0.9(C)

この世界はきっと、彼女が生きるには息苦しすぎたのだ。

「今日は来てくれてありがとう」

私は泣き腫らした目でシェリーに訴え続けていた。彼女も私の懇願に気付いている筈なのに、それを徹底的に拒み続けた。
時計の針が何度回ったか忘れるくらいの時間を重ねた後で、私達はようやく冷えたコーヒーを飲み干してカフェを出た。
イッシュの言語で話していたから内容は解らないとはいえ、そのうちの一人は目を真っ赤にして泣き腫らしているのだ。
訝しまれて当然だと思っていたけれど、ウエイターは何も聞かずに笑顔で会計をしてくれた。代金はシェリーが「いつもおごってもらっているから」と払ってくれた。

彼女は直ぐにでも踵を返して立ち去ろうとしている。
何か、何か言わなければ。彼女を此処へ引き止めるべき言葉を、彼女を生に引き止めるべき声音を、私は必死になって探していた。けれどどうしても見つけられなかった。
彼女が私に歪んだ羨望を抱き続けていたというその事実も、私に少なからずショックを与えていたのだろう。
そんな羨望を抱く必要などなかったのに。私はどこまでも弱くて無力で、大切な親友を助けることすらできない存在なのに。

「星が綺麗ね、シア

「ほら、見て」と、まるでその目に映る全てを愛おしむようなその眼差しに、耐えられなくなって私はシェリーに駆け寄り、抱き締めた。
星を見る余裕などある筈がなかった。
彼女は驚きに小さな悲鳴を上げたけれど、その後で優しく笑って私の背中に手を添えて、あやすようにそっと力を込めてくれた。

「どうしたの、シア。私みたいじゃない」

いつか、私がシェリーに紡いだ言葉をそのまま引き取って彼女は紡ぐ。
ああ、そうだ。いつかもこうやって私は彼女に抱き締めてもらっていた。まだ彼女の名前も知らなかったあの時の、彼女の手の温もりを、私は今でも覚えている。
忘れない。大切な親友との遣り取りを、忘れる筈がない。そして、それは彼女も同じだったのだと、確信した瞬間、またしても涙が止まらなくなる。

シェリー、この世界が嫌いだった?」

私は彼女の腕の中で問い掛ける。

「カロスの人も、旅も、ポケモンも、フラダリさんも、嫌いだった?私のことも……」

ずっと、嫌いだった?
そう尋ねようとして、しかしそれは音の形を取ってはくれなかった。嗚咽が言葉をさらい、私は息苦しさに喘ぐように息をした。
泣き疲れていた。けれど屈する訳にはいかなかった。どんな悲しみが私を襲ったとして、私がどんなに苦しんだとして、それでも、私は生きている。
死んでしまったら、私のようにみっともなく泣くことも、息苦しさに喘ぐこともできないのだ。彼女が選んだのはそうした世界だった。

シェリーは私を抱き締めていた手を緩めた。
彼女の両手がそっと私の肩を掴む。目の前の鉛色の目は、夜の星を映して僅かに光を宿していた。

「ううん、違う。大好きよ。とても愛している」

その後に続く言葉を、きっと私だけが解っている。
臆病で卑屈で、それでいてとても負けず嫌いで強情で欲張りで、けれど誰よりも優しい彼女のことを、私だけが知っている。


「だから私は、これ以上生きられない」


ほら、ね。やはり彼女は生きることを選んではくれない。
私は笑った。シェリーは驚いたようにその目を見開いた。鉛色の空が星を吸い込むようにキラキラと輝いた。そんな彼女の目を久し振りに見たような気がする。
どうしたの、と小さく首を傾げて尋ねるシェリーに、私は泣き腫らしたみっともない顔のままで、最高にぎこちない笑顔を作ってみせた。

「貴方が私を嫌っていたとしても、私はシェリーのことが大好きだよ」

「!」

「だからお願い。さいごまで、貴方の親友でいさせて……」

私の声は震えていたけれど、もう躊躇わなかった。
シアは何があっても、私の親友でいてくれるのよね。』
シェリーが告白をもってして私を親友だと言うのなら、私は懇願をもってしてその言葉に応えよう。
私は私の親友のために、できることを最後までやってみせよう。

