何の脈絡もないSSばかりのページです。実は名前変換にも対応済み。
本文下にあるリンクから、特定のお相手、主人公、連載を絞り込んで検索できます。
6月下旬より続けていました1日1セイボリーは文字数を大幅に落としてこちらへ移行しました。
(7/20)SSにも満たなさそうな会話文、極端に短いもの、本編に組み込む予定のない突発エピソード、などはタグ「ちりがみ」に格納します。タイトル冒頭には(塵)と付けます。
▽ 花染の綱に足を乗せ焦がれた人へと渡りゆく
2019.03.30 Sat * 22:39
(桜SS 2/10)
「綺麗ですね」
「……へえ、科学者にも風情を重んじる心があるのね」
「これはこれは、随分な偏見じゃありませんか」
酷い人ですねと困ったように笑いながら、けれどもこの白衣の優男は私の暴言をすっかり許しているような声音でそう告げる。
眼鏡にぺとりと貼り付いた桜の花弁を剥がすために、彼は上品なデザインのそれをそっと外す。眼鏡を失い、ぐっと幼くなったその横顔を見て、私は小さく笑う。
彼の剥がした花弁は風に煽られて宙を舞う。戻ってきた仲間を歓迎するかのように、数多の花弁がその一枚を抱き込んでくるくると踊る。
軽快な桜色のダンスを眺めつつ、彼は目を細めて眼鏡を掛け直す。
科学的であり多分な無機質性をその身に宿す彼は、けれどもその実とても人間的で、その心にたっぷりの有機質性を飼っている。
無機質と有機質の間にピンと糸を張り、そこを綱渡りして楽しんでいるようなところのある人なのだ。
無機質性を貫く彼の信念はあまりにも情熱的で狂信的だ。有機質性に傾き尽くした彼の誠意はあまりにも一途で切実だ。
私はそんな「綱渡り状態」の彼を見て楽しみこそすれ、その「極振り状態」の彼を愛そうなどという気にはまったくもってなれない。
自らの傍に置くには、自らの内側へと招いてしまうには、その極振りされた無機質性と有機質性はあまりにも鋭利で、危険だと思う。
この男を真正面から見据えるのは、随分と骨の折れる作業である。その無機質性を孕んだ情熱と、有機質性を孕んだ誠意に、できることならあまり触れたくはない、と思う。
彼の情熱も誠意も、私の目にはなんだかとても痛々しく映るのだ。極振りされたそれらに触れると、私が焼き焦げてしまうのではないかとさえ思われるのだ。
「そういうところ、もっとシアの前でも見せればいいのに」
「……眼鏡のことですか?」
「そうじゃないわよ」
だから私は、こうしてちょっとばかし心を遊ばせているくらいの彼が好きだ。
今の彼は無機質か? 有機質か? ……などと、思案せずにはいられない程度の綱渡りをしている彼が好きだ。
私の後輩が焦がれた彼の姿は、きっとこれではないのだろう。あの愚鈍で愚直な私の愛しい妹が慕った彼、その魅力はきっと此処にはないのだろう。
それでも私は、後輩が焦がれていない部分の彼を好ましく思わずにはいられない。妹が知らない部分の魅力を愛さずにはいられない。
「さっき私の暴言を優しく許したように、あの子の言葉も気楽に受け止めて笑ってやったらいいのにって言ったの」
「それは……貴方に置き換えれば、不可能なことであるとすぐに思い至れるはずですよ、トウコさん。過ぎる想いの足枷は、貴方の方がずっとよく知っているでしょう?」
ほら、そういうところだ。そういう「過ぎる想い」の先にあの子がいることを、もっと気軽にあの子へと伝えてあげればいいのにと、思ってしまうのだ。
……けれども科学的であり人間的である今の彼の、その言葉は間違っていない。
そう、我々にはどだい無理な話であったのだ。過ぎる想いの足枷の前には「気楽に」など、途方もない道のりにしかなり得なかったのだ。
我々には、とした途端、あんなにも軽快に舞っていた桜が、にわかにおもたげな様相を呈してきた。
