天を読む藍

2 - Mars(1) -

別に、今の世界に不満がある訳ではなかった。ただ、此処にいるととても楽しい。
頑張れば頑張っただけ評価してもらえた。あたしの努力に応えるようにポケモンも強くなっていった。
道行く人はこの服を身に纏ったあたし達を見て驚き、怯え、道を開けた。よりにもよってこんな、世界のことなど何も知らないような女の子に!

どうしようもなく楽しかった。だってこの世界はあまりにも愚かなのだ。
そうして世界を「愚か」だと嘲笑してきたあたしが、しかし影でずっとあの人に馬鹿にされ続けていたのだと、
あたしが好んで属していたのは、そうしたあまりにも冷たい場所だったのだと、知るのはもう少し後のことだったのだけれど。

オフの日には、ジュピターを誘って町に出掛けた。
幹部なんて大きな肩書きを持ってはいるけれど、あたしも彼女もごく普通の女の子に違いなかったから、
デパートでウインドウショッピングをすることも、お洒落なカフェで可愛いスイーツを食べることも、飽きる程にお喋りをすることだって、当然のように楽しかった。

「あんたのパフェ、美味しそうね」

「あ、待って苺は取らないで!ここ、ここのラズベリーなら食べてもいいから」

「はいはい」

ジュピターはあたしよりもほんの少し年上であるようだったけれど、あたしは彼女に敬語を使わなかった。
彼女もあたしと同じ幹部で、立場としては互いに全くフラットな位置にいたし、何より彼女が「そんな堅苦しい言葉で喋らなくてもいい」と言ってくれたのだ。
あたしはそれなりに気が強いタイプだったから、言いたいことを何でも言った。彼女はそんなあたしの遠慮のなさに苦笑しながらも、同じように何でも言い返してきた。

彼女はあたしよりもずっと賢く、頭の回転も速かったけれど、ボスであるアカギ様から命じられていたのは、外に出掛けて実力行使をする、あたしのような仕事が殆どだった。
彼女はよく「だってあたしよりもずっと賢い奴がいるじゃないの」と言ってサターンの名前を出したけれど、あたしにはどうにもそうは思えなかった。

けれどそうした疑問など、直ぐに忘れてしまった。だってジュピターとの時間はとても楽しいのだ。
同僚であり、仲間であり、友達であった彼女から学ぶことはあまりにも多くあるように思えてならなかった。
その賢さをあたしだけが知っていたとして、それはとても幸せなことなのではないかと思ったのだ。

「あたし達のしていることは、正しいのかしら」

そんな彼女は時折、悲しそうな顔でそんなことを口にした。
甘くてほろ苦い抹茶ラテに描かれた白い模様をスプーンで崩しながら、少しずつ飲むその姿はやはり大人びていて、あたしとは少しばかり違うところを生きているように思えた。
あたしはほろ苦さを醸す抹茶ラテよりも、ひたすらに甘いキャラメルラテが好きだったし、
ギンガ団で働くことがとても楽しいという思いだけで此処まで来たのであって、彼女のように組織の行く末やその倫理性を憂えたことなどなかったからだ。

「ジュピターは偉いわね。いろんなことを考えて生きているのね」

「あんたは考えなさすぎなのよ。……でも、そうね。あんたみたいに何も考えずに生きていられたらよかったんだろうなあって、思う時があるわ」

「えー、何よそれ、あたしが馬鹿だって言いたいの?」

苦笑しながら噛みつくようにそう尋ねれば、「そんなことないわ、羨ましい」と、彼女らしくない言葉が返ってきて、あたしは思わず首を捻ってしまった。
変なの。賢い貴方があたしを羨む必要なんか、何処にもない筈なのに。羨んでいるのは、いいなと遠くから見ているべきは寧ろ、あたしの方である筈だったのに。

あたしは彼女の考えていることがよく解らなかった。解らなくても彼女のことは好きだったし、それはギンガ団やアカギ様だって同じことだった。
この大きな組織のしようとしていることが、正しくても間違っていても関係ない。あたしはこの場所が好きだった。それ以上のことは難しくて、考えないようにしていた。

