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その本をまじまじと見つめて、裏返したり表紙を捲ったりカバーを外してみたりしたのですが、何処にも名前は書かれていませんでした。
表紙に添えていた手が、「いいのかしら」と少しばかり躊躇いました。けれどわたしは勢いよく開きました。
持ち主に返してあげなければ、という気持ちよりも、中身を見たい、という衝動が勝ってしまったのです。
こんなことをしてはいけない、と、そうしたわたしを制することができなかったのです。

彼女が失った何もかもをわたしが代わりに行おう。彼女が忘れた全てを私が差し出そう。
そんな風に意気込んでいたわたしは、いつの間にか、彼女がかつて笑いながら為していた「悪いこと」さえも、わたし自身のものとしてしまっていたのかもしれません。
彼女の何もかもを代わりに為すには、このようなことだってできるようにならなければ、と、思っていたのかもしれません。
……いえ、あるいはそうした全てがただの言い訳で、本当はただ、この既視感のある本を読みたかっただけなのかもしれません。

「ご、ごめんなさい……!」

それは誰に対する謝罪だったのでしょう。わたしにもよく解りませんでした。
持ち主ではない人物に開かれようとしているこの本に対してなのか、それとも、この本の持ち主に対してなのか、あるいは、そのどちらもであったのか、解りませんでした。
解らないままに「ごめんなさい」と紡いだのですから、その謝罪は本へのものでも持ち主のものでもなく、わたし自身への言葉だったのでしょう。
わたしはそうした、ひどく利己的な人間だったのでしょう。

けれど「悪いこと」をするという背徳感が、わたしの心を浮き立たせていたこともまた、事実でした。
どんな物語が書かれているのかしら。そう思いながらわたしは表紙を開き、ページを捲って、……そして、驚きました。
それは本ではなく、日記だったからです。

『大好き。』

思わず声を上げて、その冊子を取り落としました。
岩礁に打ち寄せてきた波がそれをさらっていこうとするものですから、わたしは慌てて屈んで、波に奪われるより先にその日記を取り上げました。
再びそのページを捲っても、やはりその言葉への驚きは失われることはありませんでした。

何の変哲もない「大好き」という言葉。彼女が声を失う前までは、毎日のように傍で聞くことの叶っていた、わたしにとってはとても馴染みのある、温かい言葉。
その言葉に驚いたり、ましてやそれを恐れたりする必要など、全くないように思われました。

けれどわたしはあまりの衝撃に、その冊子を取り落としたのです。
何故ならその「大好き」は、あまりにも乱暴な筆遣いで、見開きのページいっぱいに、冊子からはみ出す程の大きさで書かれていたからです。
震える手で次のページを捲れば、今度はびっしりと小さな字で、『大好き』と、狂ったように書き潰されていました。
ページの白いところを残すまいとしているかのように、何度も何度も上から書き足していたようで、それでもその全ての文字が「大好き」と綴っていることだけは解りました。

「……」

わたしは彼女の言葉を思い出そうとしました。
彼女の「大好き」は、いつだって明るくて優しくて眩しいものでした。その言葉を紡ぐ彼女に、金色の翼を見ることは簡単にできました。
けれどこのノートを見ていると、その「大好き」がひどく脅迫めいた、恐ろしいものに思われてしまったのです。
大好き、は人の心を自由にするものではなく、寧ろ不自由にして呼吸をできなくするような、……そう、まるで毒の言葉であるような気さえしてしまったのです。

『大好き大好き大好き大好き大好き』

まるで自身を洗脳するかのような言葉の連続に、わたしは気持ちが悪くなって、恐ろしくなって、
彼女の「大好き」に滲む明るさと優しさを、それ以上の狂気で上書きしていくかのようなこの文字がどうにも憎らしくて、やめてください、と怒鳴りたくなって、
……けれど、それ程までにひどい言葉を綴ったこの日記を、わたしは閉じませんでした。ページを捲る手を止めることができなかったのです。

ここで手を止めておけばよかったのかもしれません。けれど、止められませんでした。だからこれから起こったことは、きっとわたしに責任があるのです。
わたしが悪かったのです。

長い間、雨と海に濡れていたからでしょう。全てのページを捲ることはできませんでした。
紙がくっ付いてしまい、開くことのできなかったページも、力を入れ過ぎて破れてしまい、読めなくなってしまったページもありました。
それでも、わたしが読むことの叶った数ページだけでも、この日記に刻まれた、ひどくおかしく強迫的な、……そう、狂気のようなものを見ることは簡単にできたのです。
それ程の「異常」だったのです。

『皆が大好き、私は幸せ。皆が大好き、私は幸せ。笑って笑って、笑顔で大好きって、言え。』
『今度こそしがみ付こう。媚びを売って、大好きを振り撒いて、生き残ろう。言葉を紡ごう、煩くしよう、いつだって目立っていよう、皆に私を見てもらおう。
私は今度こそ主人公に、忘れられない存在になるんだ。皆に私の名前を覚えてもらうんだ。』

『眩しい、息苦しい。怖い、捨てないで、私を見限らないで、つまらない子だと思わないで、舞台から突き落とさないで。私を見て、名前を呼んで、覚えて、私に気付いて。
嫌だやめて来ないで、来ないで。貴方は私がいなくても生きていけるでしょう?でも私は違う、息ができない。貴方がいては生きていけない。光の傍が最も暗い。』
『力なんて何の役にも立たない。一人で生きていけるなんてちっとも名誉なことじゃない。
みっともないみっともない、不気味なお化粧もお年寄りみたいな髪も大嫌い、やめたい。でもやめたら皆は私を忘れるんでしょう?ありふれた私なんか誰も覚えないでしょう?』