あいつのせいだ、と思った。あいつを想起したせいだ。私の「過ぎる想い」の先にいる相手を思い出したせいで、桜の花弁にまで足枷が付いたのだ。
あまりにも急な情景の変化に私は笑うしかなかった。このおもたげな桜を見てしまっては、先程の軽快な花弁の舞を思い出すことなど、もうできそうになかった。
この白衣の優男はシアのことが好きだ。「どうしようもない程に好き」としても差し支えない程に、彼女に執着し、彼女を崇敬し、彼女を庇護し、彼女を愛している。
けれどもその「どうしようもない程に好き」という真実を、彼はまだシアに伝えていない。
私にはさらりと言語化してみせるその真実を、シアの前で紡いだことはきっと一度もない。
想いは重いものなのだ。過ぎる想いは泥のように重く、その暴力的な足枷は我々の「気楽」への歩みを一切許していない。
彼等が「気楽」に好きを言い合い言葉を許し合うまでには、途方もなく長い時間がかかるのだと容易に察することができた。
私もきっと、その道のりの途中にいる。だからこんなにも今の桜はおもたげに舞うのだろう。そういうことなのだろう。
「綺麗ね」
それでも桜は綺麗で、おもたげに舞う想いを捨てることなどできないままで、けれどもそれがいっとう私達らしいと思えたのだった。
アピアチェーレ/モノクロステップ トウコ/アクロマ▽ 桜よ、返せ
2019.03.29 Fri * 21:28
(桜SS 1/10)
強すぎる風が目に見える。鮮やかな桜の花びらが風を見せている。
春の嵐と呼んでも差し支えないこの強風がどれ程凄まじいものであるかということを、舞い上がる桜が、頬を軽く叩く桜が、空へと飛び去る桜が、あまりにも克明に示している。
こちらが不安になってしまいそうな程の美しさであった。その美しさが風という、唐突で不条理なものによってあまりにも呆気なく壊れてゆく様は、男を物悲しい心地にさせた。
「綺麗、本当に綺麗! まるで私達が桜になってしまったみたい」
けれども男のそうした物悲しさを、彼女は楽しそうな笑みをもってして弾いた。
綺麗だわと、本当に素敵ねと、歌うようにアルトボイスを零しながら、歓喜に細めた目でクスクスと笑いながら、桜の嵐の中へと飛び込んでいく。
花弁が、彼女の髪に絡まる。けれども彼女が男から離れていくにつれ、それが花弁であるのか彼女の髪であるのか分からなくなる。
桜も、彼女の髪も、恐ろしくなる程に似通った色をしていたからだ。
「バーベナ」
男は歩幅を大きくして彼女を追う。風がびゅうびゅうと吹き荒んでいるせいで、おそらくその呼び声は彼女のもとへは届いていない。
もう一度、男は名前を呼んだ。彼女が彼女で在るための名前、彼女が彼女らしく在ることを喜ぶための名前を、紡いだ。
強風に負けじと、その声はどんどん大きくなっていった。それでも彼女は振り返らなかった。
桜の嵐と同化しつつあるその横顔はただ楽しそうで、ただ眩しくて、そこに「男」は果たして必要だったのだろうかと疑ってしまいたくなる程の美しさであった。
盗られてしまう、と焦るに十分な恐ろしさを孕んでいたのだ。
「バーベナ!」
だから男はその腕を強く掴み、振り返った彼女の頬や髪に貼り付いた、彼女と同じ色を、やや乱暴な手つきで剥がさずにはいられなかったのだ。
どうしたの、とされるがままの彼女は問うた。一人で先に行き過ぎだ、と彼は濁してまた一枚花弁を取った。
でもそれだけじゃないみたい、と見透かしてきたので、この小綺麗な嵐の中を一人で歩きたくないだけだ、と更に逃げた。
捕まえてくれてありがとう、と困ったように笑いながら自らの髪を整え、彼女は顔を上げた。
そして、分かればいい、と告げて僅かな安堵を見せる彼の髪にそっと、手を伸べた。
「あら嬉しい。貴方も今日は私の色ね」
肩に少しかかる程度に切り揃えられた男の白い髪。全く同じ長さに切り揃えてある彼女の桜色。
けれども彼女を取り返すために桜の嵐の中を駆けた男もまた、その桜色を自らの髪に纏うに至っていたのだ。
