0.8(C)

その名前を彼女の口から聞いた時、私の背中に冷たいものがすっと伝った気がした。ああ、やはりそうだったのだという絶望に満ちた確信が、私の中を満たしていった。
しかし、今のシェリーを、フラダリさんに会わせてもいいのだろうか。それ以前に、彼は生きているのだろうか。
あの地下に生き埋めにされてから、ゆうに1週間が経過していた。人が餓死するには短すぎる期間だが、それでも怪我や衰弱ならば十分にあり得る筈だった。
私の顔色を読んだシェリーは、大丈夫だよと言わんばかりに優しく微笑んでみせた。

「彼は無事だよ。どこも怪我していない。眠っていたからそのまま連れ出して、フラダリカフェに運んだの」

そう告げたシェリーが、しかし何かを目論んでいることは明白だった。
彼女は何をしようとしているのか。フラダリさんを探して、見つけて、それから?シェリーはフラダリさんをどうしようというのだろう?
最も考えたくない可能性を、私は頭を振って遠くへと追い遣った。今のシェリーのことはよく解らないけれど、人を殺めるような存在ではないと知っていたからだ。
彼女は人の命を軽んじるような人間ではない。ただし、それは自身に限り適応されなかったのだけれど。

シア、私は貴方が羨ましかった」

「え……」

シェリーは再び、数分前に紡いだ言葉を繰り返した。
この場においてその発言を再び引き出すその意図が読めず、私は小さく声をあげて沈黙する。

シアは絵を描くのが好きでしょう?貴方は過ぎる一瞬を、そうして永遠のものにしていたでしょう?
私はそんな貴方がとても羨ましかった。賢くて欲張りなシアは、永遠なんて大きなものにさえも手を伸ばして、小さなスケッチブックの中に全て収めていた。
胸が痛くなるくらい、羨ましかったの」

永遠。
その言葉は確かな冷たさをもってして私の心を抉った。
彼女がその単語を紡ぐ時の目が、その光を失った鉛色の目が、ほんの少しだけ輝いたような気がしたのだ。
そして、思う。
彼女は永遠が欲しかったのかもしれない、と。

「フラダリさんも、永遠の美しさに焦がれていたの。世界を一瞬で終わらせて、全ての美しさを永遠のものにしたいって、言っていたの」

「……」

「でも彼は世界を変えることができなかった。彼は永遠を手に入れることができなかった。
私はそんなフラダリさんのことをずっと見てきたの。永遠の美しさに焦がれていながら、その変化を止めることのできなかった彼のことを、ずっと見ていたの」

流暢に言葉を紡ぐシェリーが、どのような結論を出そうとしたのかを私は解り始めていた。
私は俯き、嗚咽を噛み殺そうと努めながら、もやのかかったシェリーの姿を捉えるために強く瞬きを繰り返した。

「だから私は、彼が手に入れることに失敗した永遠を手に入れてみせるわ」

世界は変わっていく。それはいきものが暮らすこの広すぎる空間の、優しくも悲しい性だ。
私はその変化を甘受しつつ、その変化の中に素晴らしい一瞬を埋没させることが嫌で、その一瞬をどうにかして残しておきたくて、スケッチブックと水彩色鉛筆を手に取った。
スケッチは過ぎる一瞬を永遠にするための、私のためだけの作業だった。

フラダリさんも、きっと私と同じものを求めたのだろう。
世界が醜く変わっていくのが耐えられないと言った彼もまた、永遠の美しさに焦がれていたのだ。
過ぎる一瞬を永遠にするために、全てを終わらせて美しいままにするために、彼は神の道具を手に取った。
それは彼の、このカロス全体を巻き込んだ、彼の強すぎるエゴの結果の産物だった。

そして、シェリーもまた、変わっていく世間の評価の中で、変わらないものを求めていたのだ。
同じままではいられないことを恐れるあまり、この素晴らしいままをどうにかして保っておきたいと願っていた。
けれど強情で、負けず嫌いなところのある彼女は、私と同じ手段に甘んじることはしなかった。フラダリさんのように全てを巻き込むような手段も選ばなかった。


彼女は一瞬を永遠にするための手段として、自らの命を手に取ったのだ。


そうしなければ永遠が手に入らないことを、彼女は誰よりも知っていたのだ。私はようやく全てを理解するに至った。
……今なら、彼女のしようとしていることが解る。
彼女が自らの命をイベルダルに捧げた本当の理由も、彼を探していた理由も、最終兵器の花に手を伸ばして命を焼き焦がすような真似をしたその動機も、全て、全て解っている。

