(番外)22.6:涙で紡ぐ鎮魂歌

※雨企画。同連載「奈落のプロポーズ」既読推奨。

彼が愛した一人の女性には、唯一無二の「親友」が存在した。

プラズマ団に属していたその少女は、寡黙で大人しい、個性を感じさせない人間だった。
彼女は寡黙を貫き、人と関わることを拒んでいた。その気丈とも取れる寡黙さが、幼い彼女の築き上げた精一杯の装甲であったことに、しかしアクロマは気付くことができなかった。
その装甲を見抜いたシアが、その、実はとても臆病で卑屈な少女と親しくなるのにそう時間は掛からなかった。

少女は、成長できなかったのだ。彼女の置かれた環境がそれを許さなかった。学がないことは勿論、彼女は学ぶ姿勢を知らなかった。
組織の歯車となって、淡々と動き続けてきた彼女は、自己の確立の必要性や、世界の広さというものを知らずに育った。
だからこそ、この広すぎる世界でたった一人、自分のことを理解してくれる「シア」という存在に喜び、そして依存した。
シアは、それを特に不快に思うこともなく、寧ろ親友で在れることの心地良さを噛み締めているかのように笑顔で接し続けていた。
それは、その親友がカロスへ旅立ってからも続いた。シアはできるだけ近くで、少女の旅路を見守り続けることを選んだのだ。

そんな少女からの連絡が、ある日を境に、完全に途絶えた。

今でも覚えている。クロバットに乗ってカロスへと向かったシアが、深夜近くになって戻って来た、その瞬間の表情を。
何もかもに裏切られたような絶望の色がそこにあった。泣き腫らした目で、しかしアクロマの前では決して涙を流さずに「大丈夫です」と笑ってみせたのだ。
何かがあったことは明白だった。けれどアクロマは、尋ねることができなかった。
疲れ果てた海の目、大丈夫だと紡ぐ声、竦めた華奢な肩、少しだけ伏せがちに曲げられた小さな背中、その全てがアクロマに「聞かないで」と訴えていたからだ。
だからこそ、アクロマはあの日からずっと、知らない振りをしていなければならなかったのだ。

アクロマは気付いていた。
シアが1か月に一度、何処へ向かっているのかも、誰と「秘密の約束」を交わしたのかも、どのような罪悪感に苛まれているのかも、全て、全て解っていた。
盗み見た、少女からシアに宛てられた手紙と、少女が別の男性に宛てた大量の手紙に、その真実は余すところなく書き記されていた。
その真実を知っても尚、アクロマは知らない振りをしなければならなかった。
誰にも知られてはいけない。それこそが、シアが親友と交わした約束であり、彼女がそれこそ自身の全てを懸けて貫いてきた隠し事だったからだ。

「死」をもってして、少女の存在は永遠となったのだ。

シアは、その死の真相を知る、唯一とも言える存在だった。
友達、知り合い、家族の全てと連絡を絶ち、名前さえ変えて5年間を過ごしてきたという少女の全てを、ただ一人、「彼女」だけが知っていた。
シェリー」という少女の存在が形作る全てのものを、「彼女」だけが知っていたのだ。

『私だけは、シェリーを忘れてはいけない。私が忘れてしまえば、彼女は本当にこの世界から、いなかったことになってしまうから。』
欲張りなシアはきっと、そんな風に思ったのではないだろうか。
彼女の真意は定かではないが、あの日以来、彼女の華奢な肩に呪いのように貼り付いたその影の正体が、紛れもないあの少女であることにアクロマは気付いていた。
気付いていながら、それについて言及することも、彼女の絶望を取り払うことも許されなかった。
そうして、シアは疲れ果てたまま、アクロマは為す術がないまま、時は流れていった。

彼女の望む「親友」はもう、いないのだ。そして、いなくなってしまった存在に、アクロマが二度と、敵うことはない。
アクロマが愛したかけがえのない存在に、アクロマが愛されることは二度とない。

その残酷な事実は長い月日をかけて徐々にアクロマを蝕んでいた。
犯人を求めて彷徨うそのどす黒い絶望は、何度思い返してもあの少女のところへと戻って来る。
あの少女が死んでしまいさえしなければ。絶望は憎悪へと形を変え、もう死んでしまった少女へ向けるべき殺意として刃を向けるに至ったのだ。
優しく、誠実であったこの男性にとって、そうした憎悪は諸刃の剣だった。アクロマは少しずつ、疲れていった。

それなのに、そのいなくなってしまった筈の少女は、シアの中でだけ生き続けられている筈の少女は、頻繁にアクロマの夢の中に現れる。
白い空間の中で、クスクスとその高いソプラノを、嘲笑うかのように震わせている。
その穏やかな笑みが、「可哀想に」と言っているような気がして、アクロマは金色の目をすっと細めた。

