飽きることなく、沢山、沢山話をした。
それは、読んだ本の内容についての議論だったり、目に留まった実験器具の使い方だったり、日常のちょっとした疑問だったりした。
彼の言葉は相変わらず難解だった。普通の話をしていても、私に理解出来ない単語が混ざるのは日常茶飯事だった。
だからこそ、生易しい言葉に辟易していた私にとって、それは酷く心地良い音の羅列だった。
言葉への理解は、必ずしも必要ではなかったのかもしれない。
彼は私の目線に降りて話をすることをしない人間だった。
だから言葉が難解なのは当然で、そしてそれを全て理解できずとも、さしたる問題ではなかったのだ。
背伸びをしなくてもいい、卑屈にならなくてもいい。私が私で在れる場所。
彼の世界はただ優しかった。
その時間はいつもあっと言う間に流れ、そして彼は時折、あの言葉を空間に混ぜる。
「貴方のように、生きてみたくなりました」
甘い紅茶に角砂糖を一つ落とし、ティースプーンでそれを掻き混ぜる私を一瞥して、彼は小さくそう零すのだ。
そして私は、決まって言い返す。
「それじゃあ、一緒に生きましょう。きっと、大丈夫ですよ」
彼が何を望み、何に迷い、何に焦がれているのかは最後まで解らなかった。
それでも、こんな幼くて愚かな「私のように生きる」ことが、彼に新たな世界をもたらすと信じたかった。
そして私は、彼が私に何を隠したかったのかをまだ突き止められずにいた。
しかし、解らないものを解らないままにしておくことが、今の私にはできるようになっていたのだ。
嘘や隠し事をされることが、必ずしも嫌悪すべき対象となる訳ではないと教えてくれたのは彼だった。
それでも私は理想を追い、真実を見ようと足掻く権利があるのだと、そう認めてくれたのも彼だった。
「少しだけ、その子を渡した事を後悔しています」
「……どうしてですか?」
「きっとその命は、わたし以上に数多くのものを貴方に教えるでしょうから」
私は手元のタマゴに視線を落とした。この小さな命が、彼以上に多くのことを私に教えてくれると彼は言う。
ひんやりと冷たいそのタマゴを抱きしめて、私はもう直ぐ生まれてくる筈のポケモンのことを思った。
この命はどんな世界を見るのだろう。その旅路の傍に、私を置いてくれるのだろうか。
この子も私のように、世界の矛盾を感じ、自分の在るべき姿に迷い、前に進むことを躊躇い、それでも、生き続けることを選ぶのだろうか。
けれど、と私は思った。
この子と一緒に見る世界が、どんなに広いものだったとしても、この子にどれだけ大切なことを教えてもらったとしても、
甘い紅茶に対する私達の錯覚をとても楽しそうに説いてくれた、あの瞬間の感動を越えるものはきっと見つからないだろうと思った。
世界が広がる音を、私は確かに聞いていたのだ。
「シアさん、お願いがあるのですが」
紅茶を置いた彼は、唐突にそう切り出した。
「わたしも、夏には此処を出ます。片づけを手伝ってくれませんか?」
「え……」
「知り合いの手伝いが、忙しくなってきたんです。あちらの施設に籠って、研究を続けなければならなくなりました。
……しかし、タイミングとしては丁度よかったのかもしれませんね。いつまでも此処に残ることは、きっと旅に出る貴方のためになりませんから」
最後だ、と言われている気がした。
私は震える声で「はい」と返事をした。込み上げてくるものを必死に押し殺していた。
大量のもので溢れ返っている筈のその空間を片付けるのに、思っていたよりも時間は掛からなかった。
彼は棚の代わりに、段ボールに実験機材を詰め込んでいたし、日用品の類は極端に少なかったからだ。
私のすることと言えば、その段ボールにガムテープで封をすることと、沢山の本を荷造り用の紐で纏めることくらいだった。
大きな家具や、カーテンなどは、そのまま此処に残しておくらしい。いつか戻って来られるかもしれないから、と彼は少しだけ楽しそうに紡いだ。
丸2日かけて、そのプレハブ小屋の中身を殆ど空にし終えた頃には、もう春が終わろうとしていた。
私の旅立ちの時が、明日に迫っていた。
そんな最後の春の日に、私はオイル時計をひっくり返し、苺の香りのする紅茶を入れている。
