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何の脈絡もないSSばかりのページです。実は名前変換にも対応済み。
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6月下旬より続けていました1日1セイボリーは文字数を大幅に落としてこちらへ移行しました。

(7/20)SSにも満たなさそうな会話文、極端に短いもの、本編に組み込む予定のない突発エピソード、などはタグ「ちりがみ」に格納します。タイトル冒頭には(塵)と付けます。


▽ 花一匁に一騎打ち

2019.02.25 Mon * 7:41

ジョインアベニューの通りの隅、人通りの少ない場所で子供達が楽しそうに歌っている。
あの子がほしい、あの子じゃ分からん、と、手を繋いで作られた二つの「陣」が互いに誰かを取り合っている。
指名された男の子と女の子が陣から切り離され、一歩前へ出てボールを構える。

幼い子供による1対1のポケモンバトルは、しかし通常のそれとは異なり「どちらかに1回でも技が当たれば終了」という、実に子供らしいささやかなものだった。
素早く回避を繰り返していたダルマッカに、ようやく相手のチラーミィの攻撃が当たる。わっと両方の陣から歓声が上がる。
労いの言葉をかけつつダルマッカを戻した女の子が、悔しそうに反対の陣へと駆けていく。チラーミィをボールに仕舞った男の子がその手を取り、自らの陣へと迎える。
陣に取り込まれた女の子は、けれども次の瞬間には「勝って嬉しい」と、彼等と共に声高らかに歌っている。数を減らした側の陣も「負けて悔しい」と大声で奏でている。

「花一匁、楽しそうですね」

隣で少女がそう告げて、首を小さく揺らしながら歌い出す。
あの子がほしい、あの子じゃ分からん、と、あの子供達による甲高いそれよりも少しばかり落ち着いた、けれどもまだ幼く少女を極めた旋律がそっと零れる。
相談しましょう、そうしましょう、と歌ったところで彼女は歌を止め、照れるように小さく笑った。

「誰がほしいか決まりましたか?」

「え? ……あ、そうですよね。えっと……その、困ったなあ」

本当に眉根を下げて困り果てる彼女に「わたしはもう決まりましたよ、シアさん」と追い打ちをかける。
それに反応したのは彼女ではなく、彼女の傍を泳ぐロトムだった。勝ってから奪っていけ、とでも言うように、その大きな青い目には挑発と高揚の炎が宿っている。
ポケモンバトルの気配を拾い上げたとき、彼女のポケモンは皆、こういう目をするのだ。そしてその目に背中を押される形で、少女も同じように笑うのだ。

「それじゃあ、一番強い子を出してください、アクロマさん。私が勝ったら貴方は私のものですからね」

「ええ構いませんよ。貴方も当然、覚悟は出来ているのですよね?」

最高に無駄なポケモンバトルが始まる。どちらが勝っても何の益も生まないじゃれ合いが、ジョインアベニューの往来で繰り広げられようとしている。
子供達が花一匁を休止して駆け寄ってくる。通りかかる人も足を止めて、二人の一騎打ちを見守るために輪を作り始めた。
男が投げたボールから現れたメタグロスに、人混みからわっと歓声が上がる。
少女は嬉しそうに微笑みながら、しかしその目の海だけはどうにも笑っていないのだ。まるで獲物を捕らえるフォーグルのような、獰猛な深みで彼を見ているのだった。

この輪を作る人達はきっと知らないのだろう、と男は思った。
少女が勝ったところで何も変わらないということ、男が勝ったところで何も変えられないということ。
少女が勝利せずとも男は既に少女のものであり、男が勝利したところで本当の意味で彼女を手に入れることなどできないということ。
「私は貴方のもの」「貴方は私のもの」という言葉の意味を、少女はまだ正しく理解できていないということ。それでも構わないと男が思っていること。
そうした最高に無益なポケモンバトルにおいても、相手が「貴方」であるならば負けるわけにはいかないと、互いが真にそう思っているということ。

ああ。
わたしがどうしようもない程に貴方を好きなことを、さて、いつ貴方に知らせてしまおうか。

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▽ 雨の降る奇跡

2019.02.24 Sun * 8:09

躑躅第三章)

