「来ましたか。ヒトの心を持たぬ化け物、Nよ」
レシラムに乗って現れたNさんは、私を一瞥して僅かに微笑んだ。
その笑みは饒舌だった。私は頷いて、笑ってみせた。
『私の世界は私とNとを中心に回っているのよ。』
ねえ、先輩、そこにいるんでしょう。ずっと、私を見守ってくれていたんでしょう。今も、私を助けてくれたんでしょう。
あの雷は、そういうことだったんでしょう。
「レシラムが教えてくれた、キュレムが苦しんでいると。ボクはポケモンを傷付ける身勝手な人を許さない」
「!」
「それにボクはイッシュが好きです。ボクに人としての生き方を、ポケモンと人が共にいることで奏でるハーモニーがあると、気付かせてくれた場所……。
そこに住むポケモンや人を、ボクは守る!」
Nさんはゲーチスさんに向き直り、口を開いた。
いつも穏やかで笑みを絶やさない彼が、ここまで激情を露わにする姿を、私は初めて見た。
きっとNさんにとって、この土地に住むポケモンや人は、「かけがえのない存在」なのだろう。
だからこそ、彼等の苦しみに心を痛め、その苦しみを与えた相手のことを許せずにいるのだ。
ゲーチスさんはそんなNさんに、皮肉気な笑みを浮かべる。
「素晴らしい!胸を打つ決意の表れ!ワタクシが施した王としての教育、決して無駄ではなかったか。
とはいえ森の中、ポケモンと暮らしていたアナタを探し出し、面倒を見てやったというのに、最後、好き勝手にのたまい、ワタクシの計画を狂わせたこと、未だに忘れていませんよ。
アナタの能力を利用して、イッシュを支配する筈だったのに!」
そしてゲーチスさんは、小さな何かを取り出す。
それが、シャガさんの家から奪われた「遺伝子の楔」であることに、私はまだ気付いていなかったのだ。
彼はその小さな楔の力を利用して、レシラムに強襲を仕掛けた。
「止めるんだ、ゲーチス!」そう叫んだ彼には、どんな未来が見えているというのだろう。
「キュレムは、1匹のポケモンがレシラムとゼクロムに分離した余りだ。ゲーチスはそれを利用して、レシラムをキュレムの中に取り込もうとしている!」
……私は、彼の言っていることが理解できなかった。
しかし、その在り得ない言葉の意味を、私はその後、嫌でも理解することになる。
レシラムはキュレムの強襲に捕えられ、あっという間に小さな石の形にさせられてしまったのだ。
キュレムはゲーチスさんの命令通りにその石を取り込み、姿を変えた。
信じられない光景を目にした私とNさんはただ沈黙する。
「まさかポケモンが合体だなんて……」と、私より先に我に返ってそう呟いたNさんに、ゲーチスさんは「愚か者め!」と声を荒げた。
「前回はオマエをつかい、民どもの心をたぶらかし、掌握する筈だった。だが、今回は圧倒的なパワー!それでイッシュを支配する!