シェリー、貴方は自らの命をもってして、フラダリさんのやり方を永遠に糾弾し続けるつもりなのね。
貴方はフラダリさんの望んだ結末に自ら飛び込んで、かつて彼が語った永遠の美しさを体現したその上で、こんな永遠に意味なんてないのだと、彼を責めようとしているのね。
フラダリさんが二度と同じ過ちを犯さないように、貴方は命を犠牲にして彼を止めるつもりでいるのよね」

私の涙は止まない。

「貴方が、貴方を取り巻く全ての人との連絡を絶っていたのは、そうして忽然と姿を消して、シェリーという存在を彼等の中で素晴らしいままに、永遠に残しておくためだったのね。
そうして自らを死へと緩慢に誘って、カロスを救ったその栄光と、貴方に向けられた賞賛の声を永遠のものにしようとしたのよね」

彼女は答えない。

「あの花に触れ続けていたのは、イベルダルを犯人にしないためだったのね。糾弾されるべきはイベルダルではなくあの花だと、貴方はその命で訴えるつもりだったのよね。
私を羨ましく思っていた貴方が、私が取った手段を全て凌駕する勢いで全てのことを成し遂げたのは、そうして私に抱いていた劣等感を払拭するためだったのよね」

私達の想いは交わらない。

シェリー、貴方はとても負けず嫌いで欲張りで、それでいてとても、とても優しい人なのね」

「……」

「でも、貴方が命を投げ出す必要なんて何処にもなかった……!」

そう、どんなに真相を突き止めても、結局は此処へ戻ってくるのだ。
彼女がこんな、緩慢な死に飛び込まなければならなかった理由など、何処にもない。
カロスは、フラダリさんは、確かに彼女を苦しめたかもしれないけれど、それは彼女を死に至らしめるものでは決してない。
理由があるとすれば、それは「彼女が死にたかったから」という、その一言に尽きるのだ。
彼女は死のうとしていた。私は彼女を止められなかった。もう全てが手遅れだったのだ。

「違うよ、シア。私でなければいけなかったの」

しかしシェリーは優しく微笑んで、小さな優しい傲慢を口にするのだ。

「だってフラダリさんを責められるのは私だけだから。彼は私を失えば、きっと泣いてくれる筈だから」

恍惚とした表情で紡がれた傲慢を、どうして私が否定することができただろう。
私はどうすることもできなかった。私はどこまでも無力だった。

今からでも彼女を医療機関に閉じ込めて、その命を一日でも永らえさせるために何かしらの措置を施すべきだったのかもしれない。
それができるのはきっと、今のシェリーを理解している私だけだ。
けれどそんな風に彼女の自由を、尊厳を、意志を奪うことが、本当に彼女のためになるのか、私には判断ができなかった。
それにそんなことをすれば、彼女はそれこそ直ぐにでも命を絶ってしまいそうに見えた。その鉛色の目にはそうした危うさが漂っていたのだ。

どのみち、全てが手遅れだったのだ。私は彼女が命を投げ出すその瞬間に駆けつけることができなかった。
ようやく連絡が取れて会うことの叶った今となっては、もう私ができることなど何もなかったのだ。
彼女の命は、イベルダルとあの花によってすり減らされていた。一体、あと何年生きられるのか、私には解らない。
そうした緩慢な自殺を選んだ彼女の心理を理解することはできても、共鳴してあげることはどうしてもできない。

彼女は死のうとしていた。私は彼女を止められなかった。それが全てだったのだ。……でも、それでも。

シェリー、お願い、死なないで……」

「……シア

「死は大きすぎる理なのよ。誰も抗うことができないの。シェリーが後悔しても、その結果は変わらない。二度と戻れないの。だから絶対に踏み越えてはいけなかったんだよ。
疲れたのなら、休めばよかったんだよ。私はシェリーが生きてくれているだけでよかったの。でも死んでしまったら、もう疲れることも休むことも、生きることもできないんだよ」

今、ここでシェリーがたった一言「助けて」と言ってくれたなら、「死にたくない」と縋ってくれたなら、私は全てを放り出して、彼女を救うために足掻くことができるのに。
これが報告ではなく相談だったなら、私は私の周りにいる全ての人に助力を求めて、彼女の命を少しでも長く留めるための手段を探し回ることができるのに。
彼女はそれすらも許してくれない。彼女は私に手を伸べてくれない。

「お願い、生きたいって言って、シェリー……」

彼女は答えない。


2015.3.31

© 2024 雨袱紗