雨があまりにも強く降っていた。ジョウトへと近付けば近付く程に、その雨音は激しさを増していった。
あの日、私達があの穴から抜け出したあの日は、もっと晴れていて気持ちのいい日だった。気持ちが悪くなる程に気持ちのいい日だった。
けれども今、空は曇天だ。気持ちが良くなるくらいに気持ちの悪い空だった。
ああ、きっとあの花は萎れてしまっているのだろう。私はあの花を彼と一緒に見ることができないのだ。そう確信できてしまった。少し、悲しくなった。

そうしたことを思いながら窓の外を見ていた私は、気が付かなかった。
向かいの座席に座った彼が、窓の外の曇天ではなく私をずっと見ていたことに。彼の沈黙はこの曇天ではなく、私の横顔により引き出されているのだということに。

「立派になった」

その音でようやく私は彼の視線に気付き、慌てて彼へと向き直った。
私を見ていたんですか、と困ったように笑いながら尋ねた。そんな風に尋ねた私に驚いてしまった。
ああ、こういう時、私の紡ぐべき言葉は決まっていたはずなのではなかったのか。あれを、あの謝罪を、息をするように紡ぐべきではなかったのか。
こんな時に「ごめんなさい」と一言告げるだけで、私はひどく、楽になれてしまうのではなかったか。

「君は立派になった。見違えるようだ」

「……そんなことありません。今でも私、怖いものが多くて、いつだって臆病で、卑屈だってとても得意ですし、それに……貴方を、待つことしかできなかった」

「そうだとも、君は待っていてくれた、いつ戻るとも知れないこのわたしをずっと」

ありがとう。
そう告げて、きっと彼は笑ったのだろう。けれども私はその笑顔を見ることができなかった。
深く、深く俯いて、両手の人差し指でごしごしと目を擦った。そんな言葉に、有り体な音に泣いてしまうことがとても恥ずかしかった。
春の風に目がむず痒くなったのだということにしてほしかった。けれども彼が、そうした都合の良い解釈をしてくれる人ではないのだということも、分かっていた。

シェリー、君に触れても?」

「え? ……は、はい」

大きな手が伸びてくる。顔を少しだけ上げれば拭い忘れたものが頬を滑る。顎の先で雫を作ったそれが落ちてしまう前に、彼の指が受け止める。
更に目元へと登ってきたその指が、先程まで私のしていた指の仕事を奪い取っていく。
そんなことをされてしまえば、益々止まらなくなってしまうのだということに、彼はどうやら思い至っていないようであった。

彼がいる。そのせいで、私はどこまでもいつまでも泣いてしまう。

そうして、彼の指では追い付かなくなってきて、ついにはハンカチを彼が取り出しかけたところで、乗っていた電車のアナウンスがコガネシティの名前を告げた。
私達は同時に立ち上がり、ホームへ降りて、大きな歩幅で階段を駆け上がって、改札口を抜けて、駅を出た。

やはりというか、想定通りというか、大通りの歩道沿いにある植え込みには、鮮やかな緑の上に萎れた紅色がずらりと並ぶばかりであった。
雨というものは、この繊細な花には重すぎたのだ。耐えられなかったのだ。それはいつかのカロスに生きた私のようで、思わず笑ってしまったのだった。

「!」

けれども1輪、たった1輪だけ、白い花が雨の重さを逃れていた。
小さな可愛らしい日傘が、植え込みの端に置き捨てられていたのだ。広げた状態で植え込みに立てかけられたその傘に私は覚えがあった。
昨日、全く同じものを私は見た。針金細工のように細い指がその傘を何度も何度も撫でているのを、私は、あの少女の向かいの席でずっと見ていたのだ。

『明日という日に雨が降ることにはきっと意味があると思うから』

ああ、これがあの人の言っていた意味なのだ。私はそう確信してしまった。
「明日、雨が降る意味」は確かに在った。その意味を彼女が作った。雨を逃れるたった一輪の花は、彼女の傘が守った5月の一等星は、きっと私のために生き残っていた。
他の星が雨に潰れてしまう中で、この花だけが私達に咲く姿を見せてくれた。この奇跡をあの人が用意してくれた。あの人の傘が私達に奇跡をくれた。

「今日が、雨でよかった」

彼はそんな私の言葉に驚いたようで、長く、本当に長く沈黙していたけれど、
やがて植え込みの前へと屈み、その白い花に手を伸べて、私の涙を拭っていた時のような繊細な心地で触れて、

