7:初恋

少女と男は遠く離れたイッシュの土地に向かうため、レンリタウンの駅で列車を待っていた。
木のベンチに座ろうとしたが、もう記憶の彼方に押し遣られてしまっていた人物の名を見つけ、フラダリは思わず目を逸らす。
しかし少女は気付いていないらしく、その落書きを塞ぐように背中をつけて座った。

「少し寒いですね」

そう呟いた少女は、本当にその落書きが目に留まらなかったようで、フラダリも直ぐにその人物の名前を忘却の彼方に押し遣った。
代わりに自らの纏っていたコートを脱いで渡そうとするが、少女はその華奢な腕でそれを拒んだ。
私もコートを着ているから、平気です。そう返した彼女は、確かにこの気候には暑すぎるくらいの防寒具を身に纏っていた。

……しかし、彼女の提案は毎回のことながら唐突である。
イッシュの町に向かう切符を掲げた少女に、フラダリはいつものように溜め息を吐いた。
もう少し早めに連絡できないのかと零したが、今更そんな言葉が意味を成さないことは男も十分に理解していた。
そして、それは一回の溜め息と苦笑で許せてしまう程のものだったのだ。

もう3年になるのだ。少女と毎日のように顔を合わせるようになって3年。少女が男の生きる意味を奪って3年。
何をするでもなく、少女の傍でただ淡々と生き続ける男に少女は何も言わなかった。
何もしなくていい、生きていてくれるだけでいいと笑ったのは他でもない彼女だった。
そして男には、もう焦るべき理由がなくなっていたのだ。

「イッシュには大きな橋が沢山あるんです。全部を回るのは大変なので、今回はビレッジブリッジに行きましょう。静かで古風な、素敵な橋ですよ」

少女はイッシュのものらしいタウンマップを掲げた。
フラダリはそれを覗き込むようにして少女と顔を並べる。彼女の巻いた白いマフラーがフラダリの頬を掠めた。

「君は随分と厚着だが、イッシュは寒いのか」

「……これはお気に入りの服なので」

赤いダッフルコートと白いマフラーを身に纏った少女は、喉元に手を当てて笑った。
それが何の癖であったかをフラダリはよく知っていたが、そのライトグレーの目が追及を拒んでいるようにも見えたので、それ以上を問うことが躊躇われた。
……ここで問い掛けておけば、何かが変わったのかもしれない。そんな風にフラダリは後に後悔することになる。
問い掛けたところで何も変わらないのだけれど。全てのことが進み過ぎていて、もうフラダリの力ではどうしようもないところまで来てしまっていたのだけれど。
列車が二人を遠くの地へと運ぶ。イッシュは今、秋だ。

久し振りに故郷の地を踏んだ少女は、子供のようにはしゃいでいた。フラダリの手を笑顔で強く引き、通り過ぎる建物を一つ一つ説明していく。
ただしその言葉は、カロスで使われているものだ。此処はイッシュ地方で、カロスの言葉を紡いでいる方が逆に目立つ筈なのに、彼女は周りの視線に頓着していない。
彼女はもうカロスの人間になっていた。
この土地には、懐かしいという感情を抱きこそすれ、帰りたいと嘆き、焦がれることはもうないらしい。何故かそれがフラダリには嬉しかった。

ビレッジブリッジに着いた少女は、慣れた手つきで簡易テントを広げた。
カロスを旅した少女が、元々愛用していたものらしい。雨風を凌げる程度の小さなテントを、男は興味深く見遣った。

「君はいつも、こんな場所で過ごしていたのか」

「いいえ、殆どは町のポケモンセンターで寝泊まりしていました。これは町に辿り着けなかった時に使います」

後は、フラダリさんを探す時に。
付け足されたその言葉で、この少女が自分を探す為に、数日間に渡ってあの場所に籠っていたことを知る。
3年という月日を重ねておきながら、二人の口からあの日のことや、それより前の話が出ることは殆どなかった。
それを「あんなこともありましたね」と笑って話せるようになるには、長すぎる時間が必要だと二人は承知していた。
今、その蓋が外されようとしているのかもしれない。少なくとも少女は笑っている。どうしてフラダリが拒むことが出来ただろう。

