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サーナイトは何も言わず、ただ時を止めた私の傍にずっと佇んでいる。
人間のような姿をした、母とも姉とも取れそうなその存在は、けれどもきっと私を憎んでいることだろう。
自らの身体をこんな風にしたのは、そのような場にサーナイトを置かせたのは、他でもないこの私なのだから。
私がこの地下基地に残ろうとさえしなければ、サーナイトは今もまっとうに、時を流せている筈なのだから。
あの時、ボールから出ていたのはこのサーナイトだけだった。
他のポケモンは全てボールの中に入っていたため、彼等の時は止まることを知らず、流れ続けている。
フラダリさんは、私が眠っているほんの5年間の間に、私達のポケモンを「知人」に預けていたそうだ。
その「知人」が誰なのか、私は尋ねなかったし、彼も教えなかった。知ろうとも思わなかった。
時を止めたこの地下に、時を動かし続けている地上の存在を持ち込みたくなかったのだ。私の恐れた全ては、もう此処に在るべきではないと思ったのだ。……名前さえも。
「私を恨んでいるでしょう」
サーナイトは悲しそうに、赤い目を細めて首を振る。賢いこのポケモンは、そうしていつだって優しい嘘を吐く。
私はその嘘に、このパートナーの優しさに、この子が「いてくれる」という事実に、いつだって救われてきた。
サーナイトがいてくれたから、私はこの恐ろしい土地で旅を続けることができた。……けれど。
「私、この土地での旅が終わったら、ポケモントレーナーをやめるつもりだった。
ゲッコウガとリザードンを博士に返して、赤いカサブランカのフラエッテを4番道路の花畑に返して、貴方をあの子に返して、それで……」
サーナイトはただ静かに私の言葉を聞いている。
この子は私の言葉を遮らない。私の口を塞がない。私の思いを否定しない。私を拒まない。
彼女はポケモンで、私はそのトレーナーだ。故に彼女は私を拒みたくても、拒むことができないのだ。
私はその、強引の過ぎる絆に甘えすぎて、凭れ掛かりすぎて、きっと私のポケモン達に、沢山、無理をさせて、傷付けた。
それでも、文句ひとつ言わず私を慕ってくれる彼等のこともまた、私は恐れていた。優しすぎる彼等のことが、そんな彼等を傷付けてしまう私のことが、恐ろしかった。
「もう、何処へだって行っていいんだよ」
私は事あるごとにそう繰り返した。
もう貴方の役目は終わったのだと、あの子のところへ返ればいいと、こんな身勝手なことを言う私を憎んでいいからと、私のことを忘れていいからと、何度も何度も言い聞かせた。
けれどもサーナイトはその全てに首を振り、何もせず、ただ目を伏せて私の傍に在ることを選び続けていた。
可哀想な子だと思った。サーナイトの中に宿った「永遠」という呪いが、彼女に、外に出ることを躊躇わせているのかもしれなかった。
それならばやはり非は私に在り、悔やんだところでもう、どうすることもできなかったのだろう。
「……ごめんなさい」
私は謝った。サーナイトは首を振った。
実りのない会話を延々と続ける私達のことを、フラダリさんはただ静かに見ていた。
*
「長い時を一緒に過ごす相手が私じゃ、つまらないですよね」
クルミの混ぜ込まれた柔らかいパンを食べながら、私は徐にそう呟いた。
彼はカフェオレに口を付けながら「そんなことはない」と苦笑しつつそう告げてくれる。そう告げるしかないのだと、私だっていよいよ解っている。
だって今ここで私の機嫌を損ねてしまえば、私がこの男性を見限ってしまえば、彼は一人になるからだ。
長く、永く、どこまで続くか知れないような永遠を生きる相手を、失ってしまうからだ。
そうしたら、彼はとうとう一人になって、身を引き裂かれるような孤独に耐えなければいけないからだ。
そんなこと、きっと彼は望まない。いつだってカロスに生きる人の幸せを考え続けてきた彼は、たった一人で生き続けるという孤独にきっと耐えられない。
だから彼は、私に最も優しい言葉を紡ぐより他にないのだ。今ここで、私を失ってしまっては、彼が困るからだ。
彼が「そんなことはない」と告げたのは、彼のためであって、私の心を救うためでも、私を慰めるためでもない。そんなこと、ある筈がない。
「永遠を共に生きる相手が君でよかった。わたしは本当にそう思っているよ」
それでも、彼は出会った頃のまま、あの頃の毅然とした声音のままにそう告げてくれる。どこまでも迷いなく私を肯定してくれる。
……私に、此処に居ていいのだと思わせてくれる。
だから私は、ああもしかしたらこの言葉は本当に、彼のためのものではなく私のためのものだったのかもしれないと思いかけて、
もしかしたら彼は本当に、永遠を共にする相手が私であることを喜んでくれているのかもしれないと信じかけて、