雪の上に降る春を愛でるように彼女は目を細めた。花見をするかのようなその視線に男は少しばかり戸惑った。
「……はしゃぎすぎだ」
「ええ、はしゃいでいるのよ。だってあまりにも綺麗だから、嬉しくて」
「そんなに花が好きだったとは知らなかった」
「何を言っているの、そうじゃないわ」
桜の嵐はまだ止まない。風もびゅうびゅうと喚き続けている。
だから、ああ、聞こえなかったことにしてしまってもよかったのかもしれない。
「貴方のことよ、ダーク」
ヴェルヴェーヌの貝殻 ダーク(ジュペッタ)/バーベナ▽ 花の断罪
2019.03.22 Fri * 8:30
(地獄の紅色と失格の烙印をどうぞこの満面の笑みに押し付けてくれの間にあったかもしれない話で、かつ短編「正気の天秤」の流れも汲んでいる)
花と戯れるように生きているような子だった。
道花に、草むらに、花屋に、公園の花壇に、鮮やかな色を見つけると、彼女はその顔にぱっと花を咲かせて駆け寄り、躊躇いなくその一輪を手に取る。
誰の許可を得る必要もない道花の小さな花も、お金を払って手に入れる花屋のそれも、彼女にとっては等しく花であるため、それを我が物にするための行為は惜しまないのだ。
ある時はしゃがんでそれを摘み、ある時は膝を曲げぬままに引っこ抜き、ある時は花屋のカウンターにお金を置いて、またある時は悪戯を楽しむように花壇の花を手折る。
その花を鈍色の目で愛でながら、花びらに手をかけて一枚ずつはがし、まるで足跡を残すように地面へと落としていく。
青年とお喋りをしながら、最愛のパートナーと共に道を歩きながら、あるいは自転車に乗りながら、その奇行は息をするような自然さで繰り返される。
青年はもう驚かない。少女ももう、花を殺す遊びに後ろめたさを感じたりはしない。
そうした奇行、少女が旅を始めてからずっと続いていたその遊びは、けれどもいつも隣にいた最愛のパートナーがいなくなると同時に、ぱたりと絶えてしまった。
それは、青年がこの少女にプロポーズをしたタイミングとも重なっていた。少女があのサーナイトと別れた日こそ、青年が彼女の薬指にプラチナリングを通した日であったのだ。
故に、パートナーの喪失が少女をそうしたのか、あるいは青年のプロポーズが彼女を変えてしまったのか、彼には、……いや、きっと誰にも分からない。
「振り返らないでね、ダイゴさん」
ミナモシティのコンテスト会場、その周りを彩るように植えられた赤や黄色のチューリップを見るために少女は膝を折る。
彼女はもう、花を摘まない、手折らない。チューリップの花びらを一枚ずつ千切って、ミナモシティの潮風に吹き流すようなことはしない。
ただ、優しく目を細めてその花を撫でる。朝露の付いたチューリップは彼女の視線を喜ぶように震える。
「私達はもっとずっといいところへ行くのだから、後ろを見る必要なんかきっとないわ」
彼女の言っていることがよく分からなかった。分からないなりに、彼女がそれを声に出すことには意味があると思ったので「そうだね」と同意した。
すると彼女は驚いたようにこちらを見上げ、クスクスと笑う。笑顔でありながら、その眉は困り果てたように下げられている。また、その視線が花へと落ちる。
「……いいえ違うわ、そうじゃないの。きっと私、後ろを見られることが恥ずかしいのね。私の足跡は私が殺した花の形をしているから。
私が千切って、ぐしゃぐしゃに潰した花の死骸が、褪せた色で私を恨めしそうに見上げていることを思うと、恐ろしくなってしまうから」
「……」
「ごめんね。私、貴方の仲間を何輪もひどい目に遭わせたのよ。私、人の面を被った悪魔なの」
随分とまともなことを言う彼女は、もしかしたらまだ寂しいのかもしれない。
最愛のパートナーを地獄へと送り出したことによる喪失感は、まだ彼女の胸にぽっかりと穴を開けたままであるのかもしれない。
