばその言葉はいとも容易く口から零れ出た。

「私、ロケット団と戦うよ」

チコリータは私の言葉に頷かない。まるで私の心を読んでいるかのよううだった。私の話に続きがあることを察しているかのようだった。

「お姉ちゃんが背中を押してくれたもの。シルバーがこの先の戦いを私に譲ってくれたんだもの。
私が、逃げ出しちゃいけないよね。……ちゃんと、最後まで頑張らなきゃ」

その結果、お姉ちゃんの大切な人と戦うことになったとしても、ロケット団の人達の居場所を奪うことになったとしても、私は逃げてはいけない。
その全てを知っている筈の彼女が「コトネは間違ってない」と、私の背中を押したからだ。

そして、それはシルバーも同じだった。
彼だって、ロケット団と戦うために此処を訪れた筈だ。それなのに、先へ進むことなく立ち去ってしまった。
迷っている私に、この先に居るロケット団との戦いを残したのだ。彼が戦う筈だった道を、彼は私に譲ってくれた。
その意味を、私は正しく理解しなければいけなかったのだ。

それに私はどうしても、このおかしな世界の理不尽が許せない。
私はロケット団の人達の居場所よりも、彼等に怯えることなく暮らせる平和な世界を選びたい。

「……」

沢山の人の思いが私の中で交錯していた。それに押し潰されないように、私はちゃんと私の意見を持っていなければいけなかったのだ。
確かにお姉ちゃんやシルバーの言葉は私の背中を押してくれたけれど、でもその選択は、他の誰でもない私が為したことなのだと。
私が、選んだのだと。

私はアジトの最奥にあるドアを、静かに開けた。

それから私はロケット団幹部のラムダさん、そして女性幹部のアテナさんと戦った。
彼等の口から、サカキさんという人の名前も聞くことができた。どうやらサカキさんは、3年前のロケット団を束ねていたボスらしいが、今は組織を抜け、姿を眩ませているという。
ということは、最高幹部であるアポロさんが、実質のボスということになる。
そんな人物とお姉ちゃんがどうやって知り合ったのか、どうして自分で渡さず、手紙を私に託したのか。
解らないことは数多くあったが、今はとにかく前へ進むしかなかった。

アテナさんとのバトルには、ワタルさんも参戦してくれた。
ドラゴンタイプのポケモンに未だ出会った事のない私に、彼のカイリューの強さは衝撃を与えた。
アジトに生息していたマルマインの暴走を二人掛かりで何とか止めることに成功し、私は彼と別れた。
去り際のワタルさんの言葉が、どうしても引っ掛かっていたのだ。

「ロケット団が復活していたことは知っていたが、その活動はどれも小さなものだったんだ。ここまで大きな騒動になったのは、少なくともジョウトでは初めてだね。
もしかしたら、奴らは何らかの計画に向けて動き始めているのかもしれない。君も気を付けてほしい」

それは私が初めて抱いた、冷たい北風に背中を切り裂かれるような焦りだった。
彼等が流した怪電波のせいで、怒りの湖の生態系が滅茶苦茶になってしまった。
ロケット団は次にどんなことをするのだろう。彼等の行いで、次は何が、誰が犠牲になるのだろう。それを考えると恐ろしく、とても不安になった。

私は焦っていた。その焦りのままにチョウジタウンのジムへと飛び込み、しかしそこで私は思わぬ言葉を受けることになる。

「君は、……そうか、大きくなったね」

ジムリーダーのヤナギさんとのバトルに何とか勝利し、バッジを受け取った私に、彼は優しく微笑んでそう言った。
私は慌てた。何故この人は私のことを知っているのだろう?私が忘れてしまっているだけで、実は以前にこの人と会ったことがあったのだろうか?
しかしどうしても思い出せず、困り果てた私は愚直にも「あの、何処かでお会いしましたか?」だなんて、失礼な質問をしてしまう。
けれども彼は、そんな私の無礼にもかかわらず、すまないねと笑って目を細めた。

「私と君とは、今回が初対面だよ。ただ私は、君のことをずっと前から知っていたんだ。
あれは7年前だったかな……。君のお姉さんがこのジムにやって来て、私は彼女のメガニウム1匹に惨敗してね」

「!」

「彼女は今でも、此処へよく遊びに来て、話し相手になってくれるよ。
君のことは写真を見せてもらって、それで覚えていたんだ。君とお姉さんと、君の双子の弟が映っている写真があっただろう?」