……ああ、でもそんなことがある筈がないのだと、こんな立派な人の隣に、私という臆病で卑屈で怠惰な人間はどこまでも相応しくないのだろうと、思い直して、息を吐く。
細く、長く、永く息を吐き続けて、肺の中が空っぽになるまで吐き出そうとして、
それでも人の形を取る私は息苦しさに耐え続けることができずに、やはりいつかは大きく息を吸うことになる。
私も彼も、永遠を終わらせる術を知らない。唯一、終わらせることのできそうな、命を奪う伝説ポケモンはもう、深い眠りについてしまっている。
だから彼も私も、永い時を生きるしかない。生きることからは逃げられない。
……それでも私は、以前よりもずっと楽に息ができるようになっていた。
この地下にいれば、ずっとこうして過ごしていれば、いつか、私の恐れた全ては「いなくなってしまう」筈なのだ。
そうした想定はどこまでも私を安心させた。いつか訪れるそうしたやさしい未来を思って、私は笑うことさえできるようになっていた。
「そしておそらく君にとっても、この永遠は意味のあるものだ。……思うに、君がまっとうに生きるには、80年などという時では短すぎたのだろう」
「……」
「君はもうあのまま生きることなどできなかった。君は叶うなら、生きることを止めてしまいたいと思っていた。
だからこそ、この地下にわたしと残ったのでは?」
湯気の立つカフェオレを彼はゆっくりと飲んでいる。
ほんの数回、私が眠っている間に、そのカフェオレの満たされたコップは、簡易的な紙コップからお洒落なコーヒーカップへと変化していた。
「……そうですね。死のうと思っていたのだと思います。死にたいなんて願うつもりはなかったけれど、でも、生きることがとても、億劫で」
この地下は、私が眠る度に少しずつ豪華になった。
時を止めて時を忘れた私は、もう時が動いていた頃のように、決まった時間に起きて、外に出て、食事をして……といった行為をすっかり諦めてしまっていたけれど、
同じく時を止めている筈の彼は、けれどもまだしっかりと時を覚えていて、普通の人間と遜色ない生活を、ここ数年間、ずっと続けていたようだった。
彼の手によって、セキタイタウンの地下は徐々に、住みやすい様相を呈し始めていた。
崩れた壁は綺麗に直され、お洒落な壁紙で彩られていた。背の高い本棚がいくつも並べられ、そこに大量の本が詰め込まれていた。
私の家を思わせる、一般家庭用のキッチンや、洗面所、お風呂場といったものまで、いつの間にか出来上がっていた。
「窓がない」ことを除けば、この場所はまるで、時を正しく動かしている人の住まいであるようにさえ思われた。
「それでもわたしは、君と共に生きたかった」
この部屋然り、こうした彼の発言然り、この立派な人はどこまでも、時の流れを覚え続けることを選んでいた。
私はどちらかというと、一刻も早く、そうした「時」を忘れてしまいたかった。時が動いていた頃を思い出させる全てが、なくなってしまえばいいのにとさえ思っていた。
けれども、この居住空間が徐々に住みやすいものへと変化していくことに、私は嫌悪感を抱かなかった。彼が過去の話をすることを、咎めるつもりもなかった。
「君が笑える世界にしたいと思っていた」
「……」
「その願いは、思わぬ形で叶ってしまった」
彼は本当に、心から、その願いが叶ってしまったことを喜んでくれているような心地であったので、私もすっかり安心してしまって、本当に、笑うことが出来たのだった。
食事を終えて、ふかふかのソファへと身を沈めた私は、「あと何年くらいかしら」と白い天井を見ながらぽつりと零した。
彼はそんな私を、ただ静かに見てくれていた。
「あと何年経てば、私の恐れた全てはなくなってくれるのかしら。あと何回眠れば、私は何にも怯えなくてよくなるのかしら」
大丈夫だと彼は笑う。笑って、空になったコーヒーカップを持って立ちあがり、キッチンへと向かう。
そのついでとばかりに、私の頭をそっと撫でてくれる。私の髪は少し、ほんの少しだけ、伸びた。
「10年かかろうと30年かかろうと、私達にとってはほんの一瞬だ」
その優しすぎる言葉は、私と彼とサーナイトの間においては紛うことなき真実であった。
故に私は、そうした私に都合のいい言葉ばかりを紡いでくれる彼のことを「嘘吐き」だと糾弾しなくても、よくなっていた。
私は彼の口から紡がれる心地良いバリトンを疑うことを、最近は、つまりはここ数年の間は、すっかり忘れてしまっていたのであった。
時を止めた私は、一度、たった一度眠ることで、何年もの時を超えることができた。
一方通行の時渡り。それは素敵な力だった。同時にこの上なく残酷な力だった。これを「呪い」だとした彼は、きっと正しいのだろうと思った。
私はでも、呪われた私のことは嫌いではなかった。
2017.10.5
【17】