6 supplichevole

唖然として立ち尽くす私に彼は歩み寄り、足元のボールを拾い上げて私の掌に載せてくれた。

「さあ、どうぞ。貴方のポケモンですよ」

私はそのハイパーボールをぎゅっと握り締める。
どうして此処に、と紡ごうとした口を人差し指でそっと塞ぎ、彼は笑ってみせた。

「取り敢えず、外に出ませんか?ポケモン達もかなり疲れているようですから」

彼のその提案に、私はこくりと頷く。
では、どうぞ。そう言って差しのべられた手を、私は震える自分の手でしっかりと握った。


ポケモンセンターでロトムやフタチマル、ズバットを回復させてから、私とアクロマさんはヒウンシティの噴水がある広場にやって来ていた。
彼の両手には、先程買ってくれたヒウンアイスが2つ、握られている。ベンチに座り、1本を差し出してくれた彼の隣にそっと腰を掛ける。
足を投げ出し、アイスをぺろりと口に運ぶ。……程よいベリーの酸味と、バニラの甘さの対比効果が癖になりそうだ。

「2週間……はまだ経っていませんが、お久し振りです。元気そうで安心しましたよ」

彼はソーダ味のアイスを食べながら口を開いた。彼と紅茶以外のものを口にするのはとても新鮮だった。
じっとそのアイスを見ていた私の、その視線に気付いたのか、彼は食べていたアイスを「一口食べてみますか?」と差し出してくれた。
私は満面の笑顔でそれを受け取り、自分のヒウンアイスも彼に差し出す。
彼のアイスには、パチパチと口の中で弾けるようなキャンディーが混ぜられているらしく、それが舌の上で踊る感覚がとても楽しかった。

「手紙、ありがとうございます。楽しく拝見させて頂いていますよ。
しかし貴方は筆まめですね。あれだけの量を書くのは疲れませんか?」

「いえ、とても楽しいです。あ、でも、アクロマさんに迷惑にならないくらいの量にしておきますね」

「いえ、それはお気になさらなくてもいいのですよ。寧ろ、楽しみに待っていたくらいですから」

本当に?
私は縋るように、隣に座っている彼を見上げた。彼は私の目に刻まれたそんな疑問を汲み取ったのか、そっと微笑んで私の頭を撫でてくれた。

『では、きっとわたし達は似ているのですね。
ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているように、わたしも貴方を思っているのだと。』
あの言葉を私は思い出した。
私が彼からの手紙を嬉しく思ったように、彼も、私の手紙を嬉しいと思ってくれているのだろうか?
私はそんなことを尋ねないし、彼も答えない。しかし私の頭を撫でるその手が、答えを示してくれているような気がした。

「アクロマさんは今、知り合いの研究をしているんですか?」

そう尋ねると、一瞬、……それは本当に見逃してしまうような小さな時間だったのだけれど、彼の顔が僅かに強張ったのだ。
普段の私なら、その変化に気付かなかっただろう。そのまま、見逃してしまっていただろう。
しかし私は久し振りに彼にあったことで、浮かれていた。約2週間ぶりになる彼との時間を、一秒一秒、丁寧に噛み締めていたのだ。
だからこそ、彼のそのちょっとした変化に気付いてしまった。

「ええ、そうですよ。ただ、少し厄介事を押し付けられましてね。……今はその組織をまとめるのに忙しい状況なのです」

「まとめる……?アクロマさんが、ですか?」

「ええ、わたしの知り合いはそうした、厄介なことを押し付けるのが得意な人間ですから」

肩を竦めて彼は笑った。
彼が見せた、一瞬の笑顔の曇りは、そうした「厄介事」を一身に引き受けさせられてしまったことへの気苦労を表しているのだと私は解釈する。
本当は、それだけではなかったのだけれど。それだけではなかったと、私は随分と後になって知るのだけれど。

「以前のわたしなら迷わず断って、組織を抜けたでしょうね。
いくら自由に研究ができるからといっても、人間をまとめる側の立場など、できる限り避けたいと思っていましたから」

