18:絶望は意味に溶ける

次の月の同じ日に、またしてもあの手紙がカフェの扉に貼られていた。
淡いオレンジ色で、端に手描きで金木犀の小さな花のマークが記されたその封筒の中身は、62通目の手紙として、再びフラダリの元へとやって来たのだ。
『元気にしていますか?』『ご飯はちゃんと食べていますか?』『子供達とは仲良くしていますか?』
そうした質問から始まり、後は他愛もない話が数ページに渡って書き連ねられていた。
まるで彼女といつもの世間話をしているかのような、柔らかで穏やかな言葉がそこには並んでいた。

けれどフラダリは知っている。彼女がそうした他愛もない話をカロスの言語で書くことに、どれ程の労力を使っていたのかを。
この5年間で、とても流暢にカロスの言葉を使うようになっていた彼女だが、それでもその言語を文字にして書き記すのは至難の業だったらしい。
誤字や脱字が多く見受けられるその「世間話」を、しかしフラダリは穏やかな笑みで読み通せるようになっていた。

「彼女」がこうして、幽霊の類になってまで自分に手紙を送ってくれるなら、自分はそれを喜んで受け取ってみせよう。
彼女の他愛もない世間話に相槌を打ってみせよう。記された下手な冗談に笑ってみせよう。
そう思えるだけの余裕を、フラダリはこのひと月で少しずつ手にしていたのだ。それは失ったものを受け入れる過程に似ていた。

その手紙は彼女の予告通り、次の月も、そのまた次の月にもやってきた。
まさか、本当に25年間、この手紙が届き続けるのだろうか。フラダリは信じられない思いだった。
『貴方が約束を破ることのないように、私から1か月に1通、手紙を送ります。約束の30年がやって来るまで、ずっと送ります。』
彼女の61通目の手紙には確かにそう書かれていたが、その言葉をまだ真に受けることができずにいたのだ。

「おじさん、最近その手紙をよく読んでいるけれど、誰からなの?」

カフェにやって来た子供達は、フラダリの手に握られているその手紙に興味を示し、そんなことを尋ねた。
彼は肩を竦めて悪戯っぽく微笑んだ後で、決まってこう告げるようにしていた。

「わたしのことを心配している幽霊が、1か月に一度、こうして手紙を書いてくれるのだよ」

その言葉に怖がる子供もいたが、子供の大半はこの言葉を信じて、幽霊についてしきりに聞きたがったりする。大人びた子供は嘘だ、とからかい混じりにそう言って笑うだけだ。
それでよかった。その言葉は寧ろフラダリ自身のために紡がれたものであったからだ。
フラダリは長い時間を掛けて、その不思議な幽霊の存在を信じ始めていたのだ。

「ねえ、幽霊にお返事を書かないの?」

そんな日がしばらく続いた頃、一人の女の子がそんなことを言った。
フラダリはその言葉に驚き、更に「返事を書く」という発想が今の今まで出て来なかった自分自身にも驚いていた。
周りの子供達は彼女の発言に上乗せするように「書こうよ!」「僕も書きたい!」と声を上げ始め、フラダリは彼等を宥めてから考え込む。

「彼女」に返事を出すという発想がそもそもなかったのは、もう彼女がいなくなってしまったことをフラダリが知っていたからである。
彼女はいない。その事実は動かない。フラダリの目の前で彼女は息を止め、骨と灰だけになってしまったのだ。フラダリはあの瞬間を、あの姿を覚えていた。
けれどそんな彼女はこうして手紙を送って来る。手紙を送れるのなら、こちらから送った手紙を受け取ることだってできるのかもしれない。
何より、キラキラと輝く目でフラダリを見上げる彼等の期待を裏切りたくはなかった。フラダリはしばらくの思案の後に、幽霊への返信を書くことを決意したのだ。

「では書こう。紙はこれで構わないか?」

しかしフラダリが見せた何の変哲もない無地の便箋に、子供達からブーイングが飛ぶ。特に女の子の勢いが凄まじい。

「駄目だよ、そんな地味な紙!もっと可愛いのを買おうよ」

「そうよ、ラブレターなんだから、ハートの可愛い便箋で書かないと」

可愛いものやお洒落に興味を持ち始めて間もない女の子達の目は輝いている。
男の子には見ることのできないパワー溢れるその主張を、きっと「彼女」が聞けば楽しそうに笑うだろう。
フラダリはそれらの言葉に軽く相槌を打ちながら、しかし一つの単語に苦笑せざるを得なかった。
この小さな女の子は、手紙にはラブレターしかないのだと思っているのだろうか。

「ラブレターではないのだよ。ただ返事を書くだけだから、普通の手紙に過ぎない」

「そんなことないわ。だっておじさん、その幽霊のことが好きなんでしょう?」

その言葉にフラダリは息を飲む。
果たして自分はたった一度でも、そうしたことをこの子供達に話したことがあったのだろうか?
フラダリは自身の記憶を探ったが、どうにもそうした言葉は見つからなかった。

