28

わたしははっと顔を上げて、振り返って、……そして、わたしがあまりにも長い間、雨に濡れていることに気が付きました。
「すぐに戻る」と言っておきながら、わたしは長い間、彼女をあの洞穴で待たせてしまっていたのです。彼女は戻ってこないわたしを不審に思い、追いかけて来てくれたのです。
今、こんなものを取り上げたのだって、きっとそうしたわたしに少しばかり不満があったからです。きっとそういうことなのです。

けれど彼女は、その日記に手を掛けました。

ミヅキさん、」

そしてわたしが彼女の名前を呼んだのと同時に、彼女はノートに手を掛けてビリビリと引き裂いたのです。

「や、やめてください!」

「……」

ミヅキさん、どうして、」

『皆が大好き、私は幸せ。皆が大好き、私は幸せ。笑って笑って、笑顔で大好きって、言え。』

日記の一文がわたしの思考を貫きました。わたしはあまりのショックに、愕然と立ち尽くしてしまったのです。
そうした奇怪な行動をした彼女に愕然としたのではありません。
彼女が奪い取ったあの日記の中に生きる女性を、わたしが、あろうことか今の彼女に重ねてしまったことに、途方もないショックを受けたのです。
目を細めてわたしを見る、あまりにも冷たいその視線が、彼女に奪い取られたノートの中身と、あまりにもぴったりと重なりました。重なり、溶けて、一つになってしまいそうでした。

わたしは自分のそうした思考が信じられなくて、大きく首を振りました。そんな筈がない、と思いました。
けれど否定すればする程に、あの異常な言葉達が今の彼女の姿にべっとりと貼り付いて、剥がれなくなってしまったのです。

彼女はその日記を破いて、また破いて、更に破きました。わたしは何も言うことができずに、彼女のその行為を、愕然とした表情で見ていました。
落ちていく重たい紙片を、彼女はまるで泥を見遣るかのような目つきで睨み付けました。足を大きく振りかぶって、一番大きな紙の塊を海へと蹴飛ばしました。
遠くへ飛んだ、痛烈な言葉達が刻まれたその紙は、ぽちゃんと軽い音を立ててアローラの美しい海に沈み、あっという間に見えなくなってしまいました。

沢山の言葉と感情が、嵐のように暴れながら、わたしの中に吹き込んできました。

『みっともないみっともない、不気味なお化粧もお年寄りみたいな髪も大嫌い、やめたい。』
たとえば、あの「不気味なお化粧」というものが、唇に濃く引かれた青いリップを指しているのだとしたら。
「お年寄りみたいな髪」が、ペンキを被ったかのようなわざとらしい白で染められてしまった、柔らかなボブヘアーを指しているのだとしたら。
そうした姿を心から楽しんでいるように見えた、その笑顔の裏に、このような苦悩が隠されていたのだとしたら。

『マラサダが食べられない。吐きそう、でも食べなきゃ。美味しいって言わなきゃ。』
たとえばこの女性は、吐きそうな程に相容れなかったマラサダを、「大好き」「美味しい」と、いつも笑顔で告げていたのだとしたら。
マラサダが大好きな友達のために、笑顔で友達の言葉に同意していたのだとしたら。そうしなければいけないのだと、この女性が思い込んでいたのだとしたら。
大好きだよという「呪文」が、この女性が呼吸をするために必要なものであったのだとしたら。それでも食べられなくて、苦しくて、海に捨てていたのだとしたら。

『ガラガラの炎に手を入れたら怒られてしまった。火傷も痛かったけれど、「炎に触れられないんだよ」と諭されたことの方がずっと痛くて苦しい。』
たとえば日記の中にいた女性のそうした奇行は、あらゆるところで日常的に為されていたのだとしたら。
炎の中に手を差し入れたり、崖から飛び降りたり、海に深く深く潜ったりといったことを繰り返していたのだとしたら。
炎に触れられないことも、空を飛べないことも、海になれないことも、何一つ認められないまま、自らを虐めるようにそうした施行を繰り返しては、
その全てを為すことが叶わない彼女自身を、益々嫌っていたのだとしたら。

『水が欲しい、頭が痛い、頬が痛い、喉が痛い。駄目、駄目、笑え。』
たとえばザオボーさんが彼女に掛けた「喉が渇きませんか?」という言葉は、彼女の真実を射ていたのだとしたら。
彼女はいつも、いつでも、喉が渇いていたのだとしたら。息のできない自分に、嫌気が差していたのだとしたら。それを「喉の渇き」で誤魔化していたのだとしたら。

『助けなんか呼べない。呼んだって誰も来ない。ちゃんと解っているよ、大丈夫。』
この日記の中の女性が助けを呼べなかったのは、隣に、この女性よりも煌めく宝石があったからなのだとしたら。
その宝石が本当に「宝石」であったのかは問題ではなく、この女性がそう思い込んでいたのだから、それがこの女性にとっての真実であったのだとしたら。
その女性を心から慕っていた筈の「宝石」は、無自覚にずっと、この女性の首を絞め続けていたのだとしたら。宝石が女性の呼吸を、奪い続けてきたのだとしたら。

『大好き』
たとえばわたしがこの日記に強烈な既視感を抱いたのは、この日記を書く人物の姿を、ずっと傍で見ていたからなのだとしたら。
この女性は、母様と同じような身勝手さを振りかざすこの女性は、強迫的に「大好き」を繰り返し続けたこの女性は、心でずっと泣きながら表では頑なに笑い続けてきたこの女性は、

