25:悠久を手折る指

シアがその本のサンプルをカフェに持ち寄っていた。
淡いオレンジ色の表紙は、毎月届けられる「彼女」からの手紙の色に酷似していた。そして、彼女が残した金木犀の花と同じ色でもあった。

「これから、プラターヌ博士にも見せに行く予定なんです。よかったら、一緒に行きませんか?」

彼女の誘いに頷き、フラダリは薄手のコートを羽織ろうとした、その時だった。
カフェの扉を勢いよく開けて、たった今、話題に上っていた人物が飛び込んできたのだ。
何事かと驚きに目を見開いたシアとフラダリの元へと駆け寄り、彼は青ざめた顔色のままに告げる。

「あの花が粉々に壊されていた」

「……あの花?」

「セキタイタウンの地下に埋められていたあの兵器が、壊されていたんだ」

その言葉に先に驚いたのはシアだった。
確かセキタイタウンの地下は、あの兵器が放つ危険な光のせいで、何人も侵入できないと判断され、8年前の事件からずっと立ち入り禁止になっていた筈だ。
フラダリの捜索を諦め、兵器の調査も満足にできないまま、あまりにも長い時間が過ぎていた。その封印がようやく解かれたのだ。
……しかし、侵入することのできない地下の花が壊されていたとは、どういうことなのだろう。首を捻ったシアとフラダリに、プラターヌは絞り出すように声を発した。

シェリーだ」

時が止まった気がした。シアは瞬きすら忘れてその場に縫い付けられたように動かなくなり、フラダリも息を飲んで沈黙した。
長い硬直の後に二人は顔を見合わせる。先に首を振ったのはシアの方だった。
「彼女」が再びあの地下に侵入し、あの花を壊していたことを、シアもフラダリも知らなかったのだ。
彼女がフラダリに宛てた大量の手紙の中にも、そのようなことは一度も示唆されていなかった。
それが意味することは即ち、彼女は意図して自らの行動を秘密にしていたという事実だった。そして、その秘密が今になって解かれたのだ。

「セキタイタウンの地下に埋められたあの花に、4年前の日付と、彼女の名前が刻まれていた。シェリーは一人であの兵器を壊していたんだ!」

その言葉にフラダリはカフェを飛び出した。シアもそれに続き、ボールからポケモンを出してその背中に飛び乗る。
最速を誇る彼女のクロバットは、あっという間にフラダリのドンカラスを追い越して見えなくなってしまった。

現場に駆け付けたシアとフラダリ、プラターヌは、セキタイタウンの広場に開いた、あの日を思い出させる大穴に息を飲んだ。
8年の時を経てようやく人の踏み入ることを許されたその空間から、防護服やヘルメットなどの重装備を纏った人間が地上へと戻ってきていた。

「調査の結果、機械の放つ光線が完全に消えていることを確認したため、地下への捜索を開始しました。……しかし、兵器の核は粉々に砕かれていましたよ」

その報告に相槌を打つプラターヌの傍で、シアはきょろきょろと当たりを見渡し、一人の女性を見つけた。
重装備を身に纏う人間たちの中央で、地面にスカートをふわりと広げ、泣き崩れているその姿は嫌でも目立ち、彼女の視界に強烈な衝撃をもって飛び込んできたのだ。
シアは、その姿に見覚えがあった。他でもない「彼女」の母親だと気付いた瞬間、足が動いていた。
女性はその足音に気付き、泣き腫らした顔を上げたが、やがてその、「彼女」を連想させるライトグレーの目が大きく見開かれた。

「……もしかして、貴方、シアちゃん?」

雷に打たれたような衝撃が走った。シアはその場に縫い付けられたように動けなくなってしまった。
彼女は親友との約束を守るため、誰にも「彼女」の所在を明らかにしていなかったのだ。
「彼女」が名前を変えたことも、ミアレの街でひっそりと暮らしていたことも、3年前に灰となってしまったことも、何も、誰にも告げられないまま、秘密を守り続けてきた。
それは勿論、「彼女」の実の親であるこの女性に対しても同じだった。

肩を掴まれ、激しく揺さぶられ、「彼女」の所在を問い詰められることを覚悟していた。
「彼女」の死を伝えれば、頬の一回や二回、打たれてもおかしくないとすら思っていた。
けれどその女性は寧ろ、シアの姿を見て安心したように微笑み、彼女に歩み寄ってそっと抱き締めたのだ。

