29

太陽の笛は、小高い丘の上にありました。
彼女はそれを取り上げて、鞄の中に仕舞いました。そのまま振り返り、わたしの方を見て、「行こう」と促すように頷きました。
まるであれが、彼女が最後の力を振り絞って紡がれた言葉であったかのように、彼女はそれからまたしても、一言も口を開こうとしませんでした。
けれどその沈黙は、これまでわたしと彼女の間に降りていたものと、似ているようで全く異なっていました。

彼女は声を発することができないのではなかったのです。笑えなくなった訳でもなかったのです。
話したくなかったのです。笑いたくなかったのです。言葉を紡ぐことに、笑うことに、彼女はいよいよ疲れてしまったのです。
彼女を疲れさせてしまっていた、その犯人が「わたし」であることに、わたし自身も驚き、困惑していました。
泣くことを、喚くことを決してしない彼女の代わりに、わたしが叫びたくなってしまいました。泣いて、縋って、俯いた彼女の肩を揺さぶって、どうして、と問いたくなりました。
けれどわたしはもう、そうした利己的な理由で彼女に触れようとすることができなくなりました。恐ろしかったのです。ひどく、悲しかったのです。

長い間、雨に降られていたわたしと彼女の、びしょ濡れになった姿を見て、団長さんは随分と驚いていました。
慌てたように2枚のタオルを差し出して、コイキング丸に乗るように促してくださいました。
ちゃぷん、とコイキング丸にぶつかる小さい波の音を聞きながら、わたしと彼女は船に乗り込みました。船は、静かにナッシーアイランドを離れ始めました。

『触らないで、貴方が汚れちゃうよ。私みたいになると愛されないよ。』

メレメレ島での彼女の言葉を思い出しながら、わたしは団長さんから渡されたタオルで、鞄やスカートや髪を拭いていました。
コイキング丸に腰掛けた彼女にも同じタオルが渡されていましたが、彼女はそれを徐に膝の上へとのせるだけで、びしょ濡れになった頬を拭うことさえしませんでした。
風邪を引いてしまいますよ、と声をかけることができませんでした。茫然と海を眺める彼女の横顔があまりにも白く見えました。
あの時のように拒まれるかもしれない。今度はあの日記のように振り払われるかもしれない。泥を見るような目で睨まれてしまうかもしれない。けれど、それでも。

「……」

彼女の膝で大人しくしているタオルをそっと取り上げて、わたしは向かいの席から身を乗り出し、彼女の頭にタオルを被せました。
「お年寄りみたいな髪」の白をすっかり落とした、彼女の墨のような黒い髪にそっとタオルを押し当てて、滴り落ちる雨を引き取りました。
彼女は、拒みませんでした。目を見開くことも首を振ることも、声を発することも、わたしの方を見ることもしませんでした。
だからわたしは止めませんでした。髪を拭いて、頬を拭って、海の方を向いている彼女を見つめました。

「大好きです、ミヅキさん」

遅すぎる言葉でした。解っていながらわたしは、どうしても言わずにはいられませんでした。
もう届かないかもしれない言葉を、わたしは一音ずつ、強調するようにゆっくりと告げました。言い聞かせるように、彼女の心に刻み込むように、言いました。

「貴方がわたしをどう思っていたとしても、わたしは貴方のことが大好きです。宝石だったのは貴方です。わたしじゃありません」

わたしは利己的な人間です。それは、わたしが後悔しないように紡いだ言葉でした。わたしのための言葉でした。
彼女に届けたい想いであると同時に、わたしを奮い立たせるための言葉でした。私が楽になるための、前に進む力を得るための言葉でした。

彼女の目は幻を見ているのです。現実に生きるわたしの言葉など届きません。幻を見る彼女に共鳴しようと思うのなら、わたしも幻を見なければいけなかったのです。
けれど、できませんでした。恐ろしかったからです。戻れなくなってしまいそうだったからです。
わたしが傍にいたいのは、幻を見ている彼女ではありません。現実の、この美しいアローラの大地を笑顔で歩く彼女です。天真爛漫な笑みを湛える、天使のような彼女です。
けれど、わたしが見ていたその姿こそが幻だったのだとしたら、……わたしは彼女を、彼女の暮らす歪な幻の世界から、連れ出さなければいけません。

「貴方の、世界を見る目は間違っているんです。歪んでいるんですよ、ミヅキさん、解ってください」

「……」

「わたしだってガラガラの炎に触れれば火傷をします。わたしだって海にはなれません。宝石みたいな硬いものを食べることなんて、できません。
それに、貴方はリザードンさんを呼び出して空を飛ぶことができるけれど、ポケモントレーナーではないわたしには、それさえできないんです。
秀でているのは、輝いているのは、いつだって貴方だったんですよ。貴方は、貴方が輝いていることに気が付いていないだけだったんですよ、ミヅキさん……」

彼女を幻の世界から連れ出す。そんなこと、わたしにはできないのかもしれません。
ウルトラビーストのことばかり考えるようになった母様を、わたしや兄様が止められなかったように。
母様とまるで似ていなかった筈の彼女は、けれどあの日記の中に、母様にとてもよく似た身勝手さを宿していました。
そうした歪を呈してしまった彼女に、正常な認知を思い出させることなど、わたしには、荷の重すぎる話だったのかもしれません。
わたしは彼女ではありません。わたしには、何の力もありません。振るうべき力となるものを何も持ちません。勇気も度胸もありません。
わたしが持っているのは、言葉と想いだけです。想いを彼女に届けること、言葉を彼女の心に響かせること。彼女を助ける術は、それしかありません。

