天を読む藍

3 - Mars(2) -

真っ白な頬に赤い切り傷が付いていた。可愛いコートに泥や葉っぱの類を付けていて、ニット帽から見える夜色の髪はぼさぼさに荒れていた。
野生のポケモンに追われていたのか、それとも下っ端がコテンパンにやっつけたのか、はたまた自分でどこかから転がり落ちてしまったのか。よく解らなかった。
けれどそのどれも、ギンガ団のボスであるアカギ様が、このアジトに女の子の手を引いて訪れる理由には足りないような気がして、団員は一様に首を傾げ、困惑していた。

けれどあたしだけは、驚かずにはいられなかった。何故って、その子には覚えがあったから。
『マーズさん、また会えるかなあ?』
あの子だと、直ぐに確信してしまったから。

けれどその後、直ぐにあたしは少しだけ安心した。何故って、あたしのすぐ隣で、あたしと同じ、驚愕の表情を浮かべた人がいたから。

「ねえ、ジュピターもあの子と戦ったの?」

「……ええ、強かったわ」

けれど彼女の顔にはそれ以外にも、もっと別の、言うならば彼女への苦手意識のようなものが貼り付けられているような気がした。
「ジュピターは子供が苦手だものね」とからかうように告げることで、あたしはなんとか平静を保っていたのだろう。

ギンガ団のボスであるアカギ様が、ギンガ団に歯向かう女の子の手を引き、アジトへと彼女を招き入れた。
その、悉く異質な光景に、あたし達は思考する余裕を完全に奪われていたのだ。

アカギ様は彼女を知っていたのだろうか。知っていたとして、いつからだろうか。
いや、そもそも彼女を知っていたとして、アカギ様と彼女がポケモンバトルをしたことがあったとして、あの子を危険視していたとして、
だからこそ、アカギ様は組織の長として、あの子をあたしやジュピターの代わりに叩きのめさなければいけないのではなかったか。彼女を、潰さなければいけないのではなかったか。

『また会えるかなあ?』

あたしにはできなかったことを、彼ならできるのではなかったか。

少女は自分のことを「ヒカリ」と名乗った。小さな足を懸命に動かして、アカギ様の後ろを付いて回っていた。
その、どうしようもなく奇妙で不可解な光景が、しかしギンガ団の名物となってしまうまでに、そう時間は掛からなかった。
少女は毎日のようにギンガ団のアジトへと足を運んだ。アカギ様をこの上なく慕っていた。あたしにはそれがどうしても不思議でならなかった。

アカギ様は確かに団員に慕われていた。それはあたしだって同じだ。
けれど子供を惹きつけるような魅力を持っているかと問われれば、……否、と言わざるを得ないように思えたのだ。
まだ27歳だという彼は、しかし実年齢よりも遥かに年上に見えたし、そう思わせるだけの威圧感をその身に纏わせていた。
幹部であるあたしでも、彼の射るような冷たい目を見るとそれなりに畏縮する。殺される、とまではいかないけれど、それに似た恐怖があたしの足を縛る。
そうした、ともすれば暴力的とさえ呼べそうなカリスマ性をアカギ様は持っていた。だからあたし達は迷うことなく彼を慕い、彼に従っていた。
あたし達の足元に蔓延っていたのは、そうした危険な盲信だったのだ。

そんな彼が、あたしよりもずっと背の低いヒカリを見下ろしたとして、その目つきはより一層険しく、恐ろしいものになるに違いないと思っていた。
だから、いくらギンガ団に恐れを抱かない彼女でも、それなりに畏縮するのではないかと、怖がって逃げ帰ってきたら慰めてあげようと、考えていた。
けれど彼女は怯まない、恐れない。まるで「近所のおじさん」であるかのような親しみを込めて、アカギさん、アカギさんと彼の名を呼び、その後ろを付いて回った。
彼はそんなヒカリを黙って許していた。

時折、ヒカリが投げる質問には、彼は少ない言葉で簡潔に答えていた。
どんな答えが返って来ても、はたまた答えが返って来なかったとしても、ヒカリはいつも笑っていた。
ただアカギ様と同じ時間を過ごせることを、喜んでいた。あたしにはそんな風に見えた。

その、少しばかり狂気めいた、無知と無垢故の盲信は、しかしアカギ様を慕う団員にはこの上なく受けがよかったらしい。
3日経てば、下っ端は彼女への警戒を完全に解いた。一週間もすれば全員がヒカリの名前を覚え、彼女の来訪を歓迎した。
ヒカリもまた、下っ端一人一人の顔と名前を、長い時間をかけて少しずつ覚え始めているようだった。

アカギ様はもしかしたら、このあまりにも幼くあまりにも強い少女を、ギンガ団に引き入れようとしているのかもしれなかった。
そうした仮説を立てて初めて、あたしは彼女への警戒を完全に解いた。

おそらく彼の目論見は成功するだろう。
ヒカリは何故だかアカギ様をこれ以上ない程に慕っているし、彼女はあたし達が「悪いこと」をしようとしていると理解していない。
アカギ様がヒカリをギンガ団に誘ったとして、彼女は何の躊躇いもなくその言葉に乗るだろう。あたしはそう確信していた。

