青の共有

15

コガネシティの大通りから少し逸れた静かな場所に、彼女の事務所はありました。
弁護士になってからの最初の仕事に、彼の裁判を個人で引き受けてしまった彼女は、先輩に教えを乞うタイミングを完全に逃し、以来、独立して仕事を続けてきたのです。
働き始めが一番大変だと、どんな仕事でもいいますが、彼女の場合はそれが顕著だったように思われました。
寝不足で倒れ、妹に指摘されるまで、自分が追い詰められていたことに気付かなかったこともありました。彼女には少し、己の限界を弁えないきらいがあったのでしょう。

クリス、電話ですよ」

そうした訳で、今の事務所は、少女ともう一人で動いている状態でした。その「もう一人」こそ、彼女に受話器を差し出してくれた、彼女と全く同じ色を持つ男性だったのです。
左手にコーヒーの入ったマグカップを持っているところを見るに、休憩をしようと誘ってくれるところだったのでしょう。
けれど、仕事は待ってくれません。解っていたから彼女は文句を言うことなく、困ったようにふわりと笑って受け入れました。

「新しい人でしたか?」

「いえ、貴方の妹ですよ。ポケナビに掛ければいいのに、こちらへ連絡を寄越すなんて、どうしたのでしょうね」

ワカバタウンの家に住む妹からの連絡に、彼女は首を傾げました。思わず時計を見ると、短針がもう直ぐ1を指そうとしていました。
こんな時間まで妹が起きていることに驚きを隠せなかったのでしょう、若干の不安を抱きながら受話器を受け取りました。

『お姉ちゃん、久し振り!』

しかし聞こえてきたのは、いつも通りの明るい声でした。
受話器の向こうの彼女に聞こえないように、小さく安堵の溜め息を吐きます。どうやら彼女の身に何かがあった訳ではなかったようです。

コトネ、元気そうね。急にどうしたの?」

『あのね、受けてほしいお仕事があるんだけど……。ゲーチスって人、知ってる?』

まさか実の妹に仕事の依頼をされるなどということを、彼女も予想だにしていなかったのでしょう。
そのことに驚きながらも、仕事の姿勢になった彼女の耳はしっかりと、聞き慣れないその人物名を拾い上げていました。

「ゲーチス?……ううん、知らない」

思わず零れたその名前に、マグカップを持ったままの男性が素早く反応しました。
妹の次の言葉が聞こえてくるよりも、彼がノートパソコンを開ける方が早く、思わず彼女は笑ってしまいました。
……此処で断ってしまえば、今まさに彼が取り掛かった情報収集が無駄になってしまう。そう考えた彼女は「いいよ」と二つ返事で了承しました。
最近は離婚や遺産相続など、民事訴訟ばかりを受け持ってきたので、久し振りの刑事訴訟に背筋が伸びる思いがしていることもまた、事実でした。
ふう、と彼が大きな溜め息を吐いたので、どうしました?と尋ねれば、彼は呆れたように溜め息を吐いて、長い指でパソコンを示しました。

彼のノートパソコンは、彼女が妹のコトネと電話をしていた1分程の間に、膨大な情報をプラウザに引き出していました。
彼の巧みな技に感嘆の溜め息を零しながら画面を覗き込んだ彼女は、幾つか、気になる言葉を見つけたようでした。

「プラズマ団?」

「イッシュでポケモンの解放をうたい、3年前に解散した組織ですね。1年前に再び姿を現しているようですが、その時も再び解散に追い込まれています」

「ふふ、何だかロケット団みたいですね。まさか解散に追い込んだのは、12歳くらいの子供、とか?」

冗談で紡いだその言葉に、彼は苦笑して別のプラウザを開きました。
そこには二人の少女が映っていました。ふわふわの髪をポニーテールにした少女に彼女は見覚えがあったようで、思わず「あ」と声を上げます。

「この子、コトネのお友達です。トウコちゃんっていうんですよ」

「……会ったことがあるのですか」

「いいえ、ワカバタウンに泊まりに来たことがあったみたいで、その時に撮った写真を見せてもらったんです。……あ、この緑の髪の彼も、写真に写っていました」

凄い子だったんですね、と感心して紡ぐ傍らで、彼女は既にこれからの立ち回りを考えていました。
事件の当事者がこんなにも近い距離に居る状況を、上手く利用しなければなりませんでした。
繋がりは多ければ多い程いいということを、彼女はあれから3年の弁護士生活で学び取っていたのです。
この世界では、したたかに生きなければならない。解っていました。
それは何も法律の世界に限ったことではないのだと、この複雑な世界においては全てがそういうものなのだと、彼が聞けば「何を今更」と笑ったのでしょうか。

