26 mormorando

それはサザンドラだった。
私にアクロマさんの手紙を届けてくれて、ミックスオレを美味しそうに飲み、サイコソーダの炭酸に驚き、ソウリュウシティで私を助けてくれた、あのサザンドラだった。
『知り合いに借りました。』というアクロマさんの言葉を私は思いだした。……彼の、ポケモンだったのだ。

この酷く恐ろしくて、とても悲しい彼の、ポケモンだったのだ。

悲しい?
私は自分の心に並べた言葉が信じられずに立ち尽くした。
何故、私はこの人に悲しさを見出したのだろう。この許せない人に、どうしてそんなことを感じてしまったのだろう。

クロバットは指示を出そうとしない私に狼狽える様子を見せた。
ゲーチスさんも同様に、自分の指示を聞かないサザンドラに苛立ちを見せ始める。

「どうしたというのです!」

その問いに答えたのはサザンドラではなかった。

「ゲーチス、アナタの負けだ。そのサザンドラは、戦えない」

「な、何を馬鹿なことを、」

「戦えないんだ!……シアを、知っているから。
冷たい仕打ちを続けてきたアナタよりも、優しく接してくれたカノジョを慕っているから」

Nさんはきっと、サザンドラの声を聞いてしまったのだろう。
サザンドラが私のクロバットに攻撃できない理由を、彼はその声の中から拾い上げてしまったのだろう。
ゲーチスさんは唖然とした表情で立ち尽くし、しかし今度はサザンドラに向かって声を荒げた。

「オマエもだというのか!オマエも!こんな子供に絆されたのか!」

絆された。
その難しい、私の知らない言葉を噛みしめるように、サザンドラはその3つの頭をうなだれてしまった。
私はクロバットに近寄り、ボールを掲げてみせる。その中に戻ることを躊躇う彼に、私はそっと笑ってみせた。

「大丈夫だよ。もう、戦わなくていいんだよ」

私はクロバットをボールに戻し、ゲーチスさんに歩み寄った。

「いい加減にしなさい!ワタクシの言うことが聞けないのか!道具なら道具らしく、所持者の言うことに従っていればいいのです!」

「父さん!」

その声に私は目を見開いて沈黙した。
Nさんはゲーチスさんを真っ直ぐに見据えている。
血の繋がりがない彼を、先程までゲーチス、と呼んでいた彼を、敢えてそう呼ぶ彼の真意を、私は少しだけ理解していた。
きっとこれは、Nさんの精一杯の訴えなのだ。どうか届いてほしいと懇願しているのだ。

「解ってください。ポケモンは道具ではないのです。ポケモンと人はお互いを高みへと誘っていける、素晴らしいパートナーなのです!
それを解っている人達もいるのです。だのに!」

「黙れ!」

しかし彼はその懇願を、拒絶の怒声で切り捨てる。

「ポケモンと話せる化け物が!人間の言葉を語るな!」

ステッキをNさんに向けようとしたのだろうか。それを高く掲げた彼は、しかしバランスを崩して地面に膝をついた。
それを遠くで見ていればよかったのだ。彼等のやり取りを、ただ聞いていればよかったのだ。
それなのに、私は、彼に、駆け寄ってしまった。
大丈夫ですかと、尋ね、手を伸べてしまった。

「寄るな!」

彼がそうやって、私の手を激しく振り払うことなど、解っていたのに。

こちらを見ずに振り払われた手は私の頬に当たった。彼の長い爪が、キュレムの氷によって切られた頬の傷口を僅かに引っ掻く。
その痛みに私は悲鳴を上げ、思わず後ろへと倒れ込む。
大きく揺れた鞄から何かが飛び出し、霜の降りた地面に落ちて、割れた。

海の、砕ける音がした。

「あ……!」

それはオイル時計だった。私の目に海を見た彼が、その青に私を重ねていた、あのプレハブ小屋での時間を象徴する、小さな海の時計だった。
きっと今の私は、ゲーチスさんが望んだ「絶望する瞬間の顔」をしているのだろう。
けれど、私がその瞳に絶望を映したその時にはもう、彼には私の絶望を望み、その表情に歓喜するだけの余裕など、最早、存在しなかったのだ。

ダークトリニティの1人が何処からともなく現れ、彼の身体を支え、そのまま姿を消してしまった。

「……」

長い、長い沈黙が過ぎた。
Nさんは私に歩み寄り、ポケットからハンカチを取り出して屈み、私の頬をそっと拭った。
乾いていた筈の血がハンカチにべっとりと付く。それはきっと、溢れる涙が溶かしてしまったのだろう。

「ごめん。キミの大切なものだったのだろう?」

粉々になった海の時計に視線を落として、彼は謝罪の言葉を紡ぐ。
違う、違うのだ。オイル時計が割れてしまったことに泣いているのではない。
……では、どうして私は泣いているのだろう。

「!」

「ほら、泣き虫な後輩が泣くための場所が、ここにあるわよ」

私の背中を乱暴に叩いて現れたトウコ先輩は、その両手を広げて笑ってみせた。
私は手加減することを忘れて彼女に勢いよく縋り付いた。
あまりの勢いに、彼女は霜の降りた地面にしりもちをつき、苦笑して私の頭を撫でる。

「お疲れ様。頑張ったわね」

私はいつかのように、声をあげて泣いた。

簡単なことだ、私はキュレムが、ゲーチスさんが、酷く恐ろしかった。
築いた覚悟が何度も折れそうになりながら、それでもそんな恐怖に嘘を吐き続けて虚勢を張っていた。私の心は、折れる寸前だったのだ。
そして、認めると更に恐怖はせり上がってくる、怖かった、死ぬかと思った。そんな言葉を嗚咽の合間に繰り返す。

きっとこの涙には、安堵も含まれているのだろう。
もう、私の命を脅かすものは何もない。恐れを抱かせるあのキュレムも、私の頬を掠め切りしたあの鋭い氷も、狂気に満ちたあの恐ろしい人も、もう此処には居ない。
私はきっと、安心していたのだ。これで私を脅かすものは何もない。
私はようやく、心に嘘を吐くことを止められるのだと。

それと同時に、胸の奥で疼き続ける、底知れぬ不安があった。
私の選択は正しかったのだろうか?
『ですから貴方は、貴方の正義をもってしてわたしと戦いなさい。
そしてわたしに、こんな酷く屈折した正義は間違っていると、どうか知らしめてください。』
私は彼に証明できたのだろうか。それは本当に正しかったのだろうか?
シアさん、わたしは彼等の居場所を守るために戦います。それがわたしにとっての正義です。』
それは彼の居場所を奪ってしまうことに繋がらないだろうか?彼等が昔の自分を重ねたというプラズマ団員達は、これからどうなるのだろうか?

それら全てを抱えるには、私はあまりにも幼く、愚かだった。

脅威は去った。私達を脅かすものは何もない。
なのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。

その問いに誰も答えをくれない。私は涙に溺れ続けていた。

2014.11.20

モルモランド 囁くように