「君は悉く大切なことを話したくないらしい」
怒っている。少女は確信した。
イッシュへの旅行の際に交わされたあの大切な言葉に、彼女はもう一つの意味を込めていた。
それを男が知ったのは、あれから数か月が経過した後のことだ。
先ず、それまでも華奢だった身体が恐ろしい程に痩せた。次いで外出に誘われることが少なくなった。
「今からイッシュに行きます」と、笑顔で唐突な提案を日常茶飯事に繰り返し、フラダリを振り回していたあの少女が、である。
そればかりではない。彼女は笑わなくなった。確かな光を持っていたライトグレーの目は、今や鉛の色を見るばかりになった。
フラダリさん、と彼を呼ぶその声音は弱々しくなった。そうかと思えば真夜中に彼を揺すり起こし、意味もなく大声で泣きじゃくる日が続いたりもした。
あまりの変貌ぶりに男は恐ろしくなって、自分から少女を外に連れ出した。
「フラダリさんがそう言ってくれるの、初めてですね」と彼女はその細い両手を合わせて喜んでが、それは最初だけだった。
結局、途中で気分が悪くなったと訴えられ、慌ててカフェに戻った記憶はまだ新しい。
食欲旺盛だった筈の彼女が、自分の料理に全く手を付けず、誤魔化すように喉を抑えて笑ったこともあった。
それらの奇行の正体に気付いた時には遅かった。少女の身体は原因不明の病に蝕まれていた。
「いつからだ」
「……」
「この場に及んでまだ口を閉じるのか、シェリー」
病院の一室、小さなテーブルの上にフラダリは両肘を付いて手の平を組み、その上に自分の額を押し付けるようにして項垂れていた。
少女は彼が直視できない程に痩せ細っていたのだ。
フラダリは困り果てていた。誰よりも少女の近くにいながら、その変化に気付けなかった。……否、気付いてはいたが、その原因に辿り着くことができなかったのだ。
彼は気付けなかった自分と、話してくれなかった少女の両方を責め始めていた。
「最初からです」
しかし紡がれたその言葉に、フラダリは顔を上げざるを得なくなった。
ベッドの上に上体を起こした少女は悲しそうに笑った。
最初、……それは、いつのことだ。フラダリと少女が共に暮らすようになったあの日のことか、それとも、少女がフラダリを見つけた日のことか、それとも……。
「フラダリさんが永遠の命を手にしたあの不思議な機械。あの花は地面に埋められていました。それはあの機械が、目に見えない危険なものを発しているからです」
「……わたしが手にしたものを、君も得たというのか?」
「いいえ、私はあの花の光を浴びていません。でも、目に見えなくても浴びてしまうものがあるみたいなんです」
私もよく解っていないんですが、と少女は付け足した。
あの兵器はポケモンの命から得たエネルギーで、とあるポケモンを生き返らせるために作られたものだ。
更に言えば、多くの命を消し去る為に作られたものだ。
そんなものが安全である筈がない。解っていた筈だ。
しかし同じようにあの花の傍にいた男が永遠を手にし、何故この少女が今にも死にそうな顔で笑っているのか。
「あの光は、完全な形では人間に永遠をもたらすものでした。でも同時にあの光は、他の命を奪う光でもあったんです。
だって、ほら、与えるためには、奪わなければいけないから」
「……」
「それを中途半端に何日も浴び続けてしまった私は、自分でも気付いていない内に、あの花に毒されていたのかもしれません」
「……待て」
フラダリは目眩のする頭で考えた。少女の言葉を一つずつ整理しようと努めた。
彼女は地下に戻ったあの花の傍で何日も過ごしていた。そこで彼女の言う「目に見えない危険な光」を浴び、それが今になって彼女を蝕んでいる。
だとしたら、まさか。
今の少女の言葉が、全て少女が自力で考えたものだとしたら。
あの花に長時間近付くことが危険だと、「最初から」知っていたのだとしたら。
そのリスクを承知で、自分を探していたのだとしたら。
「何故だ」