「では、わたしもそう思うことにしよう」

と、重ねすぎて空になってしまった空気の色をそっと細めて、告げた。

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▽ 片枝と黒翼

2019.02.23 Sat * 14:50

「お前が男だったなら、あいつはお前のことを好きになったのかもしれないな」

病的なまでにむせ返ってしまった。一度は口に含んでいたはずの水がぽたぽたと零れてコースターを濡らした。
近くを通ったウエイターが「大丈夫ですか?」と尋ねてくる程の咳き込みようであった。
大丈夫よと、気にしないでと、そう告げる私を見てシルバーは楽しそうに笑った。
元はと言えば彼が撒いた火種であるはずなのに、発火した私だけが悪目立ちをするなんて、やはり世間というものは不公平なままだ。そういうものなのだ。

「……あんたの言いたいことがよく分からないわ。それとも何? 私は「あんたが女だったらNはあんたのことを好きになったでしょうね」とでも返せばいいの?」

「どうだろうな。……いや、在り得ないか。Nがお前以外を片割れとしているところなんか想像も付かない」

「私だって同じよ。コトネがあんた以外の枝を抱き込むところなんか想像も付かない。こんなの、あの二人を待つ時間にする話題にしては趣味が悪すぎるわ」

「なんだ、お前は存外、誠実なんだな。俺は今、コトネとNが遅れてくるのを待っているこの時間だからこそ、この話題しかないと思ったんだが」

まさか、この青年は不安なのだろうか。私はふいにそう思った。
この、出会った頃にはまだ12歳で、コトネよりも小さかった男の子は、数年の時を経て私の背をゆうに追い越し、長身の青年へと変貌していた。
勿論、それでもあのひょろ長いNの背には届いていないけれど、この少年は確かに成長していた。堅実に、丁寧に、けれども目覚ましいスピードで育った。
彼はそこら辺にいる頼りない大人よりも、ずっとずっと、精神的に逞しく頼り甲斐のある人間になることが叶っていた。

そんな彼の口から、弱音なのか冗談なのかは分からないが、その「悪趣味な例え話」が出てきたことは、私をそれなりに驚かせていた。

さて、この青年は一体、私に何を言おうとしているのだろう?
もう片枝には告げられない何かを懺悔するつもりなのだろうか。私は彼に今から許しを請われようとしているのだろうか。
私は身構えた。彼を拒むためではなく、受け入れるために身構えた。不安でも葛藤でも恐怖でも、彼のかたちをしているのであれば何でも、受け止めようと思ったのだ。
そんな「面倒なこと」は普段なら御免被るところだけれど、彼が相手であるなら話は別だ。
この男、私の親友と揃いのリングを嵌めたこの青年のことは、それなりに大事にしたかった。

けれどもそうした私の覚悟をあざけるように、からかうように、まるで「いつか」の仕返しをするかのように、シルバーはとても、とても楽しそうに笑ったのだ。

「残念だったな、トウコ。お前が男だったなら、あいつを俺に盗られることもなかったのに。このリングを嵌めていたのは、お前だったかもしれないのに」

「は?」

「……ざまあみろ」

茶目っ気を含んだその音に、私はがっくりと肩を落とした。「やってくれたわね」と悪態を吐けば、彼はいよいよ幸福そうに目を細めたのだ。
あの悪趣味な例え話だって、このための布石であったのだ。私は見事にしてやられたのだった。

つまるところこれは彼の惚気だ。それでいてささやかな仕返しでもある。そしてそんな惚気や仕返しの相手に私を選んだところに、私はもっと別のものを見る。
私は呆れた。この上なく呆れた。彼にではなく、私に呆れた。
彼を疑うことをしなかった私に、疑うことさえ忘れていた私に、すなわち彼に相応の信頼を置いてしまっていた私に、呆れてしまった。
ああ、私はこいつも大事なのかと、私にはまたそういう相手が増えてしまったのかと、認めざるを得なくなってしまったからだ。
そういう意味で、彼のそれは正しく「仕返し」だったのだろう。現に私は打ちひしがれていた。このやさしい時間に打ちひしがれていた。彼はやはり、大物だ。

……でも、そこまで含めて彼の演技である可能性も捨てきることができなかったので、私は彼の、万に一つの可能性として残っている不安を、踏み消しておくことにした。

「仮に私が男だったとしても、コトネを女性として愛したとしても、それでもコトネはあんたを好きになるわ。あの子の枝を抱くのはいつだってあんたよ、シルバー」

「!」

「いいわね、羨ましい。私、こんなにもあんたのことを妬ましく思ったのは初めてよ」

「……ああ、そうだ。そうだとも。……いいだろう?」

にっと笑う彼の背後に、待ち人を象徴する赤いリボンの帽子が見える。
さて、彼の惚気を彼女に告発しておかなければなるまい。

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▽ Please look at me, not M(USUM・未定)

