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「なあ、ちょっといいか?ザオボーって奴が何処にいるか知りてえんだ」

すれ違う職員にそう尋ねれば、彼は苦笑しつつ、中庭を抜けた先にある大きな屋敷を指差した。短く感謝の言葉を告げて、グズマはそちらの方角へと歩幅を大きくした。
グズマは「ザオボー」という男のことをあまり知らなかった。かつてはエーテル財団の支部長を務めていたらしい彼と、しかしグズマは一度も会話をすることがなかったのだ。
確か、緑色の大きなサングラスをかけていたような気がするが、それ以外の記憶などまるでなかった。彼とザオボーの繋がりはゼロに等しかった。
故に彼はこの男に会うことなく、ハウとグラジオに話を聞いただけで満足し、そのままエーテルパラダイスを去って然るべきであったのだ。
……けれどもグズマはまだ此処に残り、ザオボーという男を探すに至っている。先程、二人の子供の元を去る折に、グラジオが「待ってくれ」と彼を呼び止めたからだ。

ミヅキがおかしかったことを、ずっと前から知っていた人間がいる。』

「彼女」は、常に一緒にいたあの美しい少女にさえも、自らの仮面の下を見せようとしていなかった。
グズマの目の前でマラサダを吐き出しながら、それでも彼女は笑顔で何とか正気を取り繕っていたのだ。
そうした彼女の歪みを知ることが叶った人間がいたとして、それはおそらく、彼女を「眠らせた」エーテル財団の代表を置いて他にはいないと思っていた。
故にグズマは、そのザオボーという男に興味が湧いた。大きな歩幅でずかずかとエーテルパラダイスを歩きながら、焦ったようにその男を探した。
彼なら、他の誰も知らない「彼女」の姿を、リーリエよりもずっと冷静な声音で、グズマよりもずっと理知的な言葉で、語ることが叶うのではないかと思ったのだ。

中庭の奥にどっしりと構える屋敷、その白いドアをぐいと押し開けた。
ザオボーらしき人物は直ぐに見つかった。ルザミーネの自室へと続く扉の脇に凭れ掛かり、A5サイズの青いノートを開いて、そこへと目を静かに落としていたのだ。

大きすぎる緑のサングラスは、きっとグズマの存在を捉えてなどいないだろう。そう思ってしまう程に、彼は身動き一つしていなかった。瞬きすら緩慢であった。
けれど、捉えていないように見えたその男の目は、しっかりとグズマの姿を認めていたようで、
グズマ口を開くより先に、男は目をノートに落とした状態のまま、まるで子供に語り掛けるような柔らかい声音で、しかしどうしようもなく鋭い言葉を、放った。

「スカル団ボスのグズマですね」

「……なんで、オレのことを、」

「此処に書いてありますから」

右手でノートを示してから、パタンと軽快な音を立ててそれを閉じ、そこでようやくグズマの方を見たザオボーは、サングラスの奥ですっと目を細めた。
まるでグズマの姿を懐かしむような、ならず者である彼を眩しく思っているようなその目つきに、グズマは少しばかり驚き、狼狽えた。
驚いた表情のままに、グズマはこの壮年の男が持つ青いノートを、見遣った。

グズマのことが「そこ」に書いてある、とはどういうことなのか?何故、この男はグズマのことを知っているのか?どうしてそんなにも懐かしそうな目でグズマを見るのか?
あらゆる疑問は解消されないままに「訝しさ」の形を取り始めていたが、その疑念はザオボーがすぐさま解消してくれることとなった。

「彼女とはこのノートで会話をしています」

「会話って……まさかお前、ポケモンリーグであいつと会っているのか?」

「いいえ、顔は一度も見ていませんね。アシレーヌにこのノートを持たせて翌週に訪れれば、彼女から返事が貰えます。彼女はちゃんと、人の言葉を覚えていますよ。
……こういう日記の遣り取りを、お子様は「交換ノート」と名前を付けて楽しむそうですね」

この、40は軽く超えていそうな男性の口から「交換ノート」などという子供じみた言葉が飛び出したことにも、グズマはまた、驚かざるを得なかった。
けれどそれ以上にグズマの胸をキリキリと締め上げたのは、ザオボーのその表情だった。

陽に溶けるような、水に広がるような、慈悲を極めた色をしていた。
それでいてその声音はどこまでも偏屈を極めていて、皮肉を言葉の節々に混ぜたくて仕方がないといった風であるのだ。

「最初は、飲まず食わずの生活などそう長く続かないだろうと思っていたのですが、どうやらあちらではそうした、生命としての感覚や機能の全般が麻痺しているようです。
貴方も、代表と共にウルトラスペースへと入ったことのある人間のようですから、あの空間が掟破りの様相を呈していることくらい、知っていたのでは?」

……繰り返すが、グズマがこの男と顔を合わせたのは今日が初めてだ。それまでグズマはこの男のことを殆ど知らなかった。
支部長と呼ばれる存在が「いる」ということは知っていたが、それ以上の情報をグズマは求めなかった。求める必要がなかった。
けれどこの男はグズマのことを知り過ぎている。きっとそれは「彼女」を理解するために必要なことであったからだろう。
ザオボーがグズマに情を向ける必要性は全くない。彼がグズマを知る必要はない。
ただ「彼女」のための情報を持っておく必要があったのだ。だから彼はこうして、グズマのことを言い当てているのだ。

