26

戻って来たわたしの帽子は、母様の部屋に置いたままにしました。
ワンピースを脱いで、白い服を着て、水色のラインが入ったスカートを履きました。動かなくなったコスモッグを、ピンク色のリュックサックに入れました。
彼女を支えながら歩む。コスモッグを助けるために歩む。その決意の証として、何もかもを変えようと思ったのです。
何もできなかった今までのわたしを忘れるように、母様に選んでもらった服を脱ぎ捨てて、自分で選んだ新しい服に身を包みたくなったのです。
更に髪型を変えようと思い立ち、鏡を見ながら長い髪を一つに束ねようとしたのですが、……どうにも、上手くいきませんでした。

「お待たせしました!」

彼女は既に準備を済ませて、屋敷の外に出ていました。わたしは彼女に声を掛けて、少しだけ躊躇った後で、とびきりの笑顔を作って駆け寄りました。
振り返った彼女は、わたしの姿を下から上へとゆっくりと、その煤色をした目で眺めました。眠そうに、眩しそうに細められたその目は、けれど確かにわたしを見ていました。

「マリエで買ったままの服……似合いますか?」

彼女は大きく頷き、唇に僅かですが弧を描いてくれました。
わたしはそのことに安心していたのですが、彼女がふいにわたしの顔へと手を伸べてきたので、びっくりして、思わず声を上げてしまいました。
どうしたのですか、と尋ねるより先に、彼女は私の肩を流れていた髪を摘まみ上げました。どうやら髪を束ねる際に、一房、掴み損ねてしまったようです。

「あ、……ごめんなさい。わたし、ポニーテールというものをしたことがなかったので……」

すると彼女は鞄の中から櫛を取り出して、わたしに後ろを向くように促す素振りを見せました。
……もしかして、彼女が束ねてくれるのでしょうか。そう思ったわたしは「いいんですか?」と尋ねました。彼女は頷いて、小さく微笑んだように見えました。
ありがとうございます、と告げたわたしの声は、きっと上擦っていたのでしょう。嬉しかったのです。彼女に髪を束ねてもらえることが、どうしようもなく、嬉しかったのです。

彼女はあっという間に、わたしの髪を束ねてくれました。櫛を優しく通してくれる彼女の手はとても心地よくて、昔、母様によくこうしてもらったことを思い出しました。
彼女がわたしの髪から手を離すと同時に、わたしは後ろへと手を当てました。わたしが先程、自分で束ねた時よりもずっと高い位置に、わたしの髪は綺麗に束ねられていました。
首元で手を動かしても、取り零した髪はただの一本も見つかりませんでした。
彼女は髪を結わえることさえ得意なのです。わたしは自分の髪を綺麗に束ねることさえできないのです。

彼女は鞄から小さな鏡を取り出して、「これでいい?」と尋ねるように、わたしに差し出してくれました。
わたしはその鏡の中に映る、わたしではないようなわたしの姿を覗き込みました。首を横に向けて、彼女の束ねてくれたわたしの髪を、随分と長く見ていました。
「ありがとうございます!」と、彼女に何度もお礼を言いました。後からやって来たビッケさんが、苦笑する程に繰り返していました。

あの氷の中で眠る前の彼女と全く同じように、笑わなくなってしまった彼女もまた、わたしに優しくしてくれました。彼女は、やはり彼女のままでした。
だからわたしは笑うことができました。彼女は笑わずとも、わたしを笑顔にさせてくれるのです。彼女にはそうした力があるのです。
彼女は眠らずとも、宝石だったのです。

船に乗って、ポニ島に向かいました。海の上に浮かぶ小さな集落は、「海の民の村」と呼ばれているようでした。
太陽の笛の手がかりを探して、わたしと彼女はこの閑静な島を冒険することになりました。
わたしはゴールドスプレーを大量に買い込んでから、「行きましょう、ミヅキさん!」と彼女を促し、先に村を出て行きました。
彼女は小さく微笑みながら頷いて、わたしに付いてきてくれました。

けれどもやはり、道を切り開くのはいつだって彼女でした。地図を持っていないわたしは、勇んで村を飛び出したものの、どちらに進めばいいのか解らなかったのです。
彼女はわたしの2歩先を歩いて、飛び出してくる野生ポケモンと戦っていました。
彼女は、一言も声を発しませんでした。自らのポケモンに指示を出すことなく、ただボールを投げて、それきりだったのです。

けれどポケモン達は戦いました。彼女のためにその力を振るいました。
一度は彼女が手放した大勢のポケモンさんは、けれど彼女のことが大好きだったのです。彼女の「大好き」は、ちゃんとポケモンさんに届いていたのです。
彼女の指示を音として受け取らずとも、ポケモンさんは最大の力で戦っていました。そしていつだって、掠り傷程度のダメージでボールへと戻ってきました。

わたしはポケモンさんが傷を受ける度に、鞄から傷薬を取り出して、彼女のポケモンさんに使いました。
ポケモンさんにできることは、彼女のために戦うこと。わたしにできることは、彼女のために彼女のポケモンさんを癒すこと。
そう心得ていたから、わたしは僅かな傷にも薬を使うことを躊躇いませんでした。彼女はポケモンさんの傷が癒える度に、僅かに微笑んで、わたしに頷いてくれました。