「そうだな、君は旅をしていた。あの広いカロスを、自分の足で」

「はい」

「わたしが、敵う筈がなかったのだ」

目を見開いた少女の頭を、男はそっと撫でた。3年の月日が、そのぎこちない動作を身につけさせていたのだ。
わたしは何をすればいい、と問うたフラダリに、少女は袋から野菜を出して「手伝ってくれますか」と言った。

しかしフラダリに料理の経験がある筈もない。この3年間、料理は少女の担当だったのだから。
出来上がったシチューには大小様々の野菜が入っている。
野菜を均等な大きさに切らなければ火が万遍なく通らないという、そんな初歩的なところですら間違えるその様子に少女は小さく笑った。
小さな鍋から大きなジャガイモを掬い、少女はフラダリをそっと見上げる。

「それは君が切った分だ、わたしのミスではない」

「私は今日、一度も包丁を持っていませんよ」

彼の粗すぎる責任転嫁は、少女の流暢なカロスの言葉により華麗に弾き返されてしまった。
そんなやり取りすらおかしくて、二人は顔を見合わせ、声をあげて笑った。
美味しいですねと言いながら、少女はその全てをゆっくりとしたペースで平らげてしまう。
こんなに美味しいシチューは初めてです、と言った彼女に「同感だ」と返せる程には、二人は時間を重ねてきていたのだ。

片付けを済ませ、火を消す。暗闇に慣れたフラダリの目は、満点の星空を捉えた。
隣では、少女の手が不自然に辺りを彷徨っている。自分の手を探しているのかもしれない。彼はそっとその手を掴んだ。
それは紛うことなき彼の傲慢だったのだが、しかし少女が安堵と歓喜の溜め息を小さく零した瞬間、その傲慢は真実へと為るのだ。
つまりはそうした距離だったのだ、二人がいる場所というのは。

「フラダリさんの手は温かいですね」

「……そうだろうか」

「この手の温度はずっと消えないんですよね」

男は息を飲んだ。その話が切り出されたことは今まで一度も無かった。
この子供は知らないと思っていた。気付くにしても、それはもっと先のことだと信じていた。
彼女は、いつから知っていたのだろう。もしかしたら、自分をあの瓦礫の山の中から見つけた時から、少女は自分の永遠を確信していたのだろうか。
確信していて、それでいて黙っていたのだろうか。
この3年間、少女は一度もこの話をしなかったのに、どうして今になって少女が「知っていた」と明かしたのだろう。
彼女がずっとそれを知っていたとして、何故、それを明かしたのが「今」だったのか?
その理由を、フラダリはどうしても見つけられなかった。……それはもう直ぐ明らかになってしまうことだったのだけれど。


「ねえ、フラダリさん。私を忘れないで」


その声は穏やかで、しかし僅かに震えていた。

「貴方の永遠は貴方だけのものです。でも、世界は貴方だけのものではありません。
貴方のものではないカロスを愛してください。貴方が守りたいと願った美しい土地を見てください。小さな尊さを目に焼き付けて、笑ってください。
そして、どうか、私を覚えていて」

少女は男の手を強く握り締めた。
暗闇に言葉が溶ける。男は長い沈黙の後、いつものように少女の頭に手を添えた。
そして、そっと腕の中に引き込んだ。彼女は驚く程に冷たかったが、しかしそれは紛れもない人の温度だった。
フラダリがこの腕に感じることのできる、唯一の人の温度だった。

「君は饒舌になったと思っていたが、大事なことはどうにも口に出せないらしい」

「……ごめんなさい」

「謝らなくていい。君の思いが聞けてよかった」

とうとう嗚咽を零し始めた少女の背中をあやすように抱く。
オレンジに染められた髪も、もうすっかり見慣れてしまった。頬をくすぐるその柔らかな髪に微笑む。
さて、この思いは何と呼ぶのだったか。

「忘れない」

少女は小さく息を飲む。
忘れない。忘れられる筈がない。


2013.10.24
2015.3.27(修正)

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