シェリーは私の目元に手を伸べて、人差し指でそっと涙を拭った。
彼女の手はとても冷たい。けれどそれは確かに生きている人の温度だった。彼女は生きている。此処にいる。

「ありがとう、そのお願いなら叶えてあげられる」

彼女はふわりと微笑み、踵を返して駆け出した。
私はその背中に声を投げる。

「またね、シェリー!」

しかし彼女は立ち止まらない。振り返らない。私は追いかけることもできなかった。
アスファルトに足が縫い付けられたかのように、その一歩が鉛のように重く感じたのだ。
これが最後だったのかもしれない。そう思えば思う程に涙が止まらなかった。どうして、どうしてと、誰かを何かを責める言葉が止まらなかった。
けれど、誰も悪くないのだ。誰も、何も、間違ってなどいない。世界は何もおかしくなどなかった。ただ彼女が死にたいと望んでいた。それだけのことだったのだ。

私が諦めかけたその時、静かなミアレシティの夜を、彼女の澄んだソプラノが切り裂いた。

「またね、シア!」

顔を上げれば、通りの遥か向こうでシェリーが大きく手を振っていた。私は思わず「またね!」ともう一度叫び、手を振り返していた。
やがてその手がすっと下ろされ、華奢な彼女の姿がミアレのビルに溶け込んだその瞬間、私はアスファルトに崩れ落ち、声を上げて泣いた。
それは紛れもない安堵だった。また会えるという確信を私は抱いていた。
彼女は再会の約束を破るような人ではなかった。それは強い信頼に似たそれ以上の「何か」だった。
大丈夫、大丈夫。シェリーはまた私に会ってくれる。私はさいごまで彼女の親友でいられる。

私はそう言い聞かせながら、それでもどうしようもなく悲しくて泣き続けていた。
遠くで私のものではない慟哭を聞いた気がしたけれど、きっとそれは夜風がくれた幻だったのだろう。

死にたい人というのは、一様にして死にたい訳ではなく、生からの逃避として死ぬことを選ばざるを得なくなっているのだと聞いたことがある。
けれどシェリーの場合、それは当て嵌まらなかったように思われた。彼女は逃げるために死ぬのでは決してなかった。
きっと彼女にとっての「死」は、彼女の存在を表現するための手段に過ぎないのだ。

彼女の望んだものは、欲張りな私から見てもとても欲深いものだった。
カロスの救世主として湛えられた自分を、数多の賞賛の声と栄光を、永遠のものとしたかった。
フラダリさんの犯した罪を、彼が最も苦しむ方法で糾弾し、叱責したかった。
自らがその存在を永遠のものとすることで、そんなものに意味などないのだと、ただ悲しいだけなのだと、その身をもってして彼に訴えたかった。
欲張りな私を凌駕する欲張りを行使して、自分の欲しかった全てを手に入れたかった。私がそうしたように、過ぎる一瞬を永遠に留めておきたかった。
彼女は彼女の愛した全ての人に愛されたかった。

それらを全て叶えるための最上の手段として、「死」は彼女に選ばれたのだ。

彼女は、彼女を取り巻く全ての人との連絡を完全に絶つだろう。
ポケモン図鑑を託してくれた博士とも、引っ越した先のお隣に住んでいた男の子とも、知り合った友達とも、今まで彼女を育てた家族とさえも、その関係を切ってしまうだろう。
必要であるならば名前さえも変えて、自らの存在を完全に殺すだろう。
シェリー」は、いなくなってしまったのだ。
忽然と消えてしまったカロスの救世主は、彼女を取り巻く全ての人に悲しみと絶望を残し、その姿を永遠のものとしたのだ。
ならば私もそれに従おう。私の親友が取ったその選択を、さいごまで見届けよう。

彼女はとても欲張りな人間だった。それは自らの命を犠牲とした、あまりにも崇高で残酷な欲張りだった。
けれどそうした欲張り以上に、彼女はきっと、疲れ切っていたのだのだと思う。
彼女はとても優しい人だった。他者の気持ちを推し量ることに長けていた彼女は、この世界に蔓延する数多の思いを背負いきれなくなったのだ。
息をするように、彼女は人の顔色を読んでいた。本来なら彼女が背負う必要のないものまで、彼女は抱え、背負い、その重さに苦しんでいた。

彼女は世界を、恐れていた。
この世界は、彼女が生きるには息苦しすぎたのだ。

「それでも、生きていてほしかったなあ……」

その言葉を星の数ほどに紡ぎ、海のかさほどの涙を降らした頃、その日は無慈悲にもやって来てしまった。
奇跡など、起こる筈がなかった。


2015.3.31
confession-告白(仏語)

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