青年はそう思った。その喪失感をどうにかして埋め合わせることができればいいのにと思った。けれどもその役目に自分が名乗りを上げるのは、随分と傲慢なことであるように思われた。
あのサーナイトの代わりなどできるはずがない。青年は彼女の婚約者でこそあれ、彼女の最愛のパートナーではない。
「罰が欲しいかい、トキちゃん」
「罰?」
「花を殺した君の罪を、ボクが裁いてあげようか」
彼女は今度こそこちらへ顔を向け、立ち上がった。大きな鈍色の目は彼の言葉を楽しむように、訝しむように、期待するように、ぱちぱちと恣意的に瞬きを繰り返している。
それでいてその色は、仮に青年がどんなに立派な文句を紡いだとしても、自身の憂いを晴らすには至らないであろう、という悲しい確信に満ちている。
彼はダイゴであり、サーナイトではない。そのようなこと、青年が指摘せずともこの少女はとてもよく分かっている。
自己の救済を諦めたように、彼の言葉の無力さを許すように、恣意的な瞬きがぴたりと止む。
……失ったことにより生じた穴は、彼女自身が埋めるべきだ。青年にできることは、そうした、穴を埋める作業をのんびりと行う彼女の傍に在ることだけだ。
ただそれだけ、寄り添うだけ。隣で「そうだね」と相槌を打つだけ。
「君を手折るよ」
そうしてたまに、このような物騒なことを思い付いて、彼女を笑わせてみせるだけ。
「君の未来、君の自由、君の愛、その全てをボクが奪う。君は一番美しい時に、これからもっと美しくなれる時に、ボクに摘まれる、手折られる。
そしてボクは、君の死骸を靴の裏に引きずって生きていく。ボクの足跡はいつまでも、いつまでも、君の色のままだ」
硬直した少女の目を覗き込みつつ、青年は「どうだい、いい具合に物騒だろう」とからかうように告げた。
ややあって少女はお腹を抱えて笑い始めた。その眉はもう下げられていなかった。彼の期待した反応であった。彼はこうして彼女が笑ってくれるだけでよかったのだ。
何の解決にもなっておらずとも、最適解を導き出せなかったとしても、それでもこの「答えのない状況」を二人の好みに合わせて修飾することはできる。
地獄の色も、もっとずっといいところの色も、二人で決められる。だからこれでいい、構わない。
「でも、0点ね」
「あれ、随分と辛辣じゃないか。そこまで楽しんでおいて酷評するなんて」
「だってそれじゃあ断罪にならないわ。だってこんなにも嬉しいのに。こんなにも、救われたと思ってしまうのに」
成る程確かにそれならば0点だ。そして、それならばいっとう都合がいい。
ライラックコーラル トキ/ダイゴ▽ つるぎの蝶の舞う常盤
2019.03.20 Wed * 9:38
(本編から2、3年後くらいを想定)
風が吹いている。霧のように濃い温風ではなく、暗がりから押し寄せる夜のような寂しい冷風に男は驚く。
肌を撫でる空気、木漏れ日から差し込む太陽、全てが控え目で、静かで、あまりにも弱々しい。常夏のアローラに構えられた樹海とは、何もかもが違い過ぎていた。
この森の中では、いくら彼が目を凝らしたところで、アローラを想起させる要素を見つけることはできない。此処は真にカントーであり、アローラではない。
同じように、アローラの森に身を置いた少女がその中にこのようなカントーを見つけることもおそらく不可能だろう。あの場所は真にアローラであり、カントーではないのだ。
……だから彼女は、自らが「排斥」されているように思ったのかもしれなかった。だから彼女はマラサダを吐き、海の水を飲み、黒い砂の上で踊ったのかもしれなかった。
あのような馬鹿をやらかしたのも、あのような悲しみを背負ったのも、全て、この森があまりにも涼しく、あの森があまりにも暑いからなのではないかと思えてしまった。
「おい、何処まで行くんだよ」
この涼しい森における「異分子」である男の手を強く握った少女は、そのまま森の奥へと早足で向かっていく。
