15 vivente

コンコン、とドアを叩けば、開いた空間から金色の目が覗いた。
その目の下に、眼鏡のものだろうか、うっすらと暗い影が落ちている。

「こんにちは!」

「ようこそ。来る頃だと思っていましたよ」

足を踏み入れようとした私の肩を、しかし彼はそっと抱いて、笑った。
頭に疑問符を浮かべる私に、彼は楽しそうに微笑む。

シアさん、買い物に付き合ってくれませんか?」

「買い物……?」

「ええ、壊した実験器具は再注文したのですが、カーテンがないままでは困りますし、新しい紅茶も見たいですし、角砂糖もそろそろ切れてしまう頃ですし……」

彼はその長い指を折りながら、要件を一つずつ呟いていく。
さらりと、彼が「壊れた」ではなく「壊した」と紡いだ点を私は聞き逃さなかった。それをつぶさに拾い上げて、思わず沈黙する。
やはり、あの部屋の惨状は彼が引き起こしたものだったのだ。その直接的な理由に、私はまだ思い立っていなかったのだ。
しかし彼はまだ、それを語ろうとはしてくれない。それなら、そのままでもいいのかもしれないと少しだけ思った。

「もう大丈夫ですよ」

そして、その小さな葛藤を汲み取ったかのように、彼は肩を竦めて微笑むのだ。

「貴方のおかげで、随分と気が楽になりました」

「私、何かしましたか?」

「ええ、それはもう、十分に」

その言葉に、ようやく私は笑うことが出来た。
もどかしい安堵とくすんだ不安は、まだ私の中で吹き荒れていた。しかし今は、その嵐の中に手を伸ばすより、彼がくれた笑顔に身を委ねていたかったのだ。

「行き先はアールナインです」

「アールナイン!」

思わず彼の言葉に被せるように叫んでしまう。「喜んでくれると思っていましたよ」と彼は得意気に笑った。
アールナインは、イッシュで有名な大規模なデパートだ。
北に位置するソウリュウシティの近くにあり、ここからはとても遠い。以前、トウコ先輩に一度だけ連れていって貰ったことがある。
雑貨や日用品、家具まで幅広く取り揃えられているその場所で、彼女は大量にものを購入していた。
私はその都会の空気に飲まれるばかりであったが、また行きたい、とはずっと思っていたのだ。
思わぬところでそれが叶おうとしている。嬉しくない筈がない。

彼は大きな紙袋を持って外に出た。何が入っているのだろう。尋ねてみたが「また後で見せてあげますよ」とはぐらかされてしまった。
長財布を白衣のポケットに仕舞い、代わりにそこからボールを取り出す。トウコ先輩が持っているモンスターボールよりも、かなり年季が入っていた。
徐に投げられたそれから現れた姿には見覚えがあり、私は声をあげる。

「サザンドラ……!」

「おや、ご存知でしたか」

トウコ先輩が連れていたポケモンだ。
彼女は普段、ゼクロムという神話のポケモンに乗って空を飛んでいるが、「こいつも空を飛べるのよ」と得意顔で紹介してくれた。
彼女のサザンドラは、大きな音に驚いたり、初めて会った私に警戒の色を見せたりするなど、臆病なところがあった。
しかし慣れてくれると、三つの頭を持つその凶暴な姿に似合わず、意外にも人懐っこい部分があることが解った。

「アクロマさんのポケモンですか?」

「いいえ、知り合いに借りました。噛みついたりしませんから、背中に乗っても大丈夫ですよ」

彼に促され、サザンドラに両手を伸ばした。恐る恐る、右の頭に触れてみる。

「えっと、乗せてくれる?」

ドン、と鈍い音がした。
サザンドラに突進された訳ではない、隣の頭が右の頭を突いたのだ。
真ん中の頭が私の手にすり寄る。私は慌てて左手を出し、真ん中の頭を撫でる。
こうなってしまうと、一番左の頭も撫でてあげたい気がするのだが、生憎、私の手は二つしかない。