あたしはこうして思考を停止させることで、自らの居場所と信念を守り抜こうとしていたのかもしれない。
ギンガ団という組織やあたしの信念というのは、そうして愚かになった振りをして、無知という装甲で頑丈に守らなければならない程に、脆く危ういものであったのかもしれない。

「彼女」は、きっとあたし達にそうしたことを思い出させたという点において、悉く革命的な存在だったのだろう。

「発電所の人が、出ていってくださいって」

あまりにも小さな子だった。10歳とのことだったけれど、確かに体格も小柄だったけれど、そんな数字よりも姿よりも、ずっと彼女は小さく見えた。
そのあどけない口調や、年上に敬語を使うべきだという礼儀すら知らないという思慮の無さ、
そして何より、それなりに怖い目つきをしていたギンガ団の下っ端達にも、そうして臆することなく話し掛けていく姿は、子供と呼ぶことすら躊躇われる程にただ、幼かった。

「それじゃあ、ポケモン勝負でどうするか決めましょう!あたしが勝ったら貴方が出ていく。その代わり貴方が勝ったら、あたし達、ギンガ団が消えるわ!」

けれどその幼さに反して、ポケモンバトルはそれなりに強かったのだ。
どれくらいを「それなり」とするかは人それぞれであるかもしれないけれど、少なくとも下っ端の連中、そして幹部であるあたしが僅差で負けてしまう程度には、強かった。

勝った、勝ったよとポッタイシに抱き着いて頬擦りする。
頑張ったね、ありがとう。そんなあまりにも無垢で真っ直ぐな言葉が彼女のポケモンを癒していく。
そうしてボールに戻してから、彼女はあたしの方へとスキップするように駆け寄って、『私の勝ちだから、出ていってくれるよね?』と、
まるであたし達との戦いが、彼女の考えた「遊び」であるかのような、そうした無垢な抑揚の言葉を悉く振りかざして、笑った。

とんでもない子供だと思った。こんな子を放置していたら、大事な仕事の邪魔をされて、取り返しのつかないことになる。
現にこうして彼女はあたし達を追い払おうとしているのだ。あたしを驚かせる何もかもを彼女は持っているように思われたのだ。

強いトレーナーなんて、彼女の他にも沢山いた。けれど彼等と決定的に違うのは、その目だった。
彼女はあたし達と対峙することを何ら恐れていない。ギンガ団と対峙することが「恐ろしいこと」であることを理解しない。
ただ純粋にあたし達のことを「ポケモントレーナー」として見ている。少し意地悪の過ぎるただの大人として見ている。
無垢の過ぎる子供だった。それ故にとても、眩しかった。

「あーあ、負けちゃった!」

「ふふ、勝っちゃった」

「でも、いいわ!貴方とのポケモン勝負、割と面白かったし」

彼女は恐れを知らなかった。彼女があたし達を恐怖することなど、これから先も二度とないのではないかと思えてしまった。
だからこそ、あたしは彼女に対して、恐れ以外の何か別の感情を抱かなければいけないように思われたのだ。
おそらくあたしにとってそれは、こんなにもわくわくするバトルができたことへの「喜び」と、この不思議な少女への「好奇心」だったのだろう。

彼女とは、また会える気がした。

「マーズさん、また会えるかなあ?」

「……ええ、貴方がもっと強くなったら、きっと!その時にはまたバトルをしましょう!」

そう言ってひらひらと手を振れば、少女は屈託のない笑みで、その小さな手を大きく振り返してきた。
彼女が手を上へと掲げれば、空にさえ届くように思われた。そのまま大きく振り下ろせば、きっと雲さえ割けたのだろうと思えた。

誤解のないように言っておくと、あたしはギンガ団に謀反するつもりで、あの少女から呆気なく手を引いた訳では決してなかった。
ギンガ団のことは大好きだし、アカギ様のことだって尊敬していた。彼に付いていけば何もかもが上手くいくのだと、信じて疑わなかった。
あの子が今後も「遊び」の延長でギンガ団の邪魔をするのなら、今度こそ、一片の油断も見せることなく本気で叩きのめすつもりだった。

けれど、あたしが「本気」で彼女と戦うことは、二度となかった。
本気で戦ったところで勝てなかったのかもしれないけれど、何より、本気など出せなかったのだ。

彼女は猛毒だった。

2016.3.18

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