身体の痛みと疲労は、夜通しピッケルやスコップを振り回していたことによるものだとばかり思っていた。
それ故に、1週間が経過してもその痛みと倦怠感が消えないことに私は驚き、困惑した。けれど心当たりがない訳ではなかった。間違いなくあの行為が原因だと知っていた。
私は少しだけ悩んだ後で、できる限り長く、この現象をフラダリさんに隠し通すことを選んだ。
あの日を境に、私の体調ははっきりと悪化し始めていた。
体重が減り、食欲がなくなり、強い眩暈と倦怠感が毎日のように私を襲った。
ああ、これが、あの空間が4年もの間、放置されていた理由なのだと、私は文字通り、身をもって体感することとなったのだ。
けれど、構わなかった。寧ろ、あの場で死んでしまうようなことにならなくて良かったと思った。
だって私には、大切な人と別れるための、その心の準備をするだけの猶予がある。それはとても幸せなことだと知っていた。
私への罰に対する恩赦だとさえ思っていた。
もう私の頭は、難しいことを考えられるだけの余裕を有していなかった。だから、そんな倒錯的な思考に溺れてしまったのかもしれない。
私はずっと幸せだったのだと、これからもずっとそうなのだと、そんな幻想を再びこの目に映して微笑める程には、今の私は幸せだった。
『30年でいいです。』
私は、4年前のあの日に彼と交わした約束を思い出していた。目覚めたばかりの彼にそんな言葉を突き付けて、私は彼を縛った。
あと、26年残っている。不安があるとすればその点だけだった。
彼は私を追い掛けてしまうのではないかという、たった一つの懸念があった。
そして、私は悉く狡い人間で、自分はこんなにも卑劣な手を使って早々といなくなろうとしている癖に、フラダリさんにはそれを許すことができなかったのだ。
けれど、30年という約束を先に破ろうとしている私に、生きることを強制することはできなかった。けれどそれなら仕方ない、と簡単に諦めることもできなかった。
どうすればいいのか、上手く働かない頭で懸命に考えていた。そうして脳裏に過ぎったのは、セキタイタウンに住むAZさんに預けていた大量の手紙だった。
1か月に一度、私はオレンジ色の手紙を彼の元へと届けていた。
『永遠の命を持つ貴方に持っていてほしいんです。私が死んでから、フラダリさんに渡してくれませんか?』
イベルタルに捧げた分の命が私の中に残っていたとしても、あの花に近付き、壊すようなことをしなかったとしても、先に死ぬのが私であることは変わらなかった。
だってフラダリさんは永遠の命を手にしていたのだから。命を吸い、最終兵器となったあの花はそうした力を与えるだけの光を放っていたのだから。
だからこそ、私はそんな彼に手紙を送った。私がいなくなってからも、私という存在を彼に留めておけるようにと、書き続けていた。
そしてその手紙は、私が死ぬと同時に、AZさんの手でフラダリさんへと手渡される筈だった。
最初に手紙を書いた日から、もう4年以上が経過していた。50通を超えようとしていたその手紙の中で、私は沢山の言葉を綴った。
けれど、足りない。きっとその手紙だけだは、彼をこの世界に引き止められない。
だから私は、彼の未来に届かせるべき言葉を綴ることにした。
ミアレシティにある文具店で、大きな紙袋に収まりきらないくらいの、大量の便箋と封筒を購入した。
淡いオレンジ色の便箋を、両手に抱えてレジへと運んだ私に、店員さんはとても驚いた顔をしたけれど、特に問い詰められることもなく会計を済ませることができた。
カフェに戻り、フラダリさんに見つからないようにその便箋と封筒を自室に隠した。
そうして私は、彼が寝静まった真夜中に起き出して、小さな明かりの下で新しい手紙を書き始めた。
1か月に一通だけ書いてきた、彼への手紙。
もし30年、書き続けたのだとしたら、それは360枚になる筈だった。
私は残りの、300枚を超える手紙を、私の手で全て書き上げようと思ったのだ。
私がいなくなってからも、彼の元に手紙が届くように。私の言葉で、彼をこの世界に引き止められるように。彼がまだ、こちら側へとやって来ることのないように。
この手紙は、残りの時間を彼と過ごすための媒体だった。
*
フラダリさんを、外出に誘った。
久し振りに体の調子が良く、今なら遠くに出掛けることもできる気がした。何処に行こうか、と考えて、真っ先に浮かんだのはイッシュ地方だった。
