(番外)22.5:奈落のプロポーズ

ヒオウギシティの通りを、彼と二人で歩いていた。出会った頃を思い出させる雨が降っていた。
あの時、縋ったのは私の方だった。近くで鳴った雷に驚き、彼の白衣にしがみついた。大丈夫ですよと囁かれたあの柔らかなテノールを、私は今でも覚えている。
私達は青と黒の二つの傘を並べて歩いている。雨が傘の上で踊っていて、その音が二人の間に生じた沈黙を埋めてくれた。
いつからだろう。この沈黙が苦しくなったのは。後ろめたい気持ちを抱えたまま、彼と向き合わざるを得なくなってしまったのは。
解っている。解っていた。きっとあの日からだ。私の大切な親友に、その死を宣告されたあの日から。彼女を救えなかったのだと、知らしめられたあの日から。

高台に続く階段に足を掛ける。転ばないようにと差し伸べられた手を、私は長い躊躇いの後でそっと握った。

シアさんがこうして傘を携帯するようになったのは、いつからだったのでしょうね」

隣で黒い傘を差したアクロマさんはそう紡いだ。私はその言葉に苦笑することで返事を濁したけれど、私の中にははっきりとした答えが用意されていたのだ。
私は普段から、傘を携帯しない人間だった。にもかかわらず、ある日を境に私は傘を持ち歩くようになった。
その変化に、私の傘の忘れ癖を知っていた彼はひどく驚いたけれど、そんな雨の日が数日も続けば、何も言わなくなった。
あの日からだと私は知っていた。けれど知らない振りをした。私は嘘を吐き過ぎていた。
この人に対しては、誰よりも、何よりも誠実でいたかった筈なのに、私はあの日から不誠実を貫き続けてきた。

そんな私の変化に彼は気付いている。『何かあったのですか?』と、問われたのは一度や二度では決してない。けれど私はその度に沈黙を貫いた。
私はあの日に、誰にも言えない秘密を与えられたのだ。その秘密を守るために、私は嘘と隠し事を重ね続けた。

私が1か月に一度、カロスのミアレシティに向かうことも、大量の手紙の文面をパソコンに打ち込んでいることも、彼は知っていた。
何度も、その理由と目的を聞かれたけれど、私はただ「ごめんなさい」と沈黙を貫いた。
そうして重ね続けた嘘と隠し事は、彼を私から遠ざける筈だった。誠実な思いを向けた人物に不誠実に扱われて、気分を害さない方がおかしい。
だから私と彼との距離は、自然と遠ざかっていく筈だったのだ。
勿論、寂しい気持ちはあったけれど、仕方なかった。聡明で誠実な彼はきっと、こんな不誠実な私よりも相応しい人に出会える筈だからと言い聞かせていた。

何故なら、そうでなければいけなかったのだ。間違っても、彼が私の隣を望み続けるなどということがあってはいけなかったのだ。
だって私は、彼が私に向けてくれるものと同じ想いを彼に返すことなどできないのだ。
私はこの人のことが好きだけれど、それ以上のものを抱くことは、きっと、ずっとできないのだ。
それでも彼は私の傍を選び続ける。不誠実な私を好きなままでいてくれる。それどころか、それ以上の感情までも向けてくれようとしているのだ。
きっと、私は彼に愛されている。そう解っていながら、しかし私は決して彼を愛する訳にはいかなかった。
そんなことをしては、私が幸せになってしまいそうだったから。私は彼女をずっと記憶の中に鮮明に留めておくために、幸せにならないことを誓ったのだから。

だから、高台で足を止めた彼がポケットから取り出した、小さな白い箱を見て、私は息が止まるような絶望を感じたのだ。
彼が褒めてくれた私の、海の色をした目はきっと曇っている。そして今にもその青は、この空のように雨を降らさんと揺れているのだ。

差し出された小さな箱が何を意味しているのか、私は解っていた。
その箱の中身も、今からこの人が言わんとしていることも、私がどのような返事を求められているのかも、全て、全て解っていた。

「ごめんなさい」

だから、私のその言葉に彼が泣きそうに微笑むことだって、痛い程に解っていたのだ。
それでも私は、この人の望む言葉を紡げない。私はこの人のことが好きだけれど、この人を愛することはできそうにない。
それは、この人だからではない。私にそうした温かい感情があったとして、それはきっと、あの日に全て奪い取られていたのだろう。