ハプウさんと再会し、彼女が島クイーンになるところを見届けました。
一言も声を発しない、笑わない。そうした彼女にハプウさんはとても驚いていました。わたしは彼女の代わりに、彼女の分まで言葉を紡ぎました。
これまでの経緯を説明し、太陽の笛が必要であることまで話すと、ハプウさんは笑顔で頷いて、「ナッシーアイランド」という場所を紹介してくれました。
どうやらその場所は、かつてポニ島の「試練の間」として使われていたようです。その名残として、島の最奥に笛を置いてある、とのことでした。
わたしはハプウさんにお礼を言って、踵を返して元来た道を駆け出しました。駆け出して、振り返って、笑顔で彼女の名前を呼びました。
彼女は大きく頷いて、わたしの方へと走って来てくれました。

彼女があの冷たい氷の中に置き忘れてきた全てを、わたしは彼女に差し出そうと思いました。
彼女が失った言葉を、わたしは代わりに紡ぎ続けました。彼女が忘れた笑顔を、わたしは代わりに貫き通しました。
頷く、首を振る、目を細める……。そうしたことでしか意思表示をすることができなくなった彼女の代わりに、わたしは沢山の笑顔と沢山の言葉を彼女に贈りました。
わたしがこれまで彼女に贈られた笑顔と言葉を、彼女に示すように、傍にいました。

けれどもやはり、わたしには何の力もなくて、ナッシーアイランドで背の高い木が揺らめいた時も、悲鳴を上げて彼女に縋りつくことしかできませんでした。
彼女はすぐにボールを構えて、背の高いナッシーというポケモンを追い払ってくれました。
わたしはなんだかおかしくなって、肩を震わせて笑ってしまいました。

ここから、始まるような気がしたのです。
いつだって助けてもらってばかりだったわたしが、ようやく、彼女のためにできることを得た気がしたのです。
彼女の分まで笑いました。彼女の分まで言葉を紡ぎました。そうしていればいつか、彼女にも笑顔が、言葉が、戻ってくると思ったのです。
わたしは彼女に助けられました。今度はわたしが、彼女を助ける番です。

「……わたし、雨を見ると思い出すことがあるのです」

雨宿りのできそうな洞穴に入り、わたしは灰色の曇天を見上げて昔の話をしました。
隣で彼女は静かな呼吸を繰り返しながら、わたしの話を聞いてくれました。

「驚いたかあさまが、傘も差さずに飛び出してきて……。そしたら母様、笑顔で、……一緒に歌ってくれたのです」

「……」

「勿論、二人して風邪を引き、一緒に寝ることになって、……わたし、嬉しくて、何度も何度もかあさまを起こしてしまって……」

すると彼女は何を持ったのか、バッグをその場に置いて、灰色の雲の下へと飛び出していきました。
ミヅキさん、とわたしは慌てて飛び出して、風邪を引きますよと彼女を窘めました。
彼女はくるりと振り返り、僅かに微笑んで両手を広げて、くるくると踊るように雨を浴び始めました。
その姿が昔の母様に重なって、わたしは思わず笑ってしまいました。まるであの頃に戻ったみたいだと、思ってしまったのです。
彼女は自らが笑わずとも、周りの人を笑顔にすることが叶うのです。彼女にはそうした不思議な力があるのです。

白地のワンピースは雨に濡れて重くなり、金色のリボンはその可憐なはためきを失って、ぺたりと彼女の背中を流れていました。彼女の髪も、雨を吸い始めていました。
彼女と一緒に、わたしも腕を広げて雨に濡れて、彼女の分まで笑って、とても、とても楽しくて、
……けれどいつまでもこうしている訳にもいかないから、わたしは彼女の手を取って、再び雨を凌ぐために岩陰へと足を向けて、

「……」

その瞬間、遠くの岩礁に「それ」が打ち上げられているのを見つけたのです。

「……ごめんなさい、ミヅキさん。先に洞穴へ戻ってください。直ぐに向かいます!」

彼女は大きく頷きました。わたしがそっと手を離せば、微塵の迷いも見せることなく洞穴へと駆けていきました。
わたしは彼女とは逆の方角に進んで、切り立った小さな岩から海の方へと下りました。ごつごつとした岩礁を跳び越えました。
雨ではなく波に靴が濡れて、それでも躊躇うことなく進みました。そして、岩の間に挟まっていたそれに手を伸ばし、拾い上げました。

茜色の本でした。海と雨を吸い込んですっかりくたびれていましたが、まだ開くことはできそうでした。
本の中程に挟まれていた栞をそっと抜き取れば、そこには写真がプリントされていました。真っ赤に燃える夕日をバックに、2本のヤシの木が生えている美しい写真でした。
表紙だと思っていた茜色は、どうやらブックカバーの色だったようです。そっと触れれば、ビニール製らしきそのツルツルした表紙が、キュ、と小さな音を立てました。

わたしはこの本を見たことがあるような気がしました。


2017.1.2

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