道、と称するのも憚られるような細い場所を抜けて、ツタが作った自然のトンネルをくぐる。森は益々暗くなり、益々涼しくなる。
遠くに見える大きな木が目の前を覆わんとするほどに近くへやって来た頃に、少女の足はようやく止まる。どうした、と尋ねかけた男の口を、少女は振り向きざまに両手で塞ぐ。
「?」
「ほら、あの木の下のトランセルがもうすぐ羽化するよ。バタフリーになって、この暗い森を出ていくの」
目を凝らせば、確かに暗がりにその姿を見つけることができた。5匹……いや、6匹いる。
少女はにっこりと笑い、お気に入りのワンピースが汚れるのも構わず草の上に座り込んだ。どうやらあのトランセルの羽化を見届けるつもりらしい。
男もそれに倣い、どっかりと腰を下ろす。
隣から小さな声で「寒くない?」と尋ねてきたので、肌寒さに嘘を吐き「平気だ」と同じく小さな声で答える。
少女はその嘘を知ってか知らずか「ふうん、そうなんだ」と楽しそうに呟いてクスクスと笑い、「でも私は寒いなあ」と肩に凭れ掛かってくる。
出会った頃に比べれば随分と成長したが、それでもこの少女は「少女」であり、まだ子供だ。
子供の体温は高い。故にこうして寄り添うことで温もりの恩恵を受けるのは間違いなく男の方だ。少女は分かっていて凭れ掛かっている。
だから男は「そうかよ」とだけ告げて、左肩に受ける少女の質量をぶっきらぼうに許す。
「トランセル達、きっとびっくりするね」
「何がだ?」
「だって目が覚めたら背中に綺麗な羽が生えているんだよ? この暗い森から飛び出して、ずっと遠くへ飛んでいけるの。
彼等はそれを分かっていて、その自由を手にするために眠ったのかな。それともただ、キャタピーの姿でいることに疲れたから眠っただけ?」
疲れたから眠る、なんて、まるで以前の少女のようだ。男はそう思ってしまい、微笑んで「さあな」と答えた。
その微笑みか、あるいはその短い相槌かは分からないが、とにかくその反応で少女は、男が以前の少女を想起したことに気が付いたらしい。
その認識の共有を喜ぶように少女は笑う。その喜びを許すように男も笑い返す。
嬉しそうに肩を竦めて目を細めて「いいなあ」と零す少女の背中に羽はない。代わりに小さな、30cm程度の騎士がいつでもそこに控えている。
ワンピースと同化するようにあしらわれたそのリボンは少女を抱えて風のように宙を舞う。望めば、彼女はいつだって蝶になれる。
……だから、羽を持たないことに絶望する必要も、羽を宿して目覚めるトランセルを羨む必要も、きっとない。
長い時間をかけて、少しずつ殻が開いていく。宝石のように美しい羽が、その隙間からゆっくりと伸びていく。
殻を脱ぎ捨てたその蝶は、パタ、パタと羽を瞬かせて、薄暗い森の空気を震わせる。何度か繰り返したのちに、徐にふわりと飛び上がる。
「見ていて、グズマさん」
少女が立ち上がりそう告げる。
その背中で小さく鳴いたカミツルギが、少女の腰にそのやわらかい鋼を巻きつけて舞い上がる。大きな木の方へと静かに飛び、羽化したばかりのバタフリーの傍へと寄る。
バタフリーは仲間を得たことを喜ぶように、ふわふわと木の周りを飛んだ。
少女とカミツルギはその少し前を飛び、時に高く舞い上がったり、薄暗い中でダンスを踊るようにくるくると舞ったりしてみせた。
それはまるで「こうやって飛ぶの」とバタフリーに指南をしているようであった。初々しい羽を導いているようであった。
空の高さを初めて知るバタフリーの羽も、少女の背に生えているつるぎの羽も、グズマには同じように眩しく見えた。あまりにも綺麗であった。美しかったのだ。
「ただいま」
けれども初々しい羽を持つバタフリーは常盤から空へと飛び立ち、つるぎの羽を持つ少女は再び男のもとへと帰ってくる。
ただそれだけの違いであった。それが、それこそが、男がこの少女を想う理由であったのだ。