『しかし、私は基本的に、人間を信用していません。』
『貴方が嫌いなのではありません。わたしは人間が嫌いなのです。』
淡々とそう紡いだ彼を、記憶の海から引き上げる。
気紛れで狡猾で利己的な、そうした人間に嫌気が差して、そうした人間の中で生きていくのが嫌になって、彼は大学の研究所を出て行ったと聞いていた。
だから、そうした人間と関わらざるを得ない役割を知り合いに押し付けられれば、拒む筈だ。そして、その訴えが受け入れられなければ、その組織を抜ける筈だ。
私はそう思っていたし、事実、彼の口ぶりからも、そうするつもりだったようだ。

しかし彼は今、そうした人間をまとめている立場にあるらしい。
その心境の変化は何処から来たのだろう?
そんな疑問は、しかし彼が笑って私を指差したことにより氷解する。

「貴方を、信じられましたから」

「!」

「貴方は、わたしのおかげで世界が変わったと話してくれましたが、それは貴方だけのものだと勘違いをしていませんか?」

私は目を見開いて沈黙した。
『ですからわたしも、久し振りに貴方以外のものを信じてみようと思います。』
あれはそういうことだったのだ。長く、人間に対して閉じられていた彼の世界が、少しずつ開き始めているのだ。
そしてそれは、私が彼を思うそれと同じものなのだとしたら、それは、私が変えたものなのだ。

私はこの人の世界を変えられた。

「……」

私が旅に出た理由の一つは、彼と同じ世界を見たかったからだった。
同じ地面に靴底を付け、同じ目線で世界を見たかったのだ。私と彼との間には大きな壁が立ちはだかっていると信じていたからだ。
私よりも多くの物事を見聞きし、体験した彼に、私よりもずっと多く、悩み、苦しんできた彼に及ぶには、私も、それだけの経験を積まなければならない筈だった。

しかし彼は、まだ彼の目線に立てていない筈の、私の頭を優しく撫でてくれる。
貴方は既にわたしと同じところに居るのだと、言葉にはしないが、そう笑ってくれる。

「けれど、貴方が広げた私の世界は、とても複雑でした」

「え……」
シアさん、貴方は旅を続けて、あらゆることを知るでしょう。そして全てを知った時、きっと私を軽蔑します。
それが今は、少しだけ恐ろしい」

彼は信じられない言葉を紡いだ。
軽蔑?誰か?私が、アクロマさんを?

「どうしてですか?……私が、軽蔑してしまうようなことがあるんですか?」

彼は沈黙を貫き、とても悲しそうに笑った。
どうしてそんな顔をするのだろう。どうして何も言ってくれないのだろう。
私が彼を軽蔑する、だなんて、どうしてそんなことを思ったのだろう。

一番に浮かんだのは、アールナインで私の目が塞がれた、あの記憶だった。
「アクロマ様」と、敬称で彼を呼ぶあの声は、一体、誰のものだったのだろう。
私に対して何処までも誠実だった彼が、私の目を塞いでまで見てほしくなかったものとは、一体、何だったのだろう。
私の知らない「彼」は、どんな姿をしているというのだろう?

「もし、私が何かを知ったとして、アクロマさんが隠していた何かに辿り着いたとして、それは私に、貴方を軽蔑させしめる程の力を持っているんですか?」

『貴方が求める真実は、果たして貴方から大切なものを奪う程の力を持っているのでしょうか?』
あの時、私の背中を押してくれた、彼の優しい言葉を借りて、紡いだ。
何もかも解らなかった。どうして彼がそんなことを言ったのかも、彼が私に何を隠しているのかも、私の知らない彼がどういった姿をしているのかも、全て、全て解らなかった。

「私はそうは思いません」

だからこそ、私はその無知を振りかざして懇願する。
お願いだから、そんな悲しいことを言わないでください。私との間に壁を作らないでください。

「だから、不安にならないでください」

彼は暫くの沈黙の後で「ありがとう」と、本当に小さく紡いだ。
ヒウンアイスは夏の日差しに焼かれ、その大半が溶けてしまっていた。


2014.11.18

スップリケーヴォレ 哀願するように

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