14 sorada

外はもう夕方だった。歩く私と彼の影が長く降りている。

彼はゆっくりと歩を進める。大人の歩幅にしてはやけに狭いそれは、小さな私に合わされたものであることに気付き、ふわりと奥が温かくなった。
彼の気遣いは、子供である私にされるものではなく、私という一人の人間にされるものであると、私はもう信じることができていたからだ。
高台に続く階段を上る時も、彼は私のスピードに合わせてくれる。今度は私が彼に合わせたくなって、少しだけ足に力を込めた。

アクロマさんの前に立つと、自然と私は「私」の存在を知覚することになった。子供である私ではなく、一人の人間としての私を自覚することになったのだ。
そして、「私」を自覚すると、自分の中に数え切れない程の心の形があることに気付く。

込み上げてくる数多の感情。心中で渦を巻く様々な思い。
それらを混沌とさせたままではなく、きちんと秩序立てて、この人に理解して貰えるように話す。それがどうしても叶わないのだ。
幼子のように、浮かんだもの全てを吐き出すような真似はしたくない。しかし、彼のように難解で複雑で、素敵な言葉を操る術を、私はまだ持ってはいない。

くやしい。

何も出来ないまま、それだけが確かな感情の渦を巻く。
彼の傍は、とても優しい。けれど同時に、とても悔しい。

「!」

瞬間、私の手が強く引かれた。反対側の手でぽん、と背中を押される。
よろけて目の前の手すりに縋り、顔を上げれば、

「わあ、綺麗……!」

そこには絶景が広がっていた。私は身を乗り出してそれを目に焼き付けた。
飲まれる。そう思った。そして、それは酷く素敵なことだとも思った。
イッシュの自然を遥かまで見渡せる絶景が、全て夕日の紅に染まっている。その圧倒的な光景に、私はただ綺麗、凄い、としか言葉が出なかった。
散々、繰り返したそれに意味はない筈なのに、ただそんな感嘆詞に似たものばかりを、飽きもせずに吐き出していた。

「夕方の高台からこんなに綺麗な景色が見られるなんて、初めて知りました!」

「おや、知らなかったのですか?ヒオウギに住んでいる貴方が?」

そう尋ねた彼は、しかし自分の言葉に虚を衝かれたように黙り込んでしまった。
どうしたんですか?と尋ねれば、彼は小さく溜め息を吐いて笑った。

「……いえ、そういうものなのか、と思っただけです。身近にあるもの程、私達は見落としてしまうのかもしれませんね」

何処か腑に落ちたような、晴れ晴れとした笑顔を浮かべる彼に、私は少しだけ救われた気持ちになった。
彼は私の隣に立ち、同じように手すりに腕をのせた。白衣までもが紅く染まっている。

「綺麗だと思いますか?」

「え?……はい、とても」

「何故、そう思ったのですか?」

吹き荒れていた感動の嵐がぴたり、と止む。
それは酷く恐ろしいことで、しかし私はこの新鮮な感覚が好きだった。
暴走する思考や感動に待ったをかける。「何故、そう考えたのですか?」と、彼はいつも尋ねてくれる。私の根拠を問いただしてくれる。
それに答えることで、私は私の思いや感動を、改めて自分のものとすることができる。
この神聖な過程が好きだった。それは私が彼の傍を望む理由の一つでもあった。
……しかし、それとこの質問にうまく答えられるかはまた別問題だ。

「だって、綺麗でしょう?紅くて、深くて、飲まれそうです」

その答えに彼は小さく笑う。
白い手は宙に延び、何かを優しく掴むような動作をした。しかし、私にはその手の中に何もないように見える。

「わたしも、貴方のように足掻いていた時期がありました」

ふわり、ふわり。先程の動作を、彼は何回も繰り返す。何かを求め、足掻くかのように、手が宙で舞う。

「わたしは美しいものや恐ろしいものなど、理性を超越して我々に感動を突き付けるものが嫌いでした。理性を突き破り、我々に土足で踏み入るそれらを、嫌煙してもいました。
何が美しいのか。教えてくれたら理解する。そうすれば「美しい」という感動にも、納得できる。わたしはそんな捻くれた人間でした」

何故、美しいのか?何故、綺麗だと思うのか?解らない、ことに思考が混乱する。「私」が、見失われる。
美しいと思ったり、怖いと感じたりするのは、理性とは別の枠組みに存在するものだった。それを拒んでしまう彼の感情を、私は少しだけ理解できるような気がしたのだ。
しかし、私はこの景色を綺麗だと思う。

「貴方を見た時、貪欲に「知りたい」を求める姿はわたしに酷く似ていると思いました。
大人を信じられない。世界の厳しさを隠し、狡く振舞う人間が嫌いだ。そう言った貴方に、わたしは自分を重ねていました。
しかし、どうやらそれは間違いだったようだ」

「……」

「貴方は、美しいことをそのまま受け入れて、微笑むことができる人なのですね」

優しく、優しく、彼は笑う。

「くやしい」

喉を押し潰すような声音に、震えた。
吐き出された烈しいそれに、胸の奥が抉られる。
彼に、私はどうやって触れたらいいのだろう。それは酷く難しいことで、しかし、呆気ない程簡単なことなのかもしれなかった。

「その悔しさと、この景色を綺麗だと思う気持ちは、別のものですか?」

そう尋ねた私に、彼はその金色の目を見開いて沈黙する。

「私はそうは思いません。
アクロマさんは、悔しいと思うことができます。私のことを信じてくれるし、紅茶を飲んで美味しいと言ってくれます。
何も、変わりません。私と、何も違うところなんてないんです……!」

「……」

「だから、私みたいな人を羨ましい、だなんて、思わないでください。だってそれは、私が貴方に思っていたことだから」

くやしい。
それは、私の言葉である筈だったのだから。

すると彼は茫然とした表情の後で、声をあげて笑い始めた。
夕日に染まった肩が小刻みに震えている。そのおかしさを共有できないことがもどかしくて、私は彼に詰め寄った。

「ああ。すみません。……そうでしたね、他でもないわたしが、貴方にそう言ったのでしたね。
貴方と私は似ていると。貴方がわたしを思っているように、わたしも貴方を思っているのだと」

『では、きっとわたし達は似ているのですね。
ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているように、わたしも貴方を思っているのだと。』
あの時の言葉が脳裏で反響した。彼は私に、そう言ってくれたのだ。
あの言葉を、私はずっと覚えている。忘れる筈がない。それは私の不安を一瞬して消し去った、どこまでも優しい彼の、魔法の言葉だったのだから。
そう、きっとその私の言葉だって、彼の魔法を受け継いだに過ぎないのだ。

「それから、先程の言葉に付け加えましょう」

「?」

「貴方はわたしに可能性を見せてくれた」

可能性。そう口を動かしてみる。
私が?他でもない彼の前で、自分の小ささと無力さを思い知った私が?

「人の心を揺さぶり、その深層に響かせる力を持つのは、理性的な組み立てによるものではなく、それらから遠く離れた、心からの音である場合が多い。
……わたしは、身を持って知りました」

聞き返す前に、強く手を引かれる。手袋越しの体温がもどかしく、しかし愛おしい。

「わたしは貴方に救われました」

わたしが、彼を救えた。
彼のその、信じられない言葉を反芻し、私は彼に縋った。彼はその手を私の背中に回し、別の手で私の頭をそっと撫でた。

「貴方のように、生きたくなりました」

肌を撫でる風は温かい。
夏が、この町にも訪れようとしていたのだ。

2014.11.15

ソルダ 静かな