『アクロマさんの目は、太陽の色をしているんです。』

8年前のシアの言葉が脳裏を掠めた。今の荒んだこの目を見ても、彼女は同じことを言ってくれるのだろうか。
いや、きっと言わないだろう。彼女が8年前のあの頃のように戻ることは二度とない。
屈託のない目を輝かせていた、知識に貪欲で好奇心が旺盛で、それでいてひどく欲張りな彼女は、もう二度と戻っては来ない。
彼が愛した女性は、この少女の死に全て奪い取られてしまったのだ。アクロマはこの少女を憎まずにはいられなかった。
それでも、アクロマは彼女を愛していたのだけれど、たとえ愛されなくとも、自分が彼女を愛せているうちは、何があっても傍にいようと誓っていたのだけれど。

シェリーさん、知っていますか?カウンセリングの現場では、近しい人を亡くしたその喪失感を受け入れていく過程のことを、グリーフワークと呼ぶそうです」

「……」

「彼女のグリーフワークは、順調に進んでいます。シアさんは長い時間を掛けて、貴方の喪失を少しずつ、受け入れようとしていますよ」

よかった。
少女の唇がそんな安堵を形作った。けれどその言葉は音にはならなかった。それはアクロマが彼女の声をすっかり忘れてしまっているからだろうか。
けれど、それでよかったのだ。思い出したくもない。こんな、臆病で卑屈で、それでいてとてつもなく傲慢な少女の声など。

「けれどわたしは、貴方のことを許せそうにない」

ここで彼女の笑顔は少しだけ強張る。アクロマはよく解っていた。何故なら、この夢はもう数え切れない程に、繰り返し見てきたからだ。
いつも、夢の中の少女は自分を嘲笑っている。アクロマでは到底敵わないところへと行ってしまった自分を誇示するかのように、白い空間をふわふわと歩いて微笑むのだ。

「貴方の死は、シアさんを一生、苦しめ続けるでしょう。貴方の約束は彼女を縛り、彼女に自由を死ぬまで明け渡さないつもりなのでしょう。
わたくしにはその苦しみを取り払う術がありません。死んでしまった貴方に敵うだけの存在に、わたくしはどうしてもなれません」

アクロマは足を踏み出した。

「だからこそ、思うのですよ。今この時だけは、貴方をこの手で殺しておきたいと。貴方が焦がれたシアさんの記憶から、貴方の全てを殺してしまいたいと」

いつも、ここで首に手を掛ける。
少女は微笑んだまま、その鉛色の目をすっと細めて自分を静かに責め立てる。彼はそれ以上の叱責の視線を突き刺しながら、少女の首を絞め続ける。
そうして彼女を殺しきれないままに、アクロマは夢から覚めるのだ。そうして微睡みの中、アクロマは拳を握りしめてその憎悪を静かに噛み殺すのだ。

しかし、彼はその、最早定型と化したその行動を取らなかった。少女の華奢な首に伸ばそうとした手を宙で止め、肩を竦めて笑ってみせる。
今日は報告をしに来たのです。そう告げれば、少女は首をくいと曲げる。ストロベリーブロンドの美しい髪が、白い空間でふわふわと揺れている。
シェリーのブロンドはとても綺麗なんですよ。』と、彼の愛した女性の言葉をアクロマは覚えていたのだ。

「わたしは、彼女にプロポーズをしました。彼女は指輪を受け取ってくれましたよ」

少女は驚いたようにその目を見開く。

「わたしは貴方を憎んでいますが、貴方のことを想い続ける彼女のことは、どうしても愛さずにはいられないのです」

アクロマは自嘲するかのように乾いた笑いを零した。
解っている。こんなくだらない少女のことを何度も何度も夢に見るのも、たった一人を殺してしまいたいと思う程に憎んでいるのも、全て、全て彼女を愛していたからだ。
彼女がこの少女を忘れることは二度とないと知っていながら、それでも愛さずにはいられない自分が許せないのだ。その事実を受け入れたくなくて駄々を捏ねていたのだ。
けれど、それも終わりにしよう。何故ならわたしは誓ったのだから。
何があっても彼女の傍にいると。わたしを愛せない彼女すらも愛してみせると。

「ですからお互いに、此処に来るのはもう最後にしましょう。
わたしも、もしかしたら貴方を思う誰かのように、何十年という長い時間を掛けて、貴方を許せるようになれるかもしれない」

ありがとう。
その唇の形を金色の目で追ったアクロマは、思わず息を飲む。少女は踵を返して駆け出した。
赤いスカートが白い霧の中に溶けていく。豊かなストロベリーブロンドがふわりと宙に消える。
アクロマさん、と聞き慣れた愛しいメゾソプラノが遠い別の方向から降って来て、彼も小さく微笑んでからその空間に背を向けた。

シェリーさん、貴方を忘れることにします。それがおそらく、貴方への一番の復讐になるでしょうから」

『私を、忘れないで。』
あの手紙に書かれた一節を思い出して、アクロマは目を開く。
目蓋の裏で漂い続ける霧の中、ありがとう、と忘れていたあの少女のソプラノが震えていた。


2015.5.10
(青年AのGrief work)
素敵なタイトルのご紹介、ありがとうございました!

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