「ねえ、ヒカリ。あたし達は宇宙に行きたいの」

だから、こんなことを言ってしまったのだと思う。
彼女が「私も連れていって」と、その藍色の、キラキラした目で懇願してくれると信じていたから、あたしは彼女にも解る言葉で、ギンガ団のことを話すに至ったのだと思う。

「新しい宇宙をあたし達の手で作るの。今の世界はつまらないから、作り直すのよ」

「そんなことができるの?」

「勿論よ、アカギ様はとても素晴らしい人だから、それくらい簡単にできちゃうの。そしてあたし達はその新しい世界で暮らすのよ。どう?楽しそうでしょう?」

けれど予想外のことが起きた。少女はその大きな藍色の目をぱちぱちと瞬かせ、沈黙したのだ。
幼く無知な彼女なりに、何か、を必死に考えようとしていることが汲み取れたから、あたしは答えを急かすことなく彼女の言葉を待った。
やがてヒカリは困ったようにその眉をくたりと下げ、「戻って来られる?」と、縋るようにあたしに、何も知らないあたしに問い掛けたのだ。

「皆に会えなくなるのは寂しいから、連れていってほしい。でも二度と戻って来られないなら、私は、付いていけないかもしれない」

「あら、あたしやアカギさんよりも、このつまらない世界の方が大事なの?」

クスクスと笑いながら彼女に意地悪をする。あたしはきっと少し焦っていたのだろう。
彼女が返答を渋るとは全く思っていなかったのだから、きっとあたしはジュピターの言うように「考えなさすぎ」だったのだろう。
そして彼女があたしのことを「羨ましい」と言ったように、あたしだって、この無知で無垢な少女のことを、きっと羨んでいたのだろう。

彼女はあたしの意地悪な言葉を受けて、益々困ったように顔を歪めた。
しまった、泣かせてしまうかもしれない。そんな想定をして青ざめる程度には、もうすっかり私も、この子に情を移してしまっていたのだろう。
けれど彼女は泣かなかった。代わりに「でも、だってね、」と音を重ねながら、ありふれた、しかしあたし達が気付くことを忘れていた「当たり前」を差し出して、笑った。

「この町から見える星はとても綺麗だよ」

「……」

「新しく宇宙を作らなくても、この世界にだって素敵なこと、楽しいこと、いっぱいあるよ」

その「新しい宇宙」とやらは、この素晴らしい世界を潰してまで手に入れなければいけない程に、高尚で完璧な形をしているのか?

そんな風に、彼女に問われている気がした。
無知で無垢で、世の中のことを何も知らないようなこの小さな子は、
しかし難しい言葉こそ使わないものの、あたし達が見ることを忘れた全てを、その藍色に映しているように思われてならなかったのだ。
何も知らない筈の彼女の目に宿った真実は、ともすれば神々しささえ感じさせるような眩しい言葉の響きをもってして、あたしの心臓を大きく揺らした。
それだけでは飽き足らず、その言葉はあたし達の思想を真っ直ぐに糾弾し、責めたのだ。
そこまで理解したあたしは急に恐ろしくなって、これ以上その話題を続けることができなかった。

彼女の小さな手にチョコレートの包みを握らせて、「アカギ様のところへ行ってらっしゃい、きっとヒカリを待っているから」と告げれば、
彼女は先程までの困り果てた表情をなかったことにするかのように、満面の笑みで大きく頷き、踵を返してぱたぱたと駆け出した。
あたしは目を閉じて、彼女の靴音が少しずつ小さくなり、ドアを隔てて完全に消えるのを、待っていた。
……アカギ様、とあたしは心の中で彼に問い掛けた。

貴方はあの子を手に入れられないかもしれない。

そうなった時に、貴方はあの子を手に掛けますか?無理矢理にでも引き入れますか?
貴方の望む世界を拒む彼女を、切り捨てることができますか?もしそうすることを選んだとして、貴方はあの子に勝つことができますか?
あたしのように、情を移されてはいませんか?あの子を少しでも愛しいと、思ったことはありませんか?

貴方の心は何処に在りますか?

彼女に毒されているのがあたしだけであればいいと思った。けれどそんなめでたい奇跡など、起こる筈もなかったのだろう。
……誤解のないように言っておくと、あたしはアカギ様のこともギンガ団のことも好きだ。それなりに愛着もあったし、慕っていた。
けれどきっとそれ以上に、彼女の藍色は眩しすぎた。それだけのことだったのかもしれない。

……あたしは度胸とバトルの強さだけが取り柄の、ただのつまらない女の子だった。
だからきっと、アカギ様はあたしを見限るだろう。彼の捨てる「つまらない世界」に、きっとあたしも入っている。
けれどもし、あの子が少しでもあたしに情を移してくれたなら、あたしがあの子に毒されたように、あの子があたしを忘れずにいてくれたなら、
その時は、あたし達の目指した「新しい宇宙」は、彼女がいつか空へと伸べた手の中に芽吹いてくれるに違いなかったのだろう。

彼女の手はきっと天を掴む。
つまらないあたしの、つまらない確信は、しかしほんの少しばかりの時を経て真実になる。

2016.3.18
(燃えるような赤)

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