26:100分の1の永遠

ミアレシティの街路樹に、今年も小さな花が淡いオレンジ色の小道を作っている。
「彼女」が育てていた金木犀の木は、数年をかけてミアレの至る所に接ぎ木された。カロスの英雄は今も、この町で、淡いライラックの芳香と共に生き続けている。
それらの木々の元となる金木犀は、ローズ広場に枝を広げ、傍にあるカフェの中にまでその香りを運んでいた。

「いい天気ですね」

男がカフェの扉を開ければ、その大きな金木犀の木の下で、一人の女性が手を振っていた。

「さあ、これが最後の手紙です」

渡された封筒には、いつものように男の名前が書かれていた。
飽きる程に交わしたこのやり取りは、しかしもう二度と繰り返されることはない。女性はこの男に渡す手紙をもう持ってはいない。

『私と生きてください。』
あの日から、30年が経ったのだ。

「この木も大きくなりましたね」

「ええ、貴方もすっかり大人になった」

「そりゃあそうですよ、生きているんですから。変わらないのはフラダリさん、貴方だけです」

女性はその海のように青い目を細めて彼を見上げた。
30年という長い時間は少女に成長をもたらし、男を老いさせる筈であった。けれどいつの間にか、少女は男の年を追い越していた。
彼女は結婚し、子を授かり、限りない幸せを手にしていた。彼女の人生は、彼女の親友たる「彼女」にのみ捧げられるものではなくなっていた。
それでも彼女は、「彼女」との約束を一度たりとも破らなかった。
1か月に一度、雪が降ろうと雷が轟こうと、どんな悪天候の中でも、パートナーのクロバットに乗って空を駆け、男に手紙を届け続けた。
時は流れる。何もかもが変わっていく。その中で、男の姿と、彼女のその行為だけが変わらずに、あの日のままそこに在ったのだ。

彼女は一人の妻であり、また、一人の母でもあった。
しかしそれ以前に、彼女は一人の女性だった。たった一人の少女を、かけがえのない親友のことを今でも思い続ける、あの時の少女のままの心がそこにあった。
男はこの女性を、共に喪の作業を繰り返した同士として、古くからの友人として、そして一人の人間として、心から尊敬していた。

「貴方の目も、変わりませんね。深い、海のような目だ」

「……ふふ、私よりもあの子の方が、とても綺麗な目をしているんですよ」

得意気にそう紡いで彼女は笑った。
青い目に金色の髪という、両親の遺伝子をしっかりと受け継いで生まれてきたその女の子は今、カロスのポケモン研究所で働いている。
彼女の娘も、数年前に「彼女」の年を追い越してしまっていた。
時は流れる。変わっていく。記憶は薄れ、次なる者の時代がやって来る。それは当然のことなのだ。世界は同じところに留まる事を選ばない。だからこそ美しく、愛しい。

「……フラダリさんに、渡しておかなければいけないものがあるんです」

そう言って、彼女は鞄から古いモンスターボールを取り出した。
その中に入っていたポケモンに、男は思わず苦笑する。

「やはり、貴方がイベルタルを持っていたのですね、シア

そのボールの中には、赤と黒の翼を持つポケモンが眠っていた。
あの少女は死ぬ前に、連れていた全てのポケモンを男に預けていたが、このポケモンが入ったボールだけが見つからなかったのだ。
25年の時を経て、ようやくその疑問が氷解する。鮮明にあの時のことを思い出すには、あまりにも長い時間が流れ過ぎていた。
だからこそ、その過去は穏やかな温度で男の心臓を震わせたのだけれど。悲しみや悔しさを飲み込んで、今はただ、懐かしいと思うことができたのだけれど。

シア。貴方はシェリーの親友であり続けたことを悔いたことはないのですか?」

「ええ、一度も」

息をするような自然さで紡がれたその言葉に、彼は思わず目を細めた。
この女性の「彼女」への思いはあまりにも眩しく、それ故に尊いのだと知っていた。

「では、そのように彼女にも伝えておきましょう」

しかし、その言葉には流石の彼女も目を見開いて沈黙せざるを得なかったようで、不安気に、縋るように男を見上げた。
行ってしまうんですか?と、その目は雄弁に問い掛けていた。
未練がないと言えば、嘘になる。「彼女」の緩慢な自殺を長い間許すことのできなかった彼が、彼女の後を追うことは許されるのかと、一抹の不安もある。
しかし、もう十分だと思ったのだ。男はもう、十分に生きた。「彼女」との約束も果たした。彼等の喪の作業は終わったのだ。