分かるか?オマエが王になっていれば、イッシュは美しいままだった!」
「それは違います!」
その言葉は誰が発したものだったのだろう。
大声を出した後の、喉がひりひりと痛む感覚が、紛れもなく私の言葉だと訴えてくる。
驚くNさんから私は1歩だけ前に出て、ゲーチスさんと向き合った。
「Nさんが王様のままなら、イッシュは美しかった?いいえ、違います。
精神論で私達を洗脳し、ポケモン達と引き離したその先に、美しさがある筈がないんです!」
「……」
「それに、今もこれからも、イッシュは美しいままです。だって私が貴方を止めるから」
彼はその赤い目に私を映した。
「不愉快ですね。アナタは人の神経を逆なでするのが得意なようだ」
その荒んだ声音に、しかし私は怯まない。
彼はそのステッキで合体したキュレムを刺し、不敵な笑みを浮かべてみせた。
「さあ、キュレムに挑みなさい!アナタが本当にキュレムを、ワタクシを止められるのか見せてもらいましょう。
ワタクシはアナタの絶望する瞬間の顔が見たいのだ!」
私は、レシラムを取り込みその大きさを増したキュレムと対峙した。
手が震えていることに、私は気付かない振りをした。ロトムに技を指示する、その声だってきっと揺れている。
けれど私は、それを認めなかった。私はただ、必死だった。
「ロトム、かみなり!」
キュレムに決定打を与えられずに苦戦していた私は、ロトムに最大威力の技を命じる。
ロトムがその技を繰り出した瞬間に、明後日の方向で何かが光った。
その光はロトムが繰り出したかみなりを何倍にも増幅させ、キュレムに勢いよく降り注いだ。凄まじい雷鳴のような音が空気を切り裂いた。
キュレムはゆっくりと、霜の降りた冷たい地面に降りる。小さな白い石が、キュレムから転がり落ちた。
ロトムは、今の強大な技を、自分が繰り出したと信じられずにいるようだった。
真相を知っている私は、しかしそれを口には出さずに彼に労いの言葉をかける。
頑張ったね、とその冷たい身体を撫でながら、ありがとう、と2匹のポケモンにお礼を紡ぐ。
白い石は、ゆっくりとレシラムの姿に戻っていく。
キュレムはその身体を起こし、鋭く一声をあげて姿を消してしまった。
「まさか、折角用意したホワイトキュレムが!なんと忌々しい!消えたキュレムをまた確保せねばならんではないか!」
静かになったこの空間に、ゲーチスさんの罵声が響く。
その言葉は私に向けられたものではないにもかかわらず、凄まじい鋭さをもってして私の鼓膜を抉った。
彼は血走った眼で私に向き直り、ボールを取り出す。
「やはり目障りなトレーナーは、ワタクシが手を下しましょう」
「!」
「今度こそ、誰が何をしようと!ワタクシを止めることはできない!」
その響きに私は狂気を見た。
キュレムを前にした時、あの氷に逃げ場を奪われた時とは比べ物にならない程の戦慄だった。
しかしそれは先程のような、純粋な恐怖ではなかった。私を支配したその感情はもっと複雑なものだった。
この人を許すことができない筈だった。
Nさんを侮辱し、彼を慕ったレシラムを無理矢理に奪い、そのキュレムのパワーでイッシュを支配しようとしたこの人を、私は許せないと思っていた筈だった。
では、何故私は動けないのだろう。私はこの人に何を見出そうとしているのだろう。
けれどここで私が迷うことは、私のポケモン達を傷付けることになってしまう。そのことも私は理解していた。
だから私はその複雑な思いのままに、彼と対峙することを選んだ。
本当の苦戦はこれからなのだと、私は身をもって知ることになるのだけれど。
今まで、6体のポケモンを連れているトレーナーと戦ったことはなかった。
ジムリーダーやヒュウ、アクロマさんですら、手持ちの限界までポケモンを引き連れてはいなかった。
しかし一瞬だけ見えた彼のマントの裏には、6つのモンスターボールが付けられていたのだ。
ロトムにダイケンキ、クロバットの3匹しか連れていない私は、その個々の強さに差を付けられてはいないものの、その数の差に追い詰められていく。
ロトムと相手のシビルドンが相打ちで倒れた時、私とゲーチスさんのポケモンは残り1匹ずつとなっていた。
私の手元には、ドラピオンとの戦いで体力を消耗したクロバットしか残っていない。
初めてだった。初めて「負けてしまうかもしれない」という思いが脳裏を掠めた。
しかし投げたハイパーボールから出てきたクロバットは、先程のバトルの疲れなどなかったかのように、素早く宙を旋回してみせる。
私はクロバットと目を合わせた。
『貴方に、証明してほしいと思ったからです。
ポケモンの力を引き出すのは、誰かを思う心と、そのために力を発揮したいと望む意志なのだと、その貴方自身の言葉を、真実にできるかどうか、見届けたくなったのです。』
彼の声が、聞こえた気がした。
そうだ、まだ私の証明は終わっていない。私は新たに握り締めた覚悟をもってして、ゲーチスさんに向き直る。
そして彼が投げたボールから出てきたそのポケモンに、私は言葉を失った。
2014.11.20
ディスコード 不協和音