「自らが宝石でないことを認めることはとても難しい」

彼がそうして「彼女」を連想させる単語を紡ぐのだって、いよいよ彼女を知り過ぎて、彼女を理解し過ぎているからだということくらい、解っている。グズマにさえ、解るのだ。
ミヅキがおかしかったことを、ずっと前から知っていた人間がいる。』
グズマよりもずっとこの男のことを知っていたグラジオが、彼の「彼女」に対する底抜けな理解を見抜いたとして、それはまったく当然のことであったのだろう。

複雑な男だと思った。ククイよりもハラよりもマーレインよりも、彼は「彼女」のことを知っていた。スイレンよりもマオよりもハウよりも、彼は「彼女」のことを考えていた。
誰よりも多くのことを知り、誰よりも多くのことを考えてきてしまった人間は、こんな表情になってしまうものなのかと、グズマは知り、愕然とする。
愕然とした表情のままに「……あんたは、まだ宝石の部類だろう」と言い返せば、ザオボーはそんなグズマを許すような、責めるような、悲しむような、複雑な笑いで軽く揶揄する。

「いいえ違いますねえ、小石ですとも。貴方や彼女と同じです、宝石でないことを認められない人間です。
だから彼女は笑顔に、貴方は暴力に、わたしは肩書きに縋った。……けれどどれだけ縋っても、どうです、虚しいだけでしょう?」

「……」

「わたしは彼女の虚しさを知っていますから、彼女を呼び戻すことはしていません。
戻ってくるなら居場所や役割くらいは与えてやれますが、けれど彼女は、小石であるわたしが与えたものになど決して満足しないでしょう。
それにわたしは自分のことが何より可愛いのです。自ら傷付きに行くようなことはしません。わたしはそこまで強く彼女を想えない。そこまで懸命に手を伸べられる程、若くない」

違う、と思った。
どこまでも笑顔を、肩書きを、暴力を極めたところで、虚しいだけ「彼女」にもザオボーにもグズマにも、そのことがとてもよく解っている。
その通りだ。彼の言っていることは正しい。間違っていない。

けれど、だからこそ、誰かがその「虚しさ」から引っ張り出してやるべきではなかったか。
虚しさと向き合わずとも息をしていられる、あの宝石の世界から、彼女を引き戻さなければならないのではなかったか。
虚しくとも、足掻かなければならないのではなかったか。一人では虚しいことでも、誰かが手を引けば、集まりさえすれば、どうとでもなるのではなかったか。
それが大人の役目であり、彼女に共鳴することが叶った、グズマやザオボーの役割なのではなかったか。

そしてこの男は、彼女の手を引くことが、グズマよりもずっと早く、ずっと上手にできる人間なのではなかったか?
真に彼女の手を引くべきは、この男なのではなかったか?

「どいつもこいつも根性なしかよ……」

けれどこの男はそうしていない。
チャンピオンの間に辿り着く程の実力を持ちながら、「彼女」と会話をする術さえ手に入れていながら、それでも彼女をそのままにしている。あの宝石の世界で、眠らせている。

彼女がそれを望んでいるから、というのも確かに無視できない理由の一つだ。けれどそれ以上に彼は、自らの恐れを重視していた。
彼は傷付くことを恐れていた。心と心をぶつけたところで、互いが摩耗し殺がれていくだけのように思われていたのだ。
そしてグズマには、彼のそうした大人らしい臆病を咎めるための、理知的で説得力のある言葉が、ない。
だから「根性なし」という幼稚な言葉で、彼を責めることしかできない。

「ええそうですよ、大人とは得てしてそういうものです。ですから大人になってしまう前に、彼女を迎えに行きなさい。わたしのように恐れたくないのなら、行きなさい」

グズマは息を吐くことさえ忘れていた。
これが彼の「祈り」なのだと、気付いてしまったから、もうグズマはこの男を責められなかった。

『でも、そろそろ不自由になることも覚えなくちゃいけないね。』
マーレインの言葉がふっと脳裏を掠めた。
グズマや「彼女」よりもずっと長い年月を生きてきたこの壮年の男は、きっと不自由に慣れ過ぎているのだ。足掻くことさえ、忘れてしまったのだ。
それが正しい姿であると、けれど正しい姿ではどうにも「彼女」を引っ張り出せないのだと、そこまで考えて、グズマの背筋はぴんと伸びた。

グズマが暴れなければならなかった意味、彼女が「大好き」を振り撒き続けなければならなかった意味。
そんな二人が互いに祈り合ってしまった意味、彼等の暴走が報われなかった意味、それでも生きようとした意味。
「彼女」に手を伸べるのが、グズマでなければならなかった、その本当の意味。

「次は彼女と一緒に来なさい。お蕎麦を用意してお待ちしていますよ」

「ソバ……?」

「灰色のパスタのことですが……やはり知りませんよねえ、此処はアローラですものねえ」

「それも、カントーの食べ物なのか?」

そう尋ねれば、ザオボーの目が大きく見開かれた。グズマはその目をじっと見つめ返した。
そうすれば彼はいよいよ声を上げて笑い始め、最後に、今のグズマが最も欲しかった言葉を、息をするように言い当て、差し出した。

「ああ、やはり君だ。君でなければいけない!」


2017.2.4

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