「貴方は間違っています」

わたしの天使を否定しなければならない時が来るなんて、思いもしませんでした。

海の民の村へと戻り、わたしと彼女は二本の笛を携えて、ポニ島を奥へと進んでいきました。
ボールから出てきたポケモンさんは、まるで彼女の心を読んでいるかのように、何も言われなくても最善と思われる技を、最善のタイミングで繰り出していきました。
ハプウさんとのバトルにも勝利して、彼女はポニの大峡谷をあっという間に抜けていきました。
わたしと同じくらいの背丈である筈の彼女は、けれどわたしよりもずっと大きな歩幅で大峡谷を駆けました。
わたしは置いていかれようとしているのかもしれない。そんな風に思って青ざめましたが、彼女は一定の距離を進む度に振り返って、わたしが追い付くのを待ってくれました。
彼女は必ずわたしを待ちました。わたしを置いていったことはただの一度もありませんでした。そして決して、わたしに隣を歩かせようとはしませんでした。

島を巡り、伝説のポケモンさんを呼び出すための笛を手に入れ、祭壇への険しい道を進む。……その道は困難を極める筈でした。もっと長い時間がかかるのだとばかり思っていました。
まだ猶予がある。まだ彼女と一緒にいられる。まだ彼女に沢山の言葉を差し出せる。彼女に沢山の想いを届けられる。そんな風に思っていました。
けれどそうした私の予測に反して、彼女はあまりにも容易く島を駆け、祭壇の待つ長い階段へと辿り着いてしまったのです。

「……」

この階段を上がった先に、祭壇があります。わたしはそこで彼女と共に笛を吹きます。
伝説のポケモンさんは、現れるのでしょうか。現れたとして、わたしと彼女をウルトラビーストの世界に連れて行ってくださるのでしょうか。
母様とグズマさんのいる世界へと向かうことが叶ったとして、二人を連れ戻すことが叶うのでしょうか。
そして、全て上手くいったとして、彼女は笑うことができるのでしょうか。
強迫的な、強いられたものではなく、心からの笑顔を彼女が浮かべられるようになるためには、一体、どうすればよかったのでしょうか。
わたしが紡ぎ続けた言葉は、差し出し続けた想いは、やはり遅すぎたのでしょうか。

彼女は一段目に足を掛けて、そして、数歩後ろに立っていたわたしの方を振り返りました。

「……一緒に、上ってもいいのですか?」

頷いてくれた彼女の姿が、ぐらりと揺れました。わたしは直ぐに地面を蹴って、彼女に駆け寄りました。
次に瞬きをした時、きっと雨粒は容赦なくわたしの頬を濡らすことでしょう。構いませんでした。それ程に嬉しかったのです。安心していたのです。

ありがとうも、ごめんなさいも、何もかも遅すぎました。わたしは意味のない言葉ばかり紡ぎ続けてきました。
そうした虚しい音を紡ぎ、嗚咽を零すわたしが隣を歩くことを、彼女は許してくれました。
それは彼女の気紛れであったのかもしれません。これから母様のところへ会いに行くわたしを、元気付けるためのものであったのかもしれません。
構いませんでした。許されたのだと思わなければ、心が壊れてしまいそうだったからです。わたしも幻を見ていなければ、息ができなくなってしまいそうだったからです。

だからわたしはもう、何も言いませんでした。無言で頷いて、彼女の手を取って、一段目に足を掛けました。
それにどのみち、言葉など零れなかったでしょう。いつかのように、わたしの喉は嗚咽で塞がっていたのですから。想いを紡ぐ予知など、まるで残されていなかったのですから。
言葉の代わりにわたしは彼女の手を強く握りました。彼女は握り返しませんでした。力なく垂れ下げられたその手は氷のように冷たいものでした。構いませんでした。
一段ずつ、踏みしめるように上りました。日は傾き始めていて、沈む西日が彼女の横顔を明るく照らしていました。

最後まで登り切ったところで、わたしは彼女の手を離しました。彼女は特に意に介する様子もなく、くるりと踵を返して歩き始めました。
誰に指示された訳でもないのに、わたしは何処に立ってこの笛を吹けばいいのか解っていました。きっと彼女も同じだったのでしょう。
笛を吹くべき場所へと向かっているのだと、解っていたからわたしは彼女を呼び止めませんでした。わたしも後れを取らないように駆け出して、月の模様の上に立ちました。
反対側の、太陽の模様の上に立った彼女は、わたしの方を見て大きく頷きました。笛を構えて、息を吸い込みました。

あまりにも美しい音色でした。沈む直前の夕日が、煌々とこの祭壇を照らしていました。
天使の歌声のようなメロディを奏でる月の笛と太陽の笛は、まるで一つの楽器であるかのように、鮮やかな共鳴を為していました。
奏者である彼女と、もうずっと前から心が通い合っていたかのような、そうした、傲慢にも程がある錯覚を抱く程の、美しさだったのです。夢を見ているかのようだったのです。

伝説のポケモンさんは現れてくれるでしょうか。わたしの言葉に耳を傾けてくれるでしょうか。わたしの願いを、聞いてくれるでしょうか。
不安が胸を満たしましたが、それらは全て杞憂でした。わたしの背負っていたリュックサックが、大きく震え始めたからです。


2017.1.4

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