ポニ島から出ている小さな船に乗って、一気にアーカラ島へと向かった。
コンクリートで舗装されている海沿いの道を足早に歩き、ハノハノリゾートの船着き場へと向かえば、探していた白い船が美しい輝きをもって佇んでいた。
白の船体と青の海面のコントラストを、アローラの太陽がキラキラと弾いていた。眩しさに目を細めれば、グズマの姿は少しだけ、大人らしくなった。
彼が勝利を勝ち取っていない島キングは、残すところメレメレ島のハラだけとなった。
本来、メレメレ島から島巡りを始めたのだから、ハラとは一番に戦って然るべきであるように思われたが、ハラは豪快に笑ってそれを拒んだ。
彼は己とグズマの戦いの場として、ポケモンリーグを指定していたのだ。
大勢のキャプテンや島キングと顔を合わせた。彼等から見た「彼女」の姿を聞き知った。ポケモンを鍛えた。勝利を重ねた。
願い、祈り、後悔、そうした何もかもを背負うことを覚えた。それでも走り続けたいと望む心が、己の中に芽生えていることを知った。
彼はもう、一人でただその暴力性を、巡り巡って自身のところにまで回していた、あの悲しい時代を上手く思い出すことができずにいた。
どうやって生きていたのだったかと、とぼけているのではなく、本当にそう考え込んでしまう程であったのだ。
そうした、限りなく密度の濃い時間だったのだ。この、2か月というのは。
「エーテルパラダイスに御用ですか?」
ハノハノリゾートの船着き場には、エーテル財団の職員らしき白服の女性がいた。
「そうだ」と言葉を尖らせることなく肯定の返事を紡げば、彼女はにっこりと笑ってグズマを船へと案内した。
グズマの他にも、船内には数名の一般人が乗り込んでいた。ポケモンを保護する施設……ということになっているエーテルパラダイスには、こうして今も昔も人が絶えないようである。
彼が乗り込んで数分後、船はアローラの荒波を割くような豪快さでハノハノリゾートを出発した。エンジンの乱暴な音は、けれど船の中に座っていればそれ程、気にならなかった。
あの白い島には、言葉に尽くしきれない程の縁があった。
リーリエは彼女の母を連れてカントー地方へと向かった。故に今のエーテル財団には然るべき指揮者がいない状態であった。
それでもエーテルパラダイスはこれまで通り活動を続けている。それはひとえに、この少年の尽力があったからに他ならないのだろう。
……そうしたグズマの推測は半分当たり、半分外れていた。確かに今のエーテルパラダイスを率いているのはグラジオであったが、彼は一人で戦っている訳ではなかったのだ。
「あれ、グズマさんもグラジオを手伝いに来たの?」
「……おい、お前がいつもオレを手伝っているかのような言い方をするな。いつもふらっとやって来ては、オレや職員にちょっかいを出しているだけじゃないか」
グラジオの傍にいたのは、彼よりも更に幼さの残る少年であった。
まるで親しい友人に向けるかのような、陽だまりのような笑顔を湛えてハウはグズマの腕をぐいと引く。
まだ小さく幼い体である筈なのだが、その力はグズマの想定していた以上に強く、本気にならなければ抗うこともできなさそうだった。
そしてグズマは、抗おうとさえしなかった。眉をひそめて不愉快そうな顔を作りながら、それでもこの少年に腕を引かれるままにしておいたのだ。
たった11歳の子供に、これ程までに大きな組織をまとめる術など解る筈がない。
仮にその小さな頭にそうした知識を叩き込まれたとして、実践できるだけの勇気も大勢を率いるカリスマ性も、この子供にはきっとない。
そんな彼がこの島を訪れたところで、何もできないまま、無為に時間だけが過ぎていくだけのように思われた。
実際、グラジオはそうしたハウを煙たがっているようであり、それは彼の言葉にも表れていた。
それでも少年はグラジオの元を頻繁に訪れている。どちらに進めばいいか解らなくなったグラジオの隣で「オレだって解らないよー」と相変わらずの笑顔で喚いている。
何もできない。そうした存在がグラジオを支えられる筈がない。何も手伝える筈がない。ただ隣で「どうしたらいいんだろうね」と、グラジオと共に困っているだけだ。
困惑、疲労、絶望、苛立ち、そうした何もかもをハウは雄弁に気紛れに奏でていた。言葉を紡ぐことを悉く拒むグラジオの隣で、ハウは二人分、喋り続けていた。
グラジオはそうしたハウを煙たがっていた。煙たがることを、邪険に扱うことを、ハウのやわらかな笑顔はどこまでも許していたのだ。
グラジオはハウに呆れていた。そんな彼にささやかな救いを得ている自分自身にも、呆れていた。
「友」とでも呼べそうなこの二人の関係を、けれど口にして形容しようものなら、きっとグラジオは「違う」と否定し、ハウは嬉しそうに「そうだよ」と笑ってしまうのだろう。