他でもない、貴方なのだとしたら。

ミヅキ、さん……」

彼女はどうしてこんなことをしたのでしょう。
これを拾い上げて読んでいるわたしを見なかったことにしていれば、彼女は、誤魔化すことができた筈です。
この日記には名前が書かれていません。この日記の持ち主の名前も、その持ち主が出会った人物の名前も、何一つ、特定できる要素などなかったのです。
髪を白く染め、青いリップを塗った女の子など、きっとアローラ中を探せば他にも見つかるでしょう。
ガラガラの炎に手を差し入れた女の子、マラサダをどうしても受け付けられない女の子、歪みを呈した女の子、……それだけでこの女性を彼女とするのはあまりにも早計です。
意図的に「誰」であるかを伏せて書かれたこの日記を、わたしは、彼女がこんなことをしなければ、彼女のものだと気が付くことができなかったでしょう。
それ程に、わたしの知る彼女と、この日記の中の女性とはかけ離れていました。二人を重ねてみることは困難でした。

けれど彼女は日記を取り上げてしまいました。私の目の前でびりびりと、まるで彼女自身にナイフを突き刺しているかのように、執拗に何度も、何度も破きました。
これ以上、わたしにその日記を読ませないようにするための行動だったのかもしれません。
彼女は、誤魔化すつもりだったのかもしれません。どうか見抜かないでと、祈っていたのかもしれません。
けれど、皮肉にも彼女のそうした行動によって、わたしは、あの日記の見た目に抱いていた既視感の正体を、確信せざるを得なくなってしまったのです。

わたしはあの日記を見たことがありました。彼女はいつも、茜色の分厚いノートに何かを書いていました。
夕焼け色の栞を挟んで、ふうと小さく溜め息を吐いていました。わたしの視線に気が付くと、それをさっと鞄の中に仕舞って笑っていました。眩しい、笑顔でした。
最近はその冊子を見ることがなかったから、忘れていたのです。記憶の海に飲まれて、わたしの中から消え去ろうとしていた存在だったのです。
それがこのような形で、今、この島に打ち上げられています。わたしはこの日記の存在に気付き、拾い上げてしまいました。そして彼女は、破いてしまいました。

彼女は優しい女の子です。赤の他人の日記を、そんなにも惨く破いてしまえるような人間ではありません。
彼女は皆のことが大好きでした。全ての存在に「大好き」と告げて笑っていました。それが心からのものであることにわたしは気付いていました。
彼女が「大好き」を言えない相手は、彼女自身だけでした。
だからわたしは、その日記が誰のものであるのか、解ってしまいました。

そして彼女は、笑って、呪いの言葉を吐いたのです。

「リーリエ、大好きだよ」

数日ぶりに聞くことの叶った声でした。わたしが望んでいた、ずっと待っていた彼女の笑顔でした。眩しくて優しい、そんな満面の笑みがそこにありました。
けれどわたしは、恐ろしくて、叫び出したくなって、でもできなくて、彼女はとても幸せそうに笑っていて、笑顔のままに私の名前を呼んでいて、大好きだと言ってくれて、

そんな貴方がこんなに苦しんでいたなんて、知らなかったのです。

ミヅキさん、どうしてわたしに、何も、」

言ってくれなかったのですか、などという言葉だって、もう何の意味もないことは解っていました。
わたしは宝石なのです。彼女は小石なのです。わたしは彼女を苦しめていたのです。彼女の呼吸を奪っていたのは、わたしだったのです。
少なくとも、彼女にとってはそうだったのです。彼女にとって、わたしの輝きの方が彼女の輝きよりも遥かに、上回っていたのです。
わたしこそが、かけがえのない存在だったのです。彼女は小石であり、端役だったのです。彼女は、排斥されることに怯えていたのです。そういうことだったのです。

でもわたしにとっては違いました。私は何の力も持っていなくて、何もできなくて、けれど貴方は違いました。
貴方はいつでも強くて勇敢で優しくて、笑顔の絶えない女の子で、わたしはそんな貴方のことが大好きでした。
貴方の背中に、いつだって金色の翼を見ていました。わたしは貴方に憧れていました。貴方はわたしの天使でした。

そうしたことを、わたしはもっと早く伝えるべきだったのでしょう。
彼女は「大好き」と紡ぎ続けてくれたのに、わたしは一度も返事をしなかったのです。天使がわたしの隣で羽ばたき微笑むことが、当たり前のことのように思えていたのです。
彼女の「大好き」は、挨拶のようなものだと思っていました。その挨拶にさえ彼女の輝きが溢れていて、わたしはたまに眩しくて、目を逸らしそうになっていました。
ようやく、わたしが同じように想いを伝えられるようになったときには、もう、何もかもが遅すぎたのです。
彼女は、わたしの天使は、わたしが天使だと信じていたその人は、もう戻ってこないのです。戻ってくる筈がないのです。
何故ならその翼は、わたしが殺ぎ落としていたからです。彼女はわたしのせいで、もう、羽ばたくことなどできないのです。

「……」

笑ったままの彼女が、あまりにも雄弁にその事実を責め立てていました。わたしはごめんなさい、と言うことさえできませんでした。
次に口を開けば、謝罪ではなく嗚咽が零れてしまうことが分かっていたからです。


2017.1.4

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