「わわ、どうしよう。アクロマさん、手伝ってください!」

慌てて振り返れば、彼はその金色の目を大きく見開いていた。
さっと血の気が引く。何かいけないことをしてしまったのだろうか。
自分のポケモンを連れたことのない私は、彼等とのコミュニケーションの取り方を知らない。
トウコ先輩はヒウンアイスの一口目を食べられたとかでサザンドラと殴り合いの喧嘩をしていたが、……あれは違う筈だ。

「……シアさんは、」

「?」

「いえ、……困りましたね、貴方には腕が二本しかありませんから」

そんな風に呟いた彼の笑みはいつもと変わらない。
彼は持っていたモンスターボールをポケットに仕舞い、その手でサザンドラの左の頭を撫でた。
しかし、尚も肩を震わせて笑い続ける彼に、私は思わず尋ねていた。
すると、とんでもない事実が明らかになる。

シアさん、サザンドラの頭は3つあるように見えますが、脳は真ん中の頭にしかないのです」

「……え」

私は思わず、両端の頭と真ん中の頭を見比べた。
言われてみれば、確かに真ん中の頭だけが大きい。ということはこの二つの頭は、頭の形をしているけれど、腕のようなもの、だということだ。
私が、3つの頭全てに精神が宿っているような扱い方をしたのがおかしかったのだろう。
よく考えれば、身体に3つも脳があるなんてあり得ない。頭の見た目に悉く騙されてしまっていた私は、恥ずかしくなってその手を引っ込めた。

「そ、……そういうことは先に言ってください!」

「ふふ、シアさんは面白いですね」

彼はやや乱暴に私の頭を撫でてから、ひょいとサザンドラの背中に飛び乗った。長い白衣の裾がふわりとなびく。
私がどうやって乗ればいいのか解らずに手をこまねいていると、上から笑い声と白い手が降ってきた。

「さあ、どうぞ」

その手を迷うことなく握れば、存外強い力で引き上げられた。
すっぽりと腕に収まるその感覚は、昨日の会話を彷彿とさせる。

『貴方のように、生きたくなりました。』

あれは、どういう意味だったのだろう。


その後、到着したアールナインで、私は彼の後ろをついて回り、彼が買い物をする様子を見ていた。
カーテンのコーナーには、50種は下らないであろう様々なカーテンが取り揃えられていた。
にもかかわらず、彼は全く迷う素振りを見せずに、一番手前にあったベージュのカーテンを手に取り、そのままレジへと直行する。
紅茶の専門店では、手当たり次第に紅茶をカゴへと放り込んでいく。毎日飲んだとしても1年は持ちそうなその量に、店員さんが苦笑したのは言うまでもない。
そうかと思えば、角砂糖を選ぶ時には店員さんまで呼びつけて「これとこれはどう違うのですか?」と質問をして、吟味に吟味を重ねている。
ものに執着がないのかとも思ったが、砂糖には拘りがあるのだろうか?

「!」

私は思わず足を止めた。
違う、そんな筈はない。彼が砂糖への拘りなど、持っている筈がない。だって彼は、紅茶をストレートでしか飲んだことがないのだから。
私が毎日、彼のプレハブ小屋で飲む紅茶の分、つまり一日に一つしか、あの陶器の中の角砂糖は減っていなかったのだから。
私の為に、ここまで悩んでくれている。そう認識すれば、何故だか頬が赤く染まった。
それはとても嬉しいことである筈なのに、息が詰まるような苦しさを感じた。

シアさん、この角砂糖で宜しいですか?」

角砂糖の袋を持って振り返った彼は、しかし私の酷くみっともない顔に驚いたらしい。
「どうしました?」と尋ねながら、そっと私の肩に手を添える、この人はどうしてこんなにも優しいのだろう。
人間を信用していないと言った彼が、何故、私のことをこんなにも大切にしてくれるのだろう。
私が彼に対して誠実だったから?私達がとても似ているから?私の思っていることは、同時に、貴方が思っていることでもあると確信しているから?

「……はい」

それら全ての疑問を飲み込んで、私は笑った。
知ることで広がる世界への好奇心とは裏腹に、理解しないまま、曖昧にしておくことへの美学を、私は知り始めていた。


2014.11.15

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