私はポケギアを取り出して、裏に貼っている小さな写真を見せると、彼はぱちぱちと瞬きをして「ああ、これだよ、懐かしいね」と笑った。
この写真は数年前のとてもよく晴れた日に、母が撮ってくれたものだった。私と弟が前で並び、二人の肩を抱くようにして後ろの中央で姉が笑っている。
今でこそ弟の体調はやや好調だが、数年前は外に出られる程に体調が優れている日など本当に少なかった。
故に彼が「元気」であるということがとても嬉しくて、私もお姉ちゃんも、そしてお母さんもはしゃいでいたのかもしれない。
確か彼女も、同じ写真をブックカバーの裏に挟んでいる筈だ。読書が好きなお姉ちゃんはそれを常に持ち歩いていた筈だから、きっとそれを見たのだろう。

「数週間前にも此処に来て「とても素敵な人に出会った」とはしゃいでいたよ」

その言葉に私は息を飲んだ。その「素敵な人」は、ロケット団の最高幹部であるアポロさんのことを指しているのだろうと、察せてしまったからだ。

「彼女は旅をして、多くの人と出会ったけれど、その誰とも深い付き合いをしたことはなかったらしい。
あの子は自由で、奔放が過ぎるところがあったから、他人からすると、そういうところが少し取っ付きにくく感じたんだろうね」

「……」

「友達や恋人がいなくたって、私には家族やポケモンがいるから幸せだと、いつも言っていたよ。でも、本当は寂しかったのかもしれないね」

寂しい?
私は首を捻った。ヤナギさんの口から語られるお姉ちゃんと、私の知る彼女とが上手く噛み合わない。
お姉ちゃんはいつだって、賑やかな世界の中心に居たように感じられたからだ。多くのポケモンと出会い、広い世界を旅して、彼女はもっと幸せになった筈だった。
そんな彼女に「寂しい」という形容はとても似合わなくて、……しかしそれは、どこか真実味を帯びているような気さえしたのだ。

私はお姉ちゃんの奔放でマイペースな性格を嫌だとは思わないし、それがあってこその彼女だと考えている。
しかし彼女の性分は、初対面の人にとっては取っ付きにくく、壁を作ってしまうものだったのかもしれない。
確かに、お姉ちゃんは数え切れない程に多くのポケモンを連れて家に帰ってきたが、人を連れて来たことは一度もなかった。

私は私の背中を押してくれた、優しくて心強い彼女のことを想った。
いつも笑顔を絶やさず、悩みなどこれっぽっちもなさそうな彼女も、私のように悩んだことがあったのだろうか。
寂しさに一人泣いたりしたのだろうか。「誰か」を求めて彷徨っていたのだろうか。

そしてその感情は、私も覚えのあるものだった。
旅をすれば世界は広がり、関わる人も増え、賑やかになるものとばかり思っていた。しかし旅を続けるに従い、世界は私に私自身の孤独を知らしめた。
そして私は、ふと疑問に思う。

こんなにも広い世界の中で、何故私は「一人」なのか、と。

それは私が初めて抱いた、静かな痛みを伴う寂しさだった。

「すまないね、余計なことを言ってしまったかな」

私は泣き出しそうな顔をしていたのかもしれない。慌てて首を振り、そうじゃないんです、と否定する。
寂しさに泣き出しそうになったのではなかった。それも私の悲壮感漂う顔を形成する一因だったのかもしれないが、それだけではなかった。
旅をしてから私が知った沢山の感情、沢山の真実を、私自身が抱えきれずに押し潰されそうな息苦しさに襲われていたのだ。
そんな私を知ってか知らずか、彼は本当に優しく微笑んで、私の寂しさを取り払ってくれる。

「でも、お姉さんも君も、寂しがる必要はないんだよ。君たちにはポケモンが居てくれる」

「あ……」

「君達はこれから長い間、ポケモンと一緒に居られる。それを大切にな」

私やお姉ちゃんよりもずっと長い時間を生きてきたであろう、彼のその言葉はとても重い響きを持っていた。
私は何も答えることができなかった。代わりに大きく頷いた。
私は一人だ。一人は寂しい。けれどポケモン達が居てくれる。

彼に背を向け、歩き出しながら、私は自分の帽子の上に乗った、愛しいパートナーの重さを想って笑った。
ラジオ塔がロケット団に占拠されたと連絡が入る、数分前のことだ。

2014.10.26
「焦燥」「寂寞」

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