「そんな怖い顔をしないで。……プラターヌ博士から、全て聞いているから」

その言葉に彼女は息を飲んだ。顔を上げ、プラターヌに視線を移した。彼は困ったように眉を下げ、肩を竦めて微笑んでいた。
ああ、この人はこうして、シェリーを見守るだけではなく、シェリーの家族のことも気に掛け、支え続けていたのだと、彼女はようやく気付くに至ったのだ。
名前を変えてミアレシティで暮らし始めたシェリーの姿を、プラターヌは絶えずこの母親に報告し続けていたに違いない。彼女の無事を伝えていたに違いない。
そうすることで、彼はシェリーの生活を守っていたのだ。
世界に愛されたいと願うあまり、世界を閉じて「シェリー」を捨てた彼女の選択を、彼は陰でずっと尊重し、支えていたのだ。

「彼女」は名前を捨て、誰からも知られずに生きていたのだと思っていた。
けれど、そうではなかった。彼女のそうした穏やかな生活は、多くの人間の想いにより成り立っていたのだ。
一人で生き続けたと思っていた「彼女」は、しかしただの一度も、一人になったことなどなかったのだ。
「彼女」は、こんなにも多くの人に愛されていたのだ。

「愛されたい」という彼女の願いは、最初から叶っていたのだ。

シアちゃん。あの子の傍にいてくれてありがとう。ねえ、シェリーは最後まで幸せだったのかしら?」

シアは頷いた。とても久し振りに、声を上げて泣いた。「彼女」の母は我が子をあやすように彼女の頭をそっと撫でた。
そうして母親が取り落とした、あの花の欠片を、傍にいたフラダリが拾い上げる。
そこには、彼にとってあまりにも見慣れ過ぎた、「彼女」の少し荒っぽい字が書かれていた。4年前の日付、彼女の名前、そして、たった一言がその花に刻まれていた。


『花はいつか枯れるものだから。』


その言葉の意味を、フラダリだけが知っていた。赤いカサブランカが脳裏を掠め、彼は目を細めて微笑んだ。
ああ、彼女は枯れない花を残したくなかったのだと、枯れない花を枯らした栄光を自分だけのものにしたかったのだと、フラダリは少しだけ理解できた気がしたのだ。
そのたった一言が、最終兵器の花を壊すという行動に駆り立てた彼女の真意を、あまりにも雄弁に示しているように思えたのだ。
勿論、真実は「彼女」にしか解らない。それでもよかった。重要なのは残された人間が、「彼女」の行動から何を汲み取るかであるのだと知っていたからだ。

世界の全てが、「彼女」の喪失を許そうとしていた。こうして時は流れていくのだろう。

しばらくして、シアはあの本に今回の事件を加筆した。セキタイタウンに咲いたあの花を、シェリーが壊していたという事実は、カロス中に衝撃を与えていた。
この事実を抜きにして、彼女を語るのは難しいと思ったのだ。

壊された機械のニュースと同時に、そこに刻まれたシェリーの名前は、8年の歳月を経てこの土地に、鮮やかな輝きをもって蘇っていた。
それと時を同じくして世に放たれたその本は、瞬く間に売れた。
カロスを救い、カロスを愛し、この世界に愛されたいと願った、臆病で卑屈な少女。彼女が為した選択を、カロスに住む誰もが知ることとなった。

本になった「彼女」を、フラダリは彼女を知る子供達に渡した。
そして決まって、彼等にこう告げて微笑んだのだ。

「何故、彼女が死ななければならなかったのか、此処にその全てが書かれている。
いいかね、君達は彼女のようになってはいけないよ。これはそのことを伝えるための本なのだからね」

彼等にとっても、この本は特別なものとなってくれる筈だとフラダリは確信していた。
そうであってほしいと願っていた。フラダリの願いはそのまま、「彼女」の願いだったのだから。

『最期まで強く優しく生きたシェリーのことを、私は忘れない。貴方は誰にも忘れられない。世界は、絶対に貴方を忘れたりしない。』
シアのその言葉は、3年の時を経て真実になった。
全て、たった一人の、かけがえのない親友のために為したことだった。

そして、永すぎる時が流れた。


2015.6.28

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