おそらく女性だと思われるこの方は、悉く自らを卑下しているようでした。それでいて、この女性自身に関わろうとする誰かの存在に怯えているようでした。
臆病を貫きすぎて、なんだか、おかしなことになっているように思われました。
この女性の言葉には理論がありませんでした。本来、人間が持っている筈の「理性」が、あり余る恐怖によって掻き消されているかのようでした。

理性を持たない人物に、理屈を解いたところできっと無駄だったでしょう。
母様にわたしの言葉が通じなかったのと同じように、きっとこの女性にも何を言ったところで、届きはしなかったのでしょう。
身勝手な人だと思いました。母様の身勝手さは母様の力に表れていましたが、この人の身勝手さはその思考に表れていました。
母様もこの女性も、身勝手な絶望を振りかざす、酷い人でした。

『私じゃ駄目なんだ。魔法を使って水や風を起こしても魔法使いになれない。強くなっても英雄の座は貰えない。
凛としていても誰も私に剣をくれない。美しくできないから王子様はやって来ない。優しいだけじゃ、宝石には敵わない。』
『私はどうすればよかったの、どうすれば私は覚えてもらえたの。それとも小石はどれだけ磨いても輝かないのかなあ。そういうものなのかなあ。』

主人公、魔法使い、勇者、剣、王子様……。そうしたおとぎ話を連想させる単語が、日記の中には散りばめられていました。
この人物はとても夢見がちな方であったのかもしれません。きっとこの方は、絵本やミュージカルの世界に生きていたのでしょう。
そこで主役の座を勝ち取れない、自身の力が悔しくて、不甲斐ない自分に嫌気が差して、……それで、疲れすぎてしまったのかもしれません。
疲労が絶望を招き、絶望がこの女性の理性と良識を奪ったのかもしれません。

……けれど次のページを捲った頃から、この日記を書いた人物の「精神」が、「疲れてしまった」では説明のつかない程の、おかしな歪みを呈していることが解ってきました。
この世界に生きる者として、当然のことであるような理を、この人物は理解することができていないようでした。
この人物にとって、自らが「小石」であり「宝石」でないことは、それ程の絶望だったのでしょうか。自らの認知を歪めてしまう程の、屈辱だったのでしょうか。

『マラサダが食べられない。吐きそう、でも食べなきゃ。美味しいって言わなきゃ。でも半分だけ食べて残りは海に捨てた。ごめんなさいごめんなさい。
きっと私のマラサダだけ泥の味なんだ。だって皆はあんなにも美味しそうに食べている。まるでマラサダが宝石に見えているみたい。
ううん、きっとそうなんだ。皆は宝石を食べて生きている、余所者には泥しか差し出されない。だからこんなにも美味しくないんだ。私にはこの味が相応しいんだ。吐きたい。』

『嫌だやめてどうして付いてくるの、怖いやめて私を排斥しないで。これ以上私を暗くしないで、私のライトを奪わないで。光の傍が最も暗い。』
『皆、私じゃなくてあの子を見る。あの子に笑いかけてあの子に力を貸す。私が美しくないから、みっともないから、中途半端に強いから、宝石じゃないから。
笑わなくちゃ、だって私は皆が大好き、ポケモンのこともあの子のことも、アローラのことだって大好き。ほら笑え、笑え!』

『ガラガラの炎に手を入れたら怒られてしまった。火傷も痛かったけれど、「炎に触れられないんだよ」と諭されたことの方がずっと痛くて苦しい。
だって貴方達は触れられるんでしょう?アローラの人達は皆、とても綺麗でキラキラしていて宝石みたいだから、こういう綺麗なものに触れて生きているんでしょう?
私は炎に触れられないから、輝けないんでしょう?綺麗なものに触れることが許されていないから、私は小石のままなんでしょう?』

『海が怖い。溺れたくなるから。もしかしたらこの綺麗なアローラの水を飲めば、私も綺麗になれるのかな。皆みたいに輝けるのかな?』
『駄目だった、ペットボトル1本分も飲めなかった。気持ち悪い、あんなに飲んだのに喉が渇く。ヒリヒリする。痛い、痛い。
やっぱり私じゃ駄目なんだ。海を飲むことも空を飛ぶことも、ガラガラの炎に触れることも、マラサダを食べることさえも!私じゃできない、私が小石だから、宝石じゃないから。
水が欲しい、頭が痛い、頬が痛い、喉が痛い。駄目、駄目、笑え。』

わたしは泣きそうになりました。
人は宝石を食べられない。人は炎に触れられない。人は海になることなんかできない。そうした当たり前のことが、けれどこの人物には理解できていない。
これ程の絶望を背負いながら、それでも「笑え」と、まるで脅迫されているかのように日記に書き殴り続けるこの人物が、あまりにも痛々しくて、泣きそうになりました。

『助けなんか呼べない。呼んだって誰も来ない。ちゃんと解っているよ、大丈夫。』
『大好き。』

悲しい人でした。まるで自らの無力さを噛み締めて、常に震える声で返事をしていた、昔のわたしのようでした。
この人も、彼女に出会えていれば何かが変わったかしら。この人も、彼女の笑顔で元気を貰えば少しは救われたのではないかしら。
そんな風に思いながら、次のページに手を掛けようとした、その瞬間、

「!」

勢いよく伸びてきた手が、物凄い力で日記を奪い取ったのです。


2017.1.3

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