16:氷点下の確信

「君から来てくれるとは思わなかったから、びっくりしてしまったよ」

プラターヌは穏やかに微笑んで見せた。
けれどその微笑みの裏に押し殺した激しい感情を、絶望の表情を、彼は決してフラダリに見せないようにしていた。
それはプラターヌよりも近くにいた彼が、プラターヌよりも「彼女」の喪失に心を痛めているからに他ならない。
彼は先ず、フラダリの疲れ切った心に寄り添わなければならなかったのだ。彼女を失ったことを嘆き悲しむのは、それからでも遅くはない気がした。

「彼女の手紙に、貴方の名前があったんです。一度、顔を見せてあげてほしいと。きっと喜ぶからと」

「へえ、そんなことを書いていてくれたのか。そうだよ。またこうして君と話ができてとても嬉しい」

その手紙が全てカロスの言葉で書かれていると知ったら、きっとプラターヌは驚くだろう。フラダリもまた、大量に書かれたカロスの活字に衝撃を受けたのだから。
旅をしている時は寡黙で、殆ど言葉を発しなかった。流暢に紡がれる言葉は、しかしいずれもイッシュの言語だった。
ああ、この少女はまだカロスに溶け込めないのだと、フラダリはいつも思っていたのだ。

そんな少女が、カロスの言語で手紙を書いていた。
誤字が目立つ荒っぽい手紙ではあったけれど、それでも懸命に勉強をしてカロスの言葉を覚えたことが窺えた。
彼女は自分のことを「努力ができない人間」だと言っていた。しかしそれは嘘だったのだ。フラダリの元に届いた大量の手紙がそれを示していた。
ああ、けれどどうしてその努力を、この先もずっと生き続けるということに費やしてくれなかったのだろうか。

「……けれど、ボクがフラダリさんとの再会を喜ぶことが解っていたのに、ボクとシェリーとの再会も同じように喜ぶだろうと、どうして思ってくれなかったんだろうね」

そう零したプラターヌもまた、同じように思っているのだろう。
ちょっとだけ悲しいなあ。彼はぎこちなく笑ってカプチーノをぐいと飲み干した。
まだ時間が経っていないそれは、ともすれば舌を火傷しそうな熱さであった筈だが、プラターヌは躊躇しなかった。
寧ろ火傷を歓迎しているようにも見受けられた。その痛みがあれば少しは紛れる気がしていたのだろう。

「彼女」は人の顔色を窺い、人の心の機微をとても繊細に拾い上げることのできる人物だった。それはともすれば精神を疲弊させてしまうような、常軌を逸した繊細さだった。
彼女は旅をする中で、多くの人と関わっていた。関わり過ぎていた。並の人間ですら疲れを覚えるその旅路は、彼女にどれ程の苦悩と苦痛を与えていたのだろう。
彼女は「旅をしてよかった」と言っていた。けれどそれと同時に「旅に出なければよかった」と思ってしまう程に疲れ果てていた筈なのだ。
そうして、人の心の機微を拾い上げ続けた彼女は、ある日を境に、彼等を完全に拒絶してしまった。「死」はそんな彼女ができ得る最大の選択だったのだろう。

「……わたしとシェリーは名前を変え、改装したあのカフェでポケモントレーナーを支える活動をしていました」

「知っているよ。ボクも何度か前を通っていたからね。それは君の発案かい?」

「いいえ、彼女がしたいと言い出したのです。自分はカロスを旅して変わることができたから、同じように皆にも旅をしてほしいのだと、その手助けをしたいのだと。
わたしはそれに協力しただけだったのですが、まさかこんな風に、彼女のしていた全てを引き継がなければならない日が来るとは思っていなかった」

そんな言葉にプラターヌも苦笑して相槌を打ってくれる。災難だったね、なんて冗談を口にしてくれる。
プラターヌもまた、「彼女」に劣らない繊細な精神を持ち合わせていたのだ。絶望に打ちひしがれるフラダリに、自らの悲しみを押し殺して寄り添おうとする程度には。

「でも、根本は以前に君がしていたことと変わりないじゃないか。ラボの利益で、君も同じようにポケモントレーナーを支援する活動をしていたよね。
ボクは寧ろシェリーが、君のその理念を受け継いであのカフェを始めたように見えたけれど、違ったのかな」

そうだったのだろうか。彼女の思いから始まったように見えたあの活動は、実は彼女がフラダリの意向を組んで申し出たものだったのだろうか。
そんな風に考えたことはなかったため、フラダリはプラターヌの新しい意見に苦笑して相槌を打つ。
ああ、そうだ。人と関わるとはこういうことだった。一人で考えていては一生思いつくことのないような意見が、隣の誰かから不意にやって来ることがある。
人の住む社会とはそうしたものだったのだと、フラダリは改めて思い直していた。

