「プラターヌ博士に御用ですか?」
ミアレシティのポケモン研究所に足を踏み入れるや否や、ロビーにいた一人の女性が笑顔で駆け寄って来た。
この女性と、フラダリは確か5年前にも少しだけ会話をしていた。「彼女」とはその時に出会ったのだ。
もっとも、フラダリと彼女はそれ以前にも、メイスイタウンで一度だけ会っていたのだが。
しかしこの女性が、変わってしまったフラダリに気付く筈もなく、あたかも初対面であるかのように自分に話し掛けてくる姿が少しだけおかしくて、微笑む。
もう自分の名前を呼ぶ人間はいなくなってしまったのだと、その自己の喪失を改めて噛み締める。
けれど名前の喪失はフラダリをある意味自由にもしたのだ。彼は新しい生活を手に入れ始めていた。
その一つが、あのカフェを中心とした慈善活動であり、今日はその件で博士に用があったのだ。
……もっとも、それは建前に過ぎない。
本当の目的は、「フラダリ」として彼に会うことだった。
『プラターヌ博士にも、顔を見せてあげてください。きっと喜びます。』
何故ならそれが「彼女」の願いだったからだ。60通目の手紙に書かれたその言葉を、遵守する時がやって来たのだ。
「ええ、彼は今、何処に?」
「3階の書斎にいますが、アポイントメントは取っていらっしゃいますか?」
「申し訳ない。急用だったもので」
息をするように取り繕う。女性はその言葉を信じたようで、フラダリをすんなりとエレベーターに案内してくれた。
小さなエレベーターが小さく音を立てながら3階へと上がっていく。フラダリは少しだけ恐れていた。
追い払われるだろうか。叱責されるだろうか。困ったように笑って他人の振りをされるかもしれない。しかしそれも当然のことだと思い始めていた。
あの博士は「彼女」のことを、娘のように大切に思っていたのだから。
追い払われたり、怒鳴られたりした時には、潔くこの場を去ろう。フラダリ自身に最早、未練などなかったのだ。
この「フラダリ」としての訪問も、「彼女」が望んだことだからこうして為しているに過ぎなかったのだ。
エレベーターが開き、フラダリは顔を上げる。
部屋の片隅で見慣れた白衣を着た男性が、大量の本を抱えて立ち上がろうとしていた。
彼はフラダリの方を見ることもなく、しかし来客の存在には気付いていたようで、あの頃と変わらない明るい声がこの空間を揺らした。
「やー。すみません、散らかっていて。それで、どうしました?急用ということだったけれど、ボクに何か連絡ですか?」
「……いいえ、貴方に会いに来たのですよ、プラターヌ博士」
その言葉に、プラターヌは持っていた分厚い図鑑をバサバサと取り落とした。足の甲に直撃したその質量に、彼は悲鳴を上げてうずくまる。
フラダリは慌てて駆け寄り、その本を拾おうとしたが、その腕が物凄い力で掴まれた。
本を足に落とした痛みに濡れた目は、しかしやって来た男の正体など解っているかのようだった。
ぎこちなく笑みの形を取ったその顔は、とても頼りなげに揺れていたのだから。
「ああ、やっと君は前に進めるようになったんだね、フラダリさん」
骨に響きそうな程に強く握られたその腕に、フラダリは思わず視線を落とす。
その腕を掴んだ彼の指先は、強い力を掛け過ぎているせいで白くなっていた。この人も苦しんでいたのだと、当然のことをフラダリはようやく噛み締めるに至ったのだ。
「フラダリさん、君だけかい?」
「……」
「あの子は、」
そう紡いだ瞬間の、フラダリの僅かな表情の変化をプラターヌは見逃さなかった。それで全てを察したかのように、彼の口から小さな溜め息が零れた。
ああ、そうか。そうだよね。ごめんね。そう繰り返す彼の声音は震えていた。
「ごめんよ、少し時間をくれないか」
プラターヌはそう言って、カーペットに膝をついたままに沈黙した。空気に溶けてしまいそうな程の小さな嗚咽がフラダリの鼓膜を揺らした。
その様子が、1か月ほど前のフラダリと否応がなしに重なって、フラダリは思わず目を逸らした。
目をつぶれば、オレンジ色の鮮やかな髪をした少女が、61通目の手紙を持って笑っていた。フラダリは心の中で「彼女」に問い掛ける。
シェリー、君は本当にこんな結末を望んでいたのか。
*
プラターヌは5年振りの来客を歓迎した。
フラダリが好きだったエスプレッソを用意し、自分はカプチーノを作って椅子を引いた。彼にもソファを勧めてから、少しだけ赤くなったその目を細めて微笑む。
