18 tumultuoso

シアさん」

降ってきた声に、目を開けるつもりだった。
しかしそれよりも先に、伸びて来た彼の手が極自然にそれを拭う。恐る恐る目を開けると、彼の白い手袋が私の涙を吸い、小さな染みを作っていた。

「……ありがとうございます。約束を守ってくれて」

彼は安心したようにそう紡ぐ。私は間髪入れずに聞き返した。縋るように、懇願するように。

「私は、どうして目を塞がれたんですか?私が見てはいけないものだったんですか?答えてください、アクロマさん……」

「……」

「アクロマさんも、私の目を塞ぐんですか?」

貴方も、他の大人と同じなのですか。
私の嫌う大人や世界のように、汚いものや理不尽なものを隠して笑うのですか。
ずっと、そうやって私を騙してきたのですか。

「私では駄目だったからですか?」

私では駄目だった。見限られた。そんな言葉がぐるぐると回る。
彼が何を隠したのか、何を私に見られたくなかったのかは解らない。私には想像もできないような、のっぴきならない事情があったのかもしれない。
それでも彼のその行為と、私の質問に答えようとしてくれないその姿勢は、私に「裏切られた」という利己的な感情を植え付けるに十分な威力を持っていたのだ。
理解できないものは理不尽である。だからこそ彼は、私が疑問に思った事や質問の全てに答えてくれていたのだ。
その度に紐解かれ、広がる世界が私は好きだったし、それを教えてくれる彼のことも好きだった。
だからこそ、彼が私の問い掛けに拒否を示した、その事実が深く私の心を抉る。

彼は長い沈黙の後で、控え目に、しかしはっきりとその言葉を紡いだ。

「いいえ、違いますよ」

「……、」

「貴方だから駄目だった」

その声はどこまでも優しい。まだ自分の涙に揺れる視界をそっと彼に運び、私は息を飲んだ。

「どうしてアクロマさんがそんな顔をするんですか」

金の美しい、何よりも美しいと信じていた目が揺れている。困ったように、泣きそうに唇が弧を描く。
その表情に当惑させられた私の涙は、もう何処かへ引っ込んでしまっていた。

「こんなことは言いたくはないのですが、わたくしは、」

聞かなければ、……聞かなければ。
知りたいと願ったではないか。世界を、大人を、彼を。何を恐れることがあるのだろう?
その不安を突き上げたのは、ほんの少しの違和感だった。彼が自分のことを「わたくし」と呼んだのは、これが初めてだったのだ。
きっと、「わたくし」と自分のことを指す彼こそが、私の知らない彼で、彼がずっと私に隠してきたもう一つの姿だったのだろう。
彼はそれに気付いたのか、即座にその一人称を言い直した。

「……わたしは、貴方が思うような出来た人間ではない」

「!」

「世界は、大人は、わたしは、貴方が思う以上に汚く醜い」

彼の唇がゆっくりと、そんな「裏切り」を呟く。私は愕然としながら、彼の言葉を脳内で反芻する。
くやしい。くやしい。
何よりくやしいのは、それを受け止め切れない私自身だ。

世界が汚いことを、私は朧気に知っていた。
まだ本当に小さな子供のポケモンを奪う大人が居た。それを正義とするおかしな世界があった。
それでも大人は、世界は、私に優しく目線を合わせて微笑むのだ。「世界は夢と希望に満ちている」と。
嘘だ、嘘だと思いながら、私はその優しい言葉を信じていたかったのかもしれない。
しかしそれとは裏腹に、誰か良識のある大人がそんな嘘を暴いてくれることを期待していた。本当の世界を教えてくれると信じていた。

そして私は、それを彼に求めた筈だった。

「わたしも、そんな汚い大人の一人です」

なのに、そんな「真実」を聞くまいと耳を塞ぎたくなる私が居る。

「わたしは、そんな世界で生きている自分が好きではありません。だから、貴方には綺麗なままの世界を見て欲しいと望んでしまう。
「嘘」でも、貴方がそれを受け入れることでそれは「真実」になると期待してしまう」

そして思い知る。彼と私との世界の隔絶を。
嘘が真実に成り得る世界、彼が望んだ世界。……私はそれを、受け入れることができるだろうか?

「子供の世界は希望に満ちている、というのは、ある意味真実です」

「……そんなこと、」

「貴方は嘘だと言うでしょう。けれどそうした世界を、大人達は貴方に差し出したかったのでしょう。その為には、理不尽なもの、汚れたものを隠す必要があったのです。
大人達は、理由もなく貴方の目を塞いでいる訳ではない」

だから、そんなに大人を嫌悪しないで下さい。そう付け足した彼に私は愕然とする。
違う、違うのだ。私は理不尽な世界を隠す大人に憤っているのではない。確かにそれも私の中にある感情だったが、そうではないのだ。
私がショックを受けているのは、他でもない彼の事だった。彼に、拒まれてしまった。そのことに愕然とし、悲しみ、戸惑っている。混沌とした感情が憤りに形を変える。
だからこそ悔しいのだと、私は自分の心をそう読んでいたのだ。

「わたしも含めて、皆、貴方に美しい世界を贈りたいと思っています。しかし、貴方にはそれを拒絶し、知りたいことは知りたいと言える権利があります。
無理矢理に貴方の目を塞ぎ、質問を拒絶する行為は、そんな貴方の自由と権利を奪うものでした」

すみません、と絞り出すようにそう紡いだ彼に、私は首を振る。違う、違うんですと呟きながら、零れそうになる涙を何とか押し留めている。
私が、私が悔しいのは、私が何よりも悲しいのは。

「私とアクロマさんは、似ているんじゃなかったんですか?私達は、同じところに居たんじゃなかったんですか?」

「……」

「どうして、私にだけ、綺麗な世界を押し付けるんですか?」

美しいものを美しいと言える私に、彼は「くやしい」と言った。彼の目にはあの夕日がどう見えていたのだろう。
彼の世界には「美しい」ものは存在しないのだろうか。
同じ場所に居る筈なのに、似ている筈なのに、彼が私にそう言ってくれたのに、それでも私の見る世界と彼の見る世界は違うのだろうか。

「それは、」

やっとのことで言語化したそれは、彼への憤りでも、私への不甲斐なさでもなかった。

「それはアクロマさんでは手に入らない世界ですか?」

「!」

「アクロマさんも、綺麗な世界で生きたいって思っているんでしょう?」

『貴方のように、生きたくなりました。』
あれは、そういう意味だったのでしょう。

「じゃあ、一緒に生きませんか」

シアさん、」

「私にだけ、押し付けないで……」

一緒がいい。一緒に生きたい。
それは私の、とても拙く愚かで子供っぽい、欲張りな我が儘だった。
そして彼は、答えてはくれなかった。


2014.11.16

トゥルムトゥオーソ 騒然とした

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