「まあ、ボクはシェリーじゃないから、本当のところは何も解らないんだけど」

「……ええ、わたしにも解りません。彼女のことは、何も」

「でもね、フラダリさん。それは悲しいことじゃないんだ。当たり前のことなんだよ。仮に彼女が此処にいたとして、それがボク達に真実を与えてくれるとは限らないんだ」

彼の不思議な言い回しにフラダリは首を捻り「どういうことですか?」と尋ねてみる。
彼女のことを何も理解することのできないままに彼女を失ったフラダリにしてみれば、此処に彼女が生きていてくれさえすれば何もかもが解決するように思われていたのだ。
けれど、そうではなかった。現にフラダリは「彼女」と5年の歳月を共にしてきたにもかかわらず、彼女のことを何も理解できていなかったのだ。

「人間はとても狡い生き物だからね。息をするように嘘を吐いたり、生きるためには名前さえ隠してみせたり。
真実はきっと、ボク達が言葉のやり取りなんかで受け取れるような生温いものじゃないんだ」

その言葉が、フラダリの頭の中にこだまとして響き続けていた。

「彼女の真実は彼女しか知らない。それでいいんだよ。大事なのは残されたボクや君が、彼女の姿から何を受け取るかだ」

フラダリは思わず目を閉じた。61通目の手紙を持った彼女が穏やかに笑っていた。
彼はその「彼女」の姿に、何を見出すことができるのだろうか。

プラターヌは、フラダリと「彼女」がカフェで続けていた活動に手を貸したいと申し出た。
更にはフラダリがその資金を調達するための仕事も用意した。カロス各地に生息するポケモンの生態調査と、学会に使うプレゼンテーションの資料の作成が主な内容だった。
彼女の喪失に向き合う時間もフラダリには必要だったが、それと同時に、この広い世界でまた一から関係を構築していくことも不可欠であるとプラターヌは思っていた。
その出発点として、ポケモンの生態調査を依頼したのだ。この仕事を経て、彼の世界がまた広がってくれることを願っていたのだ。
資料の作成はフラダリの希望で、あのカフェにいながらにして取り組めるものを用意した。
研究所で働かず、カフェを仕事の拠点としたいと言った彼の申し出を、プラターヌは快く了承した。彼のその申し出に含まれた思いが、痛い程に理解できたからだ。

元々、勤勉で真面目な人物だ。仕事場所は違っていても、研究所の一員として働いてくれることはプラターヌにとっても有難かった。
何より、5年来の友人がこうして訪ねてきてくれたことが本当に嬉しくて、彼は少しはしゃいでいたのかもしれない。
寧ろはしゃいでいなければいけなかったのだ。笑顔で何かを喋っていなければ、重過ぎる絶望に飲まれてしまうような気がしていた。

仕事内容の確認が一通り済んだところで、フラダリは徐に立ち上がった。
「今日はこれで失礼します」と告げて小さく頭を下げたフラダリに、プラターヌは穏やかに微笑む。

「もし君が、彼女の喪失を受け入れることに苦労しているなら、また此処においでよ。一緒に彼女の話をしよう」

「……ですが、」

「いいんだよ、フラダリさん。それにね、ボクも話し相手が欲しいんだ。彼女がもういないって、解っているのに受け入れられないのはボクも同じだから」

フラダリは彼の悲しみに沈黙する。プラターヌが一瞬だけ垣間見せた絶望が、フラダリのそれと重なり、息を飲む。
そして再び、心の中で彼女に問い掛けてしまうのだ。シェリー、これが君の望んだことだったのか、と。

彼女は人の心の機微を読む力に長け過ぎていた。そんな彼女が、彼等が彼女を失ってどれ程悲しみに暮れるかということに思い至らない筈がないのだ。
彼女ならその悲しみを推し量り、思い留まる筈だった。フラダリの知る彼女はそうした、臆病で優しい人間だった。
……では、もしその悲しみこそが、彼女の目的だったとしたら?

「プラターヌ博士、貴方は幽霊を信じますか?」

自らの中に浮かんだ恐ろしい仮説を振り払うようにフラダリは尋ねる。しかしその黒く淀んだ考えはフラダリの背を冷たい温度で這い上がってきていたのだ。
「どうしたの、藪から棒に」と驚くプラターヌに、彼は数日前に起こったありのままを伝えることにした。
彼女がいなくなって2週間後にやって来た、差出人の住所が記名されていない手紙のこと。その夜に話をした、彼女にとてもよく似た女性のこと。
プラターヌはその話を最後まで聞いた後で「素敵な話じゃないか」と肩を竦めて笑う。

「……ボクは生憎、そうしたものを見たことがないけれど、」

そう告げて彼は泣きそうに顔を歪める。窓に背けられた顔がそっと伏せられた。
失った存在を受け入れるための時間が此処に流れ続けていた。

「でも幽霊でもいいから、一度だけでもいいから、会いたかったなあ」

その震える声音に、きっと「彼女」がどこかで微笑んでいる。フラダリはそんな風に思い、戦慄する。
シェリー、君はこれが目的だったのか?
その疑問の裏に潜んだ確信を、フラダリは長い時間をかけて受け入れていくことになる。


2015.4.2

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