▽ 5度の無垢、30度の粋
2019.03.17 Sun * 10:15
「ホワイトレディ」
「ブラックルシアンにしようかな」
思わずメニュー表から顔を上げて声の主を確認してしまった。私と目を合わせた彼女が、小首を傾げて「何?」と微笑む。
何でもないよと告げながら、それでも強烈な違和感は拭えなかった。
お酒に強い二人がのっけから高度数のものを口にすることは別段、不自然なことではない。
饒舌になりこそするものの大して悪酔いもしないこの二人が、少しずつ出来上がっていく私をニコニコと眺め続けているという図式も、慣れっこであった。
ただ、私の聞き間違いでなければ、彼女がホワイトレディを、そして彼がブラックルシアンを注文したはずだ。
ゼクロムを連れ、黒いダイヤモンドの結婚指輪を嵌めた彼女が白いカクテルを、レシラムを連れ、白いダイヤモンドを身に着けた彼が黒いカクテルを頼んだ。
互いの色を奪い合うような注文の仕方に、私は少なからず驚いた。けれどもその色の奪い合いを指摘することは憚られた。
そういうこともあるよね、と、その疑問の落としどころを私の中で見つけてしまう方が「上品」であるような気がしたからだ。
「ファジーネーブルを下さい」
「俺はチャイナブルーで」
「ふふ、ジュースみたいなのを頼むのね。いつものことだけれど」
トウコちゃんは常に大人っぽいけれど、お酒の席ではその程度が増す。
カクテルグラスを指で摘まんで目を伏せるところなんか、ドラマに出てくる女優のようだと思う。
そして彼女をよく知る私の目には、名前さえしらない遠い地方の女優よりも、彼女の方がずっと美しく、色っぽく映る。今日の彼女も相変わらず、眩しい。
彼女より2年遅れて、私とシルバーもお酒を飲めるようになった。
……けれども私もシルバーも、まだこのお酒というものに慣れていない。4人で飲むこの時間には慣れても、お酒の味にはまだ親しみを覚えられていない。
トウコちゃんやNさんが「美味しい」と呟くそれと同じ感想を、私はまだ、心から紡ぐことができていない。
けれども何となく、美味しいと思っているふりをしたくなる。慣れているふりをしていたくなる。いつもの子供っぽい私を隠して、二人の雰囲気に合わせてみたくなる。
勿論そのような虚勢は、私がカクテルを2杯も飲めば呆気なく崩れてしまうのだけれど。
そうした「ふり」が暴かれてしまうことも含めて、私はこの4人での場にはもうすっかり、慣れてしまっているのだけれど。
いつか、心から「美味しい」と言えるようになれたなら素敵だと思う。その「美味しい」を一番に聞くのが此処にいる3人であったなら、とても嬉しいと思う。
「お待たせしました」
ホワイトレディとブラックルシアンが運ばれてくる。
Nさんはそれを右手で受け取りカウンターに置いてから、指輪の嵌められた左手でそれを持ち直した。
トウコちゃんは右手にそれを持ったまま、左手の薬指をそのカクテルグラスにそっとかざした。
「互いの色にかざすと、よく映えるように造ってあるんだな、その指輪」
「……あっ」
「今日は二人とも、相手の色を飲みたい気分なのか? 珍しいじゃないか」
チャイナブルーを受け取りながら涼しい顔をしてシルバーがそう告げる。
こんな大人の場で、相手の気分を暴くような真似は無粋だよ、と、肩をつついて指摘しようと思ったのだけれど、
トウコちゃんが嬉しそうにへにゃりと、まるで酔っぱらった私のような笑顔で「ええそうよ、いいでしょう」と歌うので、
虚勢とか、上品さとか、そういうことの全てがもうどうでもよくなってしまったのだった。
「いいなあ」
私もそう続けて、ファジーネーブルに口を付ける。不思議だ。今日はいつもより少し美味しいと感じる。
*
雰囲気だけ楽しんでいただければと思います。ワカラナイ……オサケワカラナイ……。
ミルクパズル/モノクロステップ コトネ/シルバー/トウコ/N