「フラダリさん、ボクはずっと前から、君とシェリーが生きていることを知っていたんだ」
その告白にフラダリは驚きのあまり、エスプレッソを取ろうと伸ばした手を宙でぴたりと止めてしまった。
まさか、と思う。それならばどうして、自分や「彼女」に話し掛けなかったのだろう。どうして彼女の家族に連絡をしなかったのだろう。
泉が沸くように次々と浮かぶ疑問を、しかしプラターヌは笑顔で一気に答える。
「名前だよ。君とシェリーは名前を変えて暮らしていただろう?姿も見に纏うものも全て変えて、あのカフェでひっそりと過ごしていた。
フラダリさんとシェリーはもういないのだと、君達の姿と名前が何よりも雄弁に語っていた。だからボクは誰にも言わなかったし、何もしなかった」
フラダリと「彼女」の生活は、プラターヌがみすみす見ない振りをしていたことにより成り立っていたのだと、今になってようやく気付かされたのだ。
彼は全てを捨てて新しく生き始めた二人をそっと尊重してくれていたのだ。フラダリは今更それを知る。
そして「彼女」にはそれを知る術がもう、ない。
「彼女は自ら死を選んだ」
フラダリの告白は、この空間を時が止まったかのように静まり返らせた。
「彼女はイベルダルに命を捧げ、更にあの花に自ら触れ続けた」
膝の上に置かれた彼の両手が、その事実を噛み締めるように強く、強く握り締められた。
つい先日、フラダリ自身もその真相を初めて知ったのだ。少女はAZに自らの命を削ったものの正体を告白していた。
正確にはAZが「言い当てた」ようなのだが、それでも同じことだった。彼が気付いたそれに、フラダリは気付くことができなかった。
あんなにも近くにいながら、「彼女」の何もかもを理解することができなかった。
その事実はフラダリの心を真綿のように締め上げていた。
『私は貴方に幾つか隠し事をしています。』
彼女の「隠し事」はこんなにも残酷だったのだ。フラダリはそれを見抜くことができなかった。
その驚愕と絶望は、フラダリに強すぎる自責の念を抱かせるに十分な威力を持っていたのだ。
「わたしは何も知らなかった。わたしは彼女の、シェリーのことを何も解っていなかった」
「いいんだ、もういい。……もういいから、だからそんな顔をしないで」
「プラターヌ博士、わたしを責めてください。わたしは何もできなかったんです」
「それは違う!」
勢いよく叩かれたテーブルが悲鳴を上げる。フラダリは息を飲む。
テーブルの向かいに座っていた彼は、フラダリを鋭い眼差しで見据えていた。鋭い刃のようなその視線は、しかし糾弾と叱責の色を含んではいなかったのだ。
プラターヌはその僅かに青を宿した目に、言い聞かせるように紡ぐ。
「フラダリさん、君は解っていない。君はシェリーの何を見ていたんだ。
ボクがカフェの扉から覗いた時の彼女は、ボクが今まで見たことの無い顔をしていた。彼女はとても楽しそうに笑っていた。その目は確かに君を見ていたんだ!」
長い付き合いであったプラターヌが、このように声を荒げて何かを訴えて来たことは未だかつてなかった。
それ故にその言葉は確かな重さと鋭さでフラダリの心臓を貫いたのだ。
そしてフラダリは、この5年間の彼女を思う。
……そうだ、彼女は笑っていたのではなかったか。
旅をしていた時には何かに怯えているような顔しか見せず、たまにふわりと安心したように微笑む程度だった彼女が、この5年間は驚く程に表情豊かになっていた。
彼女は笑っていた。泣くこともあったし、静かに憤ることもあった。けれどそれらの表情は全て、旅をしていた時の彼女からは見つけられなかったものだった。
わたしは君の拠り所になれていたのだろうか。君の名前を唯一、呼ぶことができる人間がわたしであったことを、君は心から喜んでくれていたのだろうか。
けれどそれならば、何故、君は自ら死を選んでしまったのか。
「……それにね、フラダリさん。ボクは何があっても君を責めるような真似はしないよ。
だって君が止められなかったんだ。シェリーにあんな素敵な笑顔をさせる、君ができなかったんだよ?ボクが止められる筈がないじゃないか」
「……」
「フラダリさん、最後までシェリーと一緒にいてくれてありがとう」
プラターヌはそう言って彼を許すように笑ってみせた。
フラダリはまだ自分を許すことも、彼女の緩慢な自殺を受け入れることもできない。
2015.4.1