2019.02.22 Fri * 20:53

Insomnia of Obsidianの翌日)

心臓が張り裂けそうな程に大きく震えていた。どくどく、という音が胸を突き破り、外まで聞こえてきてしまいそうだった。
思わず胸に手を当てた。掌を叩くその鼓動は確かに私のものだった。服の上から爪を立てても、手懐けるように鷲掴みにしてみても、鎮まらなかった。
どうして、と呟いたはずの言葉は音にならなかった。頭も心も弾け飛んでしまいそうな程に、私は混乱していた。

ミヅキはこんなところで、こんな人に出会ったりしなかった。ミヅキの心臓は、この村の入り口でこんなにも高鳴ったりしなかった。
この二人をミヅキは知らない。ミヅキが踊るあの夢の中に彼等はいない。
ならばどうして、どうして彼等は私の前にいるのだろう。私はどうして、彼等と出会おうとしているのだろう。

貴方達は、誰なのだろう。

「これが……祭りというものか! なんと華やかな……いや……そうではない、呑気なものだな!」

「無理しちゃって! 興味あるくせに?」

リリィタウンの前に立つ、背の高い男性と小さな女の子の会話が私の耳に届く。私の耳にだけ届く。ミヅキではなく私が、私だけがそれを聞いている。
不思議なスーツとヘルメットに身を包んだ彼等は振り返り、私を見る。私だけを見る。
アローラでの挨拶を真似るように、無機質な色の手が角張った動きで黄昏の涼しい空気を割く。その挨拶は私に、私だけに為されている。

「お前も……アローラの人間ではなく、遠くから来たのだな」

彼等はまるで示し合わせたかのように、全く同時に一歩を踏み出す。瞬きさえ忘れた私の前を、あまりにも静かに通り過ぎていく。
彼等は、口元以外を全てその無機質な装甲で覆っていて、私には彼等が何者なのか、どんな姿をしているのか、どんな瞳で私を見ていたのか、何も分からなかった。
そう、分からなかったのだ。これまでの私には「分からない」などということ、アローラに来てからは一度も、ただの一度もなかったのに、それが起こってしまった。

「待って! 待ってください!」

努めて作っていた乱暴な言葉も、誰も彼もにぶつけていた「大嫌い」も、私の頭の中から消し飛んでいた。
そうした、ミヅキが眠らないために必要であったはずの全ての装甲を投げ捨てて、背の高い男性の腕、不思議な素材に覆われたその腕を掴んだ。
光を遮るように作られたその生地はとても冷たく、夕日に焦がされた私の手はその温度に驚いて大きく震えた。

「どうした?」

貴方は何故、私がアローラの人間ではないことに気が付いたのか。貴方は何の目的で、何処からやって来たのか。何故、私だけが貴方に出会うことができたのか。
それらを問うにはあまりにも早すぎて、それらの疑問を諦めるのはあまりにも遅すぎた。
他にも、この人に訊きたいことは沢山ある。湯水のように際限なく溢れてくる。けれども私はそれを喉元に押し留めてたった一つだけ彼に問う。

「貴方は誰ですか?」

どうして運命とかいうものは、こうやって気紛れに希望を持たせようとしてくるのだろう。
どうしてこの世界は、今更私に「私」としてこのアローラを旅するように促してくるのだろう。

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▽ 水晶は胎内でアルファベットの夢を見る

2019.02.21 Thu * 13:22

3度目の電話も繋がらなかった。ならばあの場所に決まっている。男はとうとう確信し、コガネシティを出て走った。
彼女がこちらのコール音に反応しないとき、彼女は決まってあの場所にいるのだった。

前置きしておくと、あの女性が男からのコール音に応えない、というような事態は滅多に起こらない。
図書館で本を選ぶことに没頭している時でさえ、マナーモードに設定した電話が小さく震えればすぐに何かしらの返事を寄越すのだ。
けれども「其処」にいるとき、彼女は大好きな本のことも、大切なパートナーであるメガニウムやスイクンのことも、そして男のことさえも忘れてしまう。
忘れて、そして彼女自身だけが悠々と漂える場所、誰にも立ち入ることの許されない神の領域にて穏やかに息を続けている。