消え入るような声で紡いだ男の言葉は、しかし少女の小さな笑い声により一掃された。クスクスと振るわせる肩は枯れ木のように細い。
「そんなこと、聞かないでください」と少女は紡いだが、その後で重くのしかかった沈黙に、耐え兼ねたように苦笑して再び口を開いた。
「この5年間が知っています」
少女はフラダリの頭に手を延べた。いつも彼にして貰っているように優しく撫でた。
こんなにも大きくて強い人が、こんな私のために自分を責めている。そうなることが解っていた。だから少女は言えなかったのだ。
それでいて、決して言うまいと誓っていたのだ。たった今、項垂れるフラダリに告げたこの言葉だって、彼女が隠していた真実の僅かでしかないのだ。
少女は自分が行使した大きすぎる欲張りを、この人に知られることの無いままにいなくなってしまいたかった。
それは少女の命を懸けた我が儘だった。
少女は優しく微笑んだ。そこに少しばかりの安堵と歓喜の情が入っていたことは否定しない。私はやり遂げたのだと、その笑顔は雄弁に語っていた。
けれどその微笑みを、その表情に含まれた真の意味を、今のフラダリが拾い上げることはできなかった。
これでよかったのだと、少女は思っていた。何一つ、後悔などしていない。してはいけない。
この5年間が何よりも雄弁に、自分のフラダリへの想いを語っているのだから。
二人が重ねてきたのはそういう時間だった。世間との交わりを悉く経ち、旅で得たものの全てを捨てて、少女は一人の男を選んだ。
その正体を、今も少女は知りかねている。
唯一の友人は、これに似た行為を「責任を取る」という言葉で飾っていたが、どうにもそれでは居心地が悪かった。
だってこれは私の欲張りの結果なのだから。しかもこれはあの子が為したような、多くの人を幸せにするものでは決してなかったのだから。
私は私の大切な人を苦しめて、それでいてそのことに安堵している、どうしようもなく我が儘な人間である筈だったのだから。
浮ついた言葉は上手く使いこなせない。しかし重ねた時間は言葉よりも雄弁だと少女は信じていた。
予定していた30年よりもずっと短い時間だったけれど、それでもその尊さに変わりはなかった。
最後だから、とらしくない言い訳をして、少女は口を開く。
「あの、フラダリさんは、私を好きですか?」
するとフラダリは唐突に勢いよく立ち上がった。パイプ椅子が大きな音を立てて倒れる。
彼はその手を振りかぶり、パチンという音を立てて少女の頬を叩いた。それは限界まで手加減された弱い力だったが、その後で男は少女を強く、強く抱き締めた。
頬の痛みよりも、背中に掛けられた力の方が遥かに痛い。しかし少女はこの痛みを口に出すことはしない。その痛さすらも愛する覚悟ができていたからだ。
「いい加減にしなさい、シェリー」
けれどその直後に聞こえてきたフラダリの、絞り出すような声音に少女は息を飲む。
その声音は何よりも雄弁だった。フラダリは願っていたのだ。
お願いだから君のことを何も知らないままにいなくなってしまわないでくれと、言葉にこそ出さないが、フラダリは確かに懇願していたのだ。
「その答えが聞きたいのなら諦めるな。簡単に命を投げ出すな。それが尊いものだと他でもない君が言ったんだ。捨てるなと君がわたしに諭したんだ。君が……!」
少女の手は震えていた。その手を男の背中にそっと回した。ごめんなさい、許してくださいという拒絶と謝罪の言葉は飲み込んだ。
この恐ろしい人をあやすように抱き締める日が来るなんて、昔の自分は想像もしなかっただろう。
愛しい、と少女は思った。この人が愛しい。積み重ねて来た5年間を、その一言に集約して少女は笑った。
つまりはそういうことなのかもしれない。
「フラダリさん」
男は少女のことを忘れないと言ってくれた。
だって、ねえ、他に何が必要だったというの。そうでしょう?
「私の為に泣いてくれてありがとう」
2013.10.24
2015.3.27(修正)