2:恩恵

「私と生きてくれませんか」

男が目を開けると、見慣れた天井が視界を覆っていた。見間違えようもない、フラダリカフェの赤い天井だった。
その視界に割って入ってきたその少女は、フラダリの名前を呼ぶことも安堵の溜め息を吐くこともせず、ただそれだけを唐突に紡いだのだ。
男はその言葉に怪訝な表情を示そうとして、しかし別の痛みに顔をしかめる。
体は鉛のように重く、男は時間を掛けてゆっくりと上体を起こした。その姿勢を保つことすら、強烈な倦怠感が邪魔をした。

「あ、まだ無理に動かない方がいいですよ」

「……」

「よかった、顔色もだいぶいいですね。取り敢えず何か胃に入れた方がいいと思います。
お口に合うかどうかは解りませんが、簡単なものなら作れると思います。カフェのキッチンをお借りしますね。……えっと、その、何が好きですか?」

そう尋ねる少女に男は面食らった。
その一番の理由は、寡黙で臆病である筈のその少女が、自分の前で饒舌に言葉を重ねていたからだろう。

随分とこちらの言葉に慣れたものだ。男は初めて少女と出会った時のことを思い出していた。
博士の研究所で偶然にも顔を合わせた時、彼女は何も言わずに、怯えたような目でじっとこちらを見ていた。
自分の纏う雰囲気が相手に威圧感を与えるものだということは自負していたが、あまりにも露骨なその怯えに困惑した。

『彼女はこちらの言葉に慣れていないから、きっと君の難しい話が解らなかったんだろうね。』
博士にそう説明されてからはその誤解も解けた。
しかしポケモントレーナーとしての素質を、この少女は十分に備えていた。カロスの町に点在するジムを制覇し、メガシンカを使いこなした。
そんな優秀な少女に、それでいてとても臆病な少女に、自分の考えを易しい言葉で伝えるのは、とても骨の折れる作業だったように記憶している。

「あの、まだ痛みますか」

目の前の少女は、あの頃に比べると驚く程に流暢に喋っていた。
しかし言葉を選ぶ時に視線を泳がせ、喉元を手で抑える癖は変わっていない。そこにあの臆病な少女の面影を見ることができた。

「……」

「カフェのシャッターを勝手に下ろしておきました。内側から鍵を掛けていますから、誰も此処には入って来ませんよ」

男はゆっくりと視線を泳がせ、フレア団のアジトに続くこのカフェの空間を確認する。
テーブルや椅子の類は片付けられ、端に固めて寄せられている。アジトに続く扉を隠すための食器棚もなくなっていた。
おそらくはカロスの警察が調査に入ったのだろう。警察の支部名が書かれた書類の束が床に落ちていた。

「あの、何か聞きたいことはありますか」

そんな空間の中央に男と少女はいた。この華奢な体格の少女が彼を自力で運べるとはとても思えない。おそらく彼女のポケモンに手伝ってもらったのだろう。
そんなことを思いながら、男はまだ力の入らない目で少女を見据える。
……痩せている、と思った。元々華奢だった四肢は更に細くなり、指はほんの少し力を加えれば折れてしまいそうだ。
何があったのか、そもそもあれからどれくらいの月日が流れているのか、そして何故彼女が此処にいるのか。
知りたいことは尽きなかったが、男の乾いた声はたった一言だけを紡いだ。

「出て行きなさい」

驚きと狼狽とを交えたあの目が自分を射るのだと思っていた。薄く涙の膜を浮かべ、慌てたように「ごめんなさい」と謝罪の言葉を紡ぐのだと確信していた。
しかし目の前の少女は、恐ろしい程に穏やかに笑う。

「嫌です」

そのソプラノの声音は男の鼓膜に突き刺さった。
怒鳴っている訳でもないその静かなたった一言は、しかし男の知る少女がいなくなってしまっていることを何よりも明確に示していた。
ここに、フラダリの知るあの少女はいない。寡黙で臆病な目をした少女はいない。彼女は悉く変わってしまった。
その原因が自分にあるとは思いたくなかったが、しかしそう思うことでしか合点がいかない。
何故、と思わず紡げば、彼女はその語気をやや強めて続けた。

「貴方の思うように全てが動くと、本気で思っているんですか、フラダリさん」

怒っている。男はそれを感じ取った。この臆病な少女が、自分に向けて怒りを露わにしている。
それは確かな驚きだった。それを皮切りに少女の目から溢れ出したものに更に驚いた。

「知らない」

「……」

「貴方の言うことなんて知らない。私がいたいからいるんです。貴方の意見なんて関係ない。
世界は様々なエゴが混じり合うものだって、貴方が教えてくれたんですよ?」

その言葉に、男の記憶はあの瞬間に引き戻される。
あの日、男がセキタイタウンの最終兵器を起動させるか否かの選択を、この少女に任せたあの日。
少女は兵器の起動とは異なる方のスイッチを押した。けれど団員によりその兵器は地上に現れることになったのだ。
最終兵器を止めたいと望んだ少女が正解のスイッチを選んだにもかかわらず、団員はその選択をそれ以上のエゴで捻じ伏せた。
少女がそのエゴを止められなかったことへの自責の念を抱き、セキタイタウンにやって来ることは必至であった。

そこまで回想して男は息を飲む。
そうだ、自分はこの少女にチャンスを与えた。そしてその通りに少女は動いた。
彼女は伝説のポケモンに選ばれて、そして、自分は。

「フラダリさん、貴方は私に負けたんです。だから貴方は私の言うことを聞く義務があるんです。何故ならそれが貴方の理論だから」

だから少女は自分を助けたというのだろうか。男を自分の配下に置くためだけに、彼をずっとあの穴の中で探していたというのだろうか。
あの空間から、彼女はどうやって自分を見つけ出したのだろうか。探し出して、そしてこれから自分をどうしようというのだろうか。
疑問ばかりが浮上する。彼女が何を考えているのか全く読めない。

「何が望みだ、シェリー

少女はその言葉にはっと顔を上げた。
涙に濡れたその顔をぎこちなく動かして、そっと微笑む。

「二つあります」

その折れそうに細い指が一本だけ立てられ、男の前にすっと伸びる。

「ちゃんと元気になってください。貴方は死ぬつもりだったのかもしれません。でも私はそれを許しません。
そのために私ができることは何でもします。だから貴方はそれを受け入れてください。これが一つ目です」

二つ目ですが、と彼女は紡ぐ。中指がそっと男に迫る。

「私と生きてください」

「……君と?」

「永遠に、なんて無茶は言いません。30年でいいです。何をしてもらうかはまだ決めていないけれど、でも、私と一緒にいてください」

30年。差し出されたその時間は、男にはとても長く感じられた。
自分が今まで生きてきた時間とほぼ同じ単位のそれを、彼女は望んでいるのだと理解するのに少しばかり時間を要した。
何故この少女はそんなことを言うのだろう。何故30年という長い時間を提示したのだろう。

「それで、君は満足するのか」

流暢に言葉を紡ぎながらもやはり何処か怯えた目をしていた少女が、男のその言葉に今度こそぱっと微笑む。

「はい、十分に」

「では、言われた通りにしよう。不本意だが、助けてもらった恩もある」

男は小さく溜め息をついて少女の懇願を受け入れた。
その発言の何処が気に障ったのかは解らないが、少女は再びその顔を綻ばせて泣きそうに笑った。


2013.10.23
2015.3.20(修正)

© 2024 雨袱紗