つまり彼女にとって「其処」は図書館以上に大事な場所なのだ。図書館よりも大事な男の存在、それよりも、もしかしたら大事な場所であるかもしれないのだ。
けれども男はその場所について、彼女に詳しく尋ねたことはただの一度もなかった。
尋ねたところで彼女は答えてくれないだろうと思っていたし、彼女が「知らせる必要がない」と判断したのであれば、自分は知らずにいるべきなのだろうと心得ていたからだ。
彼女がどうであろうと、どんな秘密を抱えていたとしても、それを共有することが叶わなかったとしても、そのようなことはもうどうだってよかったからだ。

エンジュシティとキキョウシティの間にある三差路を東へ抜けて、マダツボミの塔が見える趣深い道を南へ曲がる。
ゲートを抜けた先には、重々しい雰囲気の遺跡が男を待っている。彼女を飲み込んだその遺跡が、男をあざけ笑うようにただ、そこに在る。
男はその無音の嘲笑に対して得意気な笑みを返し、歩を進め、一番大きな遺跡へと入る。コツコツと薄暗い空間に響く靴音は、果たして彼女のところまで届いているのだろうか。

奥へ、奥へと進む。角を曲がり、更に進んでまた曲がる。
そうして突き当たった壁の端に立つ柱。ほかのそれと寸分変わらないそれに隠された、ひび割れた壁。
大人一人が横を向いてやっと通ることができるその隙間を抜けた先に、美しく輝く水晶がある。空の色、男が焦がれたその色がどこまでも広がっている。
その水晶が、この隙間の向こうにある小部屋を、彼女のための聖域を、守っている。

「……」

無数のアンノーンが、彼女の周りを泳いでいた。

彼等は彼女のすぐ傍で、無秩序かつ気紛れに漂っている。かと思えばにわかに活発に動き出して、何らかの規則性の下にずらりと並ぶこともある。
アンノーンが列を為す度に、少女の足元から水晶が勢いよく生えてくる。
パリンという、硝子が割れるような音と共にそれは背を伸ばし、少女程の背丈になったところで、糸が切れたようにぐにゃりと溶けて別の形を取る。
液体のような可変性を見せる水晶は、あらゆるものをその煌めきと共に現した。ある時は男の知る女の子の姿を、またある時は見たこともないポケモンの姿を。
アンノーンが様々な列を為す度に、それらは生まれた。その不思議な水晶は、人間にも、ポケモンにも、食べ物や木々や建物の形にもなることができていた。

空色の宝石が描く世界はあまりにも美しい。
この光景に出くわすと、男はその神秘的な美しさにすっかり飲まれてしまって、何分も、何十分も、その場から動けなくなる。
その間にも、アンノーンの為す列に呼応して様々なものが次々と生まれ、そして溶けるように消えていく。
少女はその世界の中央で、まるでその世界の神であるかのように、水晶が生み出す何もかもを眺めている。眺めながら、時に笑い、時に困り、時に泣く。

「あ!」

けれども空色が成す完璧な宝石の調和は突如として崩れる。水晶が他でもない、彼女を探しに来た男の形を作ったのだ。
彼女が声を出した瞬間、水晶の男は笑うようにぐにゃりと溶けてしまった。
列を為していたアンノーンも一斉に散り散りになってしまい、元の無秩序な泳ぎを見せるだけとなってしまった。

「いけない、帰らなくちゃ。きっと待たせてしまっているもの」

アンノーンが笑うように小さく鳴く。宙を滑るように寄ってきた「A」のそれを、彼女は両手で包み込むように抱いてそう呟く。
そうしてようやく男も、この小部屋への一歩を、忘れかけていたその歩みを思い出す。コツ、と靴音を一歩分だけ鳴らせば、彼女は弾かれたように勢いよく振り向いてくれる。

迎えに来てくれたんですか? と嬉しそうに尋ねて首を傾げる彼女の周りに、もう水晶は生えていない。
宝石で出来ているかのように見えていたこの場所も、ただの土壁に覆われた薄暗い小部屋であるばかりだ。
もう彼女の時間は、彼女という神が煌めかせていた空間は、絶えてしまった。人に戻った彼女が手にすることの叶う水晶は、最早その瞳と髪の空色を置いて他にない。
そしてその空色こそ、男が共有を喜べる色であり、男が彼女を愛する理由なのだ。

「ええ。一緒に行きましょう、クリス

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