単なる気紛れだったのかもしれない。それとも、最後に生まれ故郷を見ておきたいと、深層心理が訴えていたのかもしれない。
どちらでもよかった。どのみち、これが最後になるかもしれないと覚悟はしていた。この目に、あの場所を焼き付けておかなければと思っていた。
彼はそんな私の突然の提案に苦笑しながら、しかし直ぐに出発の準備をしてくれた。
「イッシュには大きな橋が沢山あるんです。全部を回るのは大変なので、今回はビレッジブリッジに行きましょう。静かで古風な、素敵な橋ですよ」
私はかつて、その大きな橋の上にある家に住んでいた。あの橋の上で、私はシアと出会ったのだ。
懐かしさに目を細めながら、私はレンリタウンから列車に乗った。赤いダッフルコートを着ていた私に、フラダリさんは少しだけ不思議そうな表情を見せた。
寒さが痛みに変わるようになったあの日から、私は必要以上に分厚い防寒具を身に纏うようになっていたのだ。
まだ、気付かないでほしい。もう少しだけ、平気な振りをさせてほしい。
ライモンシティに着いた私は、フラダリさんに町の建物を説明して回った。
ポケモンセンターも、駅も、遊園地も、スタジアムもコンサートホールも、当たり前だが全てがイッシュのもので、私は目を輝かせながら彼の手を引いた。
けれど、彼に説明するための言語はカロスのものだった。私はすっかりカロスの住人になっていた。
「シェリー」であった時には、少しも話すことができなかった筈の私は、カロスの言葉を使いこなしていた。
数年ぶりに訪れたイッシュの地はとても懐かしかったけれど、此処に戻って来たいとは思わなかった。私はもう、カロスを愛せるようになっていた。
「シェリー」を捨てなくても、カロスを愛せたのかもしれないけれど。あんな残酷な手段に縋らなくたって、私は生きていられたのかもしれないけれど。
けれど、それらを過去の愚かな私だと微笑んで許せてしまえる程には、私はカロスで時間を重ね過ぎていた。だから、もういいのだと思えた。
フラダリさんが連れて来ていたドンカラスの背中に乗って、ビレッジブリッジへと向かった。
簡易テントを組み立て、夕食のシチューを作った。包丁を上手く使えない彼がおかしくて私は声を上げて笑った。
大小様々の大きさの野菜が入ったシチューは、けれどとても温かくて、美味しかった。
こんなに美味しいシチューを食べたのは初めてです、と紡いだその言葉に嘘はなかった。「同感だ」と相槌を打ってくれる彼に私は微笑んだ。
食器を片付け、火を消して川辺に腰を下ろした。
小さな水音と鳥ポケモンの鳴き声が、鼓膜をささやかに震わせていた。
空には恐ろしい程に多くの空が落ちていて、私は思わず彼の手を探すために自分の手を宙に彷徨わせた。
直ぐに、彼がその手を握り返してくれた。ひどく嬉しかった。つまりはそうした距離に私達はいたのだと、認めた瞬間、微笑んだ。微笑むことしか、できなかったのだ。
この手の温度はずっと消えないんですよね。そう告げれば彼が驚きに息を飲む気配がした。
私達はこうした、大切なことを悉く話さずに生きてきたのだ。4年も一緒にいながら、私は何も彼に伝えなかった。
だから今日くらいは、これが最初で最後だと確信している今日だけは、あの淡いオレンジ色の手紙ではなく、私の拙い言葉で、私の思いの全てを告げようと決めていたのだ。
「ねえ、フラダリさん。私を忘れないで」
穏やかに紡ごうとしたその言葉は震えていて、けれどみっともない私でもいいと思えたのだ。
貴方の永遠は貴方だけのものです。でも、世界は貴方だけのものではありません。
貴方のものではないカロスを愛してください。貴方が守りたいと願った美しい土地を見てください。小さな尊さを目に焼き付けて、笑ってください。
私は構いません。貴方に愛されていなかったとしても構いません。愛してください、なんて言いません。だからせめて、私を覚えていてください。
貴方を、愛しています。
嗚咽を零し始めた私の頭を、彼はそっと撫で、そのまま腕の中に抱き込んだ。
あやすように背中に手が回され、そっと力が込められる。彼の腕はとても温かかった。ああ、これが永すぎる命の温度なのだと、私は心地良さに目を細めた。
「忘れない」
息を飲む。囁くようなその誓いに時が止まる。
2015.6.28