それでもグラジオはハウを拒まない。ハウもエーテルパラダイスへの訪問を絶やさない。そうした、不思議な関係だった。
全く似たところを持っていないように思われるこの二人は、けれど奇妙なところで共鳴していたのかもしれなかった。
「ミヅキの笑顔はやっぱりおかしかったよね。でも、オレはそれが嬉しかったんだー」
ハラの孫であるこの少年もまた、業を背負ったように笑い続けていた。
そんな彼が「彼女」の笑顔の異常性に気が付いていたとして、それはある意味、当然のことであったのかもしれなかった。
「笑顔がおかしいことに喜ぶなんて、お前も相当、おかしいんだな」
苦笑しつつそう告げるグラジオに、ハウは「だってね、」と更に言葉を続ける。
「オレだけじゃなかったんだよ。笑わなきゃって思ってる人は他にもいたんだ。そういう不自然な笑顔だって解っちゃったから、仲間を得たみたいで、嬉しかったんだよね」
呆れたように笑うグラジオの隣で、大きなマラサダを頬張りながら少年はふわりと笑う。とても自然な、陽気な笑みだ。
それが彼女の笑顔に相当する「不自然」なものであり、「笑わなきゃ」という使命感から零れ出たものであったのだと、少年の口から直接聞いても尚、グズマは認めることが難しい。
グラジオもその理解には困難を極めたようで、何を言っているんだ、とでも言いたげに眉をひそめている。
そんなグラジオを見ながら少年は尚も笑う。アローラにどこまでも相応しい笑みは、やはり陰ってなどいない。陰っていない、ように見える。
「だからミヅキが笑わなくなった時、いいなって、羨ましいなって思ったんだ。ミヅキだけ先にそんなの、狡いよって言いたかった」
結局、言えなかったんだけどね。そう付け足して少年はふわりと笑う。
グラジオは険しい顔のままに、けれど険しくない言葉を少年へと紡いでみせる。
「笑いたくないならそうすればいいじゃないか。お前が笑わなくなったところで、誰もお前を嫌いになんかならないさ」
ハウは驚いたように目を見開いた。大きすぎる子供の目、人を見抜くこと、人に見抜かれることを恐れない幼く純な少年の目だ。
そんなハウを怪訝そうに見るグラジオの目は、少しばかり細められている。彼は大人になっていた。彼の背負った荷物が彼を大人へと押し上げたのだ。そうしなければいけなかった。
そういう意味でグラジオはいよいよ不自由であったが、それを暴力性に変えて他者へと解き放つことは決してしなかった。
「あはは、違うよグラジオ。誰かに嫌われたくないから笑うんじゃないんだ。自分を嫌いになりたくないから笑うんだよ。
だから「無理に笑わなくてもいい」って誰かに言われたところで、そういうの、どうしようもないんだよねー」
グラジオは大人にならなければならなかった。ハウは笑わなければならなかった。誰にそう命じられた訳でもなく、彼等の置かれた環境がそうすることしか許さなかった。
子供の姿をした彼等は、けれどグズマよりもずっとそうした「不自由」を知っていたのだ。
「……お前は、無理してヘラヘラ笑ってる今の自分が好きなのか?」
責めるようにグラジオはそう告げる。
自分を好きになるために、自分の心に嘘を吐いて、いつでも柔和に陽気に笑って、楽しんでいるふりをして、
そうした自身を本当にお前は好きになれているのかと、お前の祈りは叶っているのかと、グラジオはハウの心のずっと底を真っ直ぐに射て、尋ねる。
ハウはこてん、と首を傾げてすっと目を細め、「教えないよー!」と意地悪な音を奏でては、クスクスと逃げるように笑う。
グズマはおや、と少しばかり驚いた。目をいっぱいに見開く彼は、見抜かれることなど恐れていないのだと思っていたからだ。
見抜かれたところで、全く動じないのだろうと思っていたからだ。
ハウの手元にあるマラサダは、強く握られ過ぎていて、いつかのようにピンク色のクリームがぐちゃりと外へ溢れていた。
「でも、好きじゃなくても、楽しくなくても、やらなきゃいけないことだってあるんだよ。だからやっぱりミヅキって、狡いよね」
けれどそこはやはりアローラの子供に相応しく、強く握り過ぎたマラサダの食べ方を彼はしっかりと心得ているらしかった。
器用に小さな舌を使って溢れたクリームを掬い取り、音を立てずにそっと吸い上げていた。
その後で豪快にかぶりつきながら、口の周りをクリームと粉砂糖ですっかり汚して、けれどやはり、笑うのだ。
「ねえグズマさん、オレの代わりにミヅキを叱ってよ」
「……」
「オレとグラジオの代わりにミヅキを殴ってよ」
そんな少年の懇願を、グズマは一笑に付すことができなかった。目を逸らすことすらできずに、口の周りをマラサダで汚した少年を、ただ愕然とした表情で見つめていたのだ。
ミヅキを知る人間の中で、最も幼く最も無知であった筈のこの少年の言葉は、けれど今までグズマが背負ったどんな祈りよりも、重く、暗く、切実であった。
2017.2.3