「どうしてそう思ったのかね?」

しかしその質問に女の子は顔色を変え、僅かに俯いてしまった。
不安になったフラダリと沈黙したままの少女をフォローするかのように、少しばかり大人びた14歳の少年が、皆に便箋を買いに行こうと促した。
フラダリは適当な金額を渡して「君達がいいと思ったものを買ってきてくれ」と告げる。
喜び勇んで駆け出した彼等を見送った彼は、しかし先程の女の子の表情を思い出し、首を捻った。

やがて帰って来た子供達は、フラダリにカラフルな便箋の数々を掲げてみせた。
空の写真が背景に印刷されたもの、ハートが散りばめられた可愛らしいもの、チューリップの絵が描かれたものなど、渡した金額でできるだけ多くの便箋を購入してきた。
好きな便箋で書きなさいと告げてそれらの便箋と鉛筆を渡せば、彼等は一斉にカフェの椅子に座ってペンを手に取り、黙々と書き始めた。
ポケモンバトルのタイプ相性を勉強する時との差にフラダリは思わず笑ってしまう。子供達をここまでさせる「幽霊」の存在に、フラダリは礼を言いたくなった。

フラダリは余っていた便箋の中からシンプルなものを選び、彼女への手紙を書き始めた。
書くことなど何も決まっていなかった筈なのに、子供達と同じようにペンを持ってその紙に向き合った途端、まるで泉のように次々と言葉が浮かんできたのだ。
ああ、自分は彼女に伝えたいことがこんなにもあったらしい。
フラダリはペンを止めて笑った。その笑顔を子供達が見ていたことに、彼は気付いていなかったのだけれど。

書き終えた手紙を、彼等はフラダリのところへと持って来た。
2、3行しか書いていない子、びっしりと書き連ねている子、自分が描いた絵を同封してくれと申し出る子、様々だった。
「読まないでね!」と念を押して、子供達は一人、また一人と帰っていく。フラダリが自分の手紙を書き終えた頃には、もう殆どの子供がいなくなっていた。
最後に残ったのはあの女の子だった。「幽霊さん、読んでくれるかな?」と不安気に尋ねる彼女の頭をフラダリはそっと撫でて、微笑む。

「ああ、きっと」

「うん。それじゃあお願いね、おじさん」

彼女は2枚に渡る手紙をフラダリに手渡し、カフェを飛び出していった。
彼は徐にその手紙へと視線を落とす。そして、息を飲む。


シアお姉ちゃんへ』


目の前が真っ白になった。
「読まないでね」という子供達の制止を忘れ、彼は夢中で大量の手紙を捲った。
誰もが「彼女」に宛てた名前を綴っていた。彼女がこのカフェで偽名として名乗り続けてきた、彼女の親友の名前がそこに刻まれていた。
シアへ』『シアおねえちゃんへ』『ユーレイのシアお姉ちゃんへ』『幽霊になって帰ってきてくれたシアへ』
ぐらりと視界が揺れた。久し振りの涙だった。フラダリは無人になったカフェで一人、嗚咽を噛み殺した。

『ユーレイになってまでおじさんに手紙を書くなんて、シアお姉ちゃんは本当におじさんのことが大好きなのね。』
『おじさんに手紙を書いてくれてありがとう。手紙を読んでいるときのおじさんはとてもうれしそうにわらっているんだ。ぼくにもお返事を書いてね。まっているから。』
『おじさんは隠しているけれど、でも僕等は知っているよ。幽霊の正体も、幽霊になってしまったシアがもう戻ってこないことも。』

彼等は全て、全て解っていたのだ。
「彼女」が既にいなくなってしまったことを。もう此処に戻ってこないことを。
解っていて、フラダリの前では決して口にしなかったのだ。彼の前で泣くことをしなかったのだ。
誰よりも悲しんでいる筈のフラダリが、しかし子供達の前ではその悲しみを見せることなく微笑んでいるから。誰よりも泣きたい筈の彼が、彼等の前では決して泣かないから。

『おじさんが、「25年たてばシアがむかえに来てくれる」って言ったんだ。』

その手紙は「彼女」がいなくなった2週間後に、「シアがいないね」とフラダリに呟いたあの少年のものだった。
フラダリはその一文に息を飲む。そして続きを見て、堪え切れなかった。

『おじさんはシアが大好きで、シアもおじさんが大好きだから、きっと今すぐにでも会いたいよね。
でも、まだ待って。まだ、おじさんを連れて行かないで。ぼくもみんなも、おじさんのことが大好きなんだ。』

この身が引き裂かれそうな痛みというものがあるとすれば、それはきっとこの涙に似ているのだろう。
フラダリはもう嗚咽を噛み殺すことを忘れていた。
子供達の手紙に綴られた言葉はあまりにも真っ直ぐで、それでいてとても繊細で正直で、優しかった。
子供達の言葉は、フラダリをこのカフェに繋ぎとめる楔となった。それは楔と呼ぶにはあまりにも優しいそれで、だからこそ彼はその言葉に従うことができたのだ。

わたしはまだ、死ねない。
この子供達が大人になるまで、生きたい。

それは久しく忘れていた感情だった。この喪失の絶望に意味があったのだと、フラダリはようやく理解するに至ったのだ。


2015.4.2

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