「あ!この服、テレビに出ていました。可愛いですよね」

「……そうですか?暑苦しそうだな、と思いますが」

「イッシュは比較的カラッとした気候なのかもしれないですね」

案件と全く関係のないことをあまりにも穏やかに喋り合いながら、夜は更けていきます。
それもいいか、と思ったのでした。どうせこの後、いつもなら二人でコーヒーを片手にお喋りする予定だったのですから、同じことだったのです。
どちらからともなく立ち上がり、二人掛けのソファに移動します。プツン、とパソコンの電源が切れる音が静かな部屋に響きました。

二人の世界は共有されていました。二人の言葉は共鳴していました。そのことを確かめるように、噛みしめるように、二人はこうして飽きる程に言葉を交わすのでした
彼女は少しふざけて肩に頭を預けました。彼は少しだけ驚きましたが、当然のように笑っていいました。それがおかしくて、彼女もまた笑ったのでした。



シアちゃんはとても強い子です。勇気の子なんですよ。凄いなって、話をする度にいつも思います」

ゲーチスさんを迎えに行きたい。
あそう訴えたのは、若干13歳の少女でした。
彼女こそ、新生したプラズマ団を再び解散に追い込んだ人物であり、この半年間、ゲーチスさんの元に通っていた曰くつきの人間だったのです。

「彼は既に裁かれている」と、その小さな女の子は言いました。
彼の右腕は、キュレムと言うポケモンにより失われてしまったようです。そのことを少女は「裁かれた」と表現しました。
彼女の仕事は、担当者の罪に相応しい法を充てることでした。暴走しがちな正義や世論から担当者を守るためのものでした。
それなのに、と彼女は一人、笑いました。弁護士としてあるまじきことだという自覚はあったけれど、どうしても、止まらなかったのです。
彼女は明らかに、被告人であるゲーチスさんの為ではなく、依頼人であるシアの為に動いていました。そこには公平かつ公正なものなど何もありませんでした。
ただただ、彼女の大きすぎる慈悲によるものでした。
つまるところ、彼女も等しく人間であったのでしょう。

「それは無謀と言うのではないですか?」

「でも、世界を変えようと思うなら、少し無謀で、とても欲張りな方がいいんですよ」

同じ色を持つ男性の問いかけに、彼女はそう返して微笑みました。

「私は欲張りになれなかったんです。折角のペンと剣を使いこなせなかったんです。
釈放されて途方に暮れる人を私は何人も見てきました。でも手を差し伸べることはしなかった。弁護士としての職務はここまでだって、私のできることに線引きをしていたんです。
一人の人間が救えるものは限られていることを、私は知っています。ちょっとポケモンバトルが強いかもしれないけれど、でも、それだけです。私は無力です」

「……そんなことはありませんよ」

困ったように笑いながら、彼はそうやって否定の言葉をくれるのです。
でも、違うのだと彼女は解っていました。彼女は本当に無力だと、思っていたのでした。けれど「無力」であるのは「私」に限った話ではないのだということも、心得ていました。
シアは自分の力が、世界の広さに比べてとてつもなく小さいことを知らないのだと思っていました。それは無知故の暴走で、危険なものだと彼女は初め、そう思っていました。
しかしどうやら違ったようです。あの少女は彼女が考えるよりもずっと聡明でした。
あの子は、知っているのです。自分が無力であること、自分の力で救えることは限られていることを。

「でもシアちゃんは、それを知っていながら、それでも身の丈に合わない大きな救いを求めて頑張っているんです。
一人の力は小さいことを知っているから、同じようにゲーチスさんを慕う人を集めています。協力してくれる人に片っ端から助けを求めています。
人と関われば関わる程に、救いたいものは増えていくと知っていながら、その全てを拾い上げようとしています。とても頑張りやさんで、欲張りな子なんです」

「無茶と強欲は子供の特権ですからね」

「……ちょっとだけ、羨ましいなあ」

幼さ故に無謀で、多くの人に縋ることのできる力を持っている。
彼女はもう大人でした。彼女は、あの子のように幼かった頃には戻れません。故に、彼女のように無謀にも欲張りにもなれません。……けれど。

「でも、こんな私でも、一番救いたい人を救えた。私にはそれで十分です。他には何も、何も要らなかったのでした」

でも、少しだけ、本当に少しだけ、あの子のようになってみたくなったのでした。私にできることは、もっと沢山あるのではないかと、そんな風に思うようになったのでした。
私が欲張れば、変えられるものはもっとあるのかもしれない、手に入れたペンと剣を、もっと沢山の人の為に使うことができるのかもしれない、だなんて。
そんな風に思い上がってしまう自分がおかしくて彼女は笑いました。笑う彼女を、欲張る彼女を、彼は同じように笑って許しました。

「それじゃあ、欲張りなシアちゃんの願いを叶えるための裁判に行ってきます!」

「ええ、いってらっしゃい」

彼女は勢いよく一歩を踏み出します。ヒールがカツン、と涼しい音を立てました。
それはきっと、世界が全く新しい場所に回り出す音に似ていたのでしょう。

2014.10.20
2016.11.17(修正)

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