青い液体が、ゆっくりと下に沈んでいく。
一瞬でも気を抜けば、わっと泣き出してしまいそうだった。だから私は、平然を装うことに決めた。
装い続ければ平然となれると信じていたし、そうならなければいけないと思っていた。
旅に出れば、私の目を塞ぎ、真実を隠す人はいないけれど、私の涙を拭ってくれる人も同じように居ないのだから。
強く在りたいと思った筈だった。理不尽な、大嫌いな世界で、強く生きることを望んだ筈だった。
広がる世界に焦がれて、私は毎日のように此処を訪ねた筈だった。
しかし、私は弱くなってしまったのかもしれない、と思う。少なくとも、彼に会う前の私なら、旅に出ることにこんなにも不安になり、誰かの別離を悲しく思うこともなかっただろう。
けれど、彼に出会わなければ、そもそも旅に出ようとすら思わなかったに違いない。
世界を広げられる手段に手を伸ばせられない程に、私の主体性は損なわれていたのだから。
失われていた主体性も、希望も、自尊心も、全て、彼と出会ってから得たものだったのだから。
「貴方が退屈しないように、という名目でそれを買いましたが、わたしも研究の合間に、よくそれをひっくり返していました」
彼がぽつりと零したそんな言葉に私は驚く。
「海がゆっくりと降りてきているようで、見ていて落ち着くのですよ」
彼が難しい言葉を使わずに、難しい言葉を話すのは、これが初めてだったような気がする。
私は眉をひそめ、首を大きく捻って降参の意を示したが、彼は肩を竦めて笑うだけで答えてはくれなかった。
私はテーブルに突っ伏し、その青が降りていくのをじっと見ていた。確かに吸い込まれそうな、海のような青をしていた。
彼がその青に何を重ねているのかを、私は最後まで知ることはなかったのだけれど。
3分を告げたオイル時計に従い、私は紅茶をカップに注いだ。最後の一滴まで、均等に入れる。
彼はそのまま、ストレートで。私は角砂糖を一つだけ落として。
「少しだけ、怖いです」
ティースプーンで紅茶を掻き混ぜ、中の砂糖を溶かしながら、私はそんなことを呟く。
どうしてですか?と尋ねてくれた彼に、私は胸の奥で渦巻いていた不安を吐き出す。
「この間、プラズマ団の思想の話をしてくれましたよね。
私は「間違っている」と言ったけれど、もし、私が旅に出て見つけた真実が、私が期待するものと違ったら、……アクロマさんが預けてくれた子とも別れないといけないから」
彼はその金色の目を見開いた。
私は少し、おかしいと思った。この小さな命に出会う前から、別れることを考えてしまうなんてどうかしている。
しかしそれ程に私は不安だった。旅に出ることが、ではない。私の世界を広げてくれた、この人と離れることが、どうしようもなく不安で、怖かったのだ。
此処は私の大好きな場所だった。
少なくとも、あれほど焦がれた旅に出ることを躊躇わせる程には。
彼との時間を失い、この命を失うかもしれない真実を求める。そんな旅に何の意味があるのだろう?
何も知らないままなら、善悪を判断出来ないままなら、幸せなままで居られるのに。大切なものを一度に抱き締められるのに。
……けれど、そんな生き方はあまりにも「くやしい」と、私は知っていた。悔しいままでいたくないから、私は旅に出ることを選んだのだ。
「シアさんらしくありませんね」
弾かれたように顔を上げた。
いつもの、困ったように笑う姿が飛び込んで来るのだと思っていたのに、その金色の目は、ただ真っ直ぐに私を見詰めている。
「貴方が求める真実は、果たして貴方から大切なものを奪う程の力を持っているのでしょうか?」
そして彼は「その言葉」を紡ぐ。
彼がその一言に、どれだけの重みを乗せていたのか、どんな意味を言外に含めていたのかは解らない。
けれど、その言葉は私の心に深く、深く突き刺さり、それからの私を形成する基盤となった。
「貴方の望む真実が見つからないのなら、貴方がそれを真実にしなさい」
わたしは、貴方のそれに救われたのだから。
そう付け足して、彼は優しく笑う。
この言葉を、私がずっと大事に覚えていると知ったら、彼はどんな顔をするだろう。笑って、くれるだろうか。
2014.11.16
フリューテ 優しく澄んだ