「それじゃあ、私はもう少し、シェリーに待っていてもらおうかな。あと、50年くらいかしら」

「……それは流石に長生きが過ぎませんか?」

「あら、私は90歳になっても元気でいるつもりですよ」

楽しそうに微笑む女性は、しかし男を引き止めなかった。死ぬにはまだ早すぎると、彼の選択を咎めることはしなかった。
永遠の命を与えられた彼の苦しみを、限られた時間の中でしか生きることのできない彼女は察することができない。
だからそんな自分が彼に、時間の大切さや命の尊さを解いたところで、何の意味もないことなのだと女性は知っていた。
だからこそ自分は、その限られた時を限りなく懸命に生きようと誓っていたのだ。それが彼女の、唯一無二の親友である「彼女」に示し得る、最大の敬意だった。

彼女は男の生き方を尊重した。あの日、親友を送り出したように、この男のことも笑顔で送り出そうと誓っていたのだ。

「また会いましょうね、フラダリさん」

「ええ、また」

彼女はボールからクロバットを取り出し、その背中にひょいと飛び乗った。
昔と何ら変わらないその身のこなしに男は思わず微笑みながら、空から少女のように大きく手を振る彼女を見上げ、同じように手を振り返した。
一滴の雨がアスファルトを濡らし、空へと溶けていった。

夜、日付が変わろうとしている頃、男は一つのモンスターボールを持ってカフェを出た。
ローズ広場のベンチには、金木犀の花が雪のように降り積もっていた。彼はその花を少しだけ払い、ベンチに腰掛ける。

あの日、まだこの広場に金木犀の木が植えられていなかった頃、男は此処で少女からの手紙を読んでいた。
共に過ごしたあの5年間の中で、彼女が1か月に一度、書き続けていたというその手紙を、彼は一晩で全て読み終えたのだ。
しかし60通という手紙の数は、今こうして思い起こせばたいしたことのない量であるようにさえ思えた。
何故ならそれ以降も、少女は何百という単位で手紙を送り続けてくれていたのだから。
今日届いたもので360通目となるその手紙は、100分の1の永遠を生きた男にずっと寄り添い続けてきたのだから。
「彼女」はこうして、ずっと男を待っていてくれたのだから。

フラダリは月明かりの下で手紙の封を切った。淡いオレンジ色の封筒から、手紙を取り出し、開いた。
最後の手紙は驚く程に簡潔で、けれど彼女らしい、筆圧の濃い、少し荒っぽい字が並べられていた。

シェリー、わたしは君との約束を守った。君はちゃんと迎えに来てくれるのだろうね?」

男はその手紙を広げたまま膝に置き、ポケットから古いモンスターボールを取り出した。
夜の闇の中に投げたそのボールから、大きな翼を持ったポケモンが現れる。その翼の輝きの中に、きっと「彼女」の命も溶けている。
男と少女の命は、このポケモンの中で生き続けるのだ。

「さあ、わたしの永遠を君にあげよう」

そのポケモンは、黒と赤の翼を大きく広げ、夜空へと飛び立った。
羽があまりにも美しく輝いていて、ああ、「彼女」が焦がれていた死への幻想というものは、こうした輝きの下にあったのかもしれないと、男は思い、微笑む。
……ああ、でもどうか、奪うのはわたしの命だけにしてくれないか。この金木犀の木は、これからも少女の愛したカロスを見守らなければならないのだから。

彼女の死は誰も幸せにすることができなかった。それが全てだったのだ。
けれど男は最後まで生きた。少女の親友の人生は折り返し地点を少し過ぎたくらいで、これからもまだ、続いていく。
時は流れる。変わっていく。記憶は薄れ、次なる者の時代がやって来る。それは当然のことで、だからこそ世界は美しいのだと彼はようやく理解するに至ったのだ。

『私を、忘れないで。』

忘れない。忘れたことなど一度もない。

あれが少女の愛だったというのなら、それを受け入れよう。わたしは愛されていたのだと、そう思うことにしよう。
そう思い、微笑むことができるくらいには、男は「彼女」を愛していたのだ。

金木犀の花が、咲いていた。


しばらくして、彼の永遠を一人の少女が迎えに来る。


2015.6.28

Thank you for reading their story.

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