「わたしを愛してください、とは言いません。ですがせめて受け取ってください。わたしに、貴方を幸せにするチャンスを下さい」

私はできるだけ残酷な笑みを湛えて口を開いた。
それはできないんです、アクロマさん。ごめんなさい。本当にごめんなさい。

「貴方には私を幸せになんかできない」

その言葉は諸刃の剣となって私の心を抉った。声が震えていたことに、きっと彼は気付いている。
それでも私は、この申し出を断らなければならなかったのだ。だって私は幸せになんかきっとなれないから。私は貴方に相応しい人間ではなくなってしまったから。
私はたった一人も救うことができなかった、愚かで無力な人間のまま、ずっと生きていかなければならないから。
私だけは「彼女」を忘れてはいけない。そのために私は、私の全てを捧げると誓ったから。

それは私が紡ぎ得る、精一杯の拒絶の言葉である筈だった。私は箱を差し出す彼の手を突き返した。
けれど彼は傘を持っていた方の手を放し、私の手を掴んでその小箱を握らせようとした。
普段は穏やかな彼の、あまりにも強引なその行動に私は驚き、当惑する。傘はアスファルトに落ち、高台に続く階段を転げ落ちていった。

「貴方がその約束を大事に思っていたとしても、忘れられない誰かがいたとしても構いません」

彼の白衣を雨が染めていった。その金色の目はあまりにも鋭く私を見据えていた。
そんな目で私を見ないでほしい。私の罪を暴かないでほしい。貴方に相応しくない私のことなど、忘れてほしい。
彼は優しい。そうすることを彼は許さない。

「2番目でいい。貴方の涙の2番目でいいから、わたしに下さい」

彼は知らない。私の唯一無二の「親友」がいなくなってしまったことを。彼女が自ら「死」を選んだことを。私が彼女を止められなかったことを。
だからそんなことを言ってくれるのかもしれない。だから私を見限らないのかもしれない。
私は彼を騙したままにこの箱の中身を受け取ってもいいのだろうか。私はこれから先、私の大切な人を騙し続ける覚悟があるだろうか。
私はこれからもずっと、「彼女」を忘れずにいられるだろうか。

私は幸せになってはいけなかったのだ。だってそうなってしまえば、過去はただ穏やかで優しいものへと変わってしまうから。
あんなこともあったね、と、笑って話せるようになってしまうから。
私はそうしたくなかった。彼女を止められなかった過ちを、それこそ、死ぬまで抱えていくと誓っていたのだ。
そうして初めて、私は私を、彼女を救えなかった私を許すことができるのだと信じていた。

彼はそんな私を選んでしまった。

目蓋の裏が熱くなった。私は誤魔化すように傘を畳んだ。彼はその動作にひどく驚いたけれど、止めはしなかった。
彼を見上げる。頬に雨が降り注いだ。よかった、これできっともう見抜かれない。
私が泣きそうな顔をしていることも、彼が褒めてくれた海の色をした私の目から涙が零れていることも、全て雨のせいにできる。

「私を幸せにしないと、ここで誓ってくれるなら、受け取ります」

その言葉に彼は息を飲んだ。けれどそれは一瞬で、その固く結ばれた口から細く安堵の溜め息が漏れる音を私は聞いた。
彼はその小さな箱を開け、中に入っていた綺麗なリングを取り出した。中央に一つのダイヤが埋め込まれた、シンプルながら、とても美しい指輪だった。
雨に濡れた眼鏡の奥で、彼は私に目配せして笑ってみせた。私は震える左手をそっと差し出す。

「では、ずっと苦しいままでいましょうか、シアさん。貴方とならそれも悪くない」

彼は二つの太陽を細めて、ただ穏やかに笑った。
薬指に嵌められたその指輪の意味を私は知っている。私が、この美しい指輪に相応しくない人間であることも、痛い程によく解っている。

それでも彼は私を選んだ。こんな私を、選んでしまった。

涙が止まらなくなった。右手で左手を抱くように包み、微笑んだ。
私の涙は雨が流してくれる筈だった。けれどそんな目論見すらも彼は見抜き、穏やかに笑って私の目元をそっと拭ってみせる。
私は思わずその腕に縋り付いた。声をあげて泣いた。「彼女」以外の誰かを想って紡ぐ涙は随分と久し振りだった。
ごめんなさい。拒み切れなくてごめんなさい。
こんな私を選んでくれてありがとう。私と生きることを選んでくれてありがとう。

「大丈夫ですよ」

邂逅の日を思い出させるような優しい声音で彼は囁く。
私は彼がくれたチャンスを生かすことができるのだろうか。2番目の涙は彼を愛せるだろうか。


2015.4.21

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