(旧サイトSS企画より抜粋、イベント「お花見」企画9本目)
雲間から思い出したように陽の光が降り始めた頃、私と彼は最寄りの喫茶店を出た。
ほんの1時間程度の通り雨だったけれど、それでもミナモの並木道に咲き誇る春の色を殺ぎ落とすには十分すぎる程であったらしく、その7割程が枝から離れてしまっていた。
けれど枝から殺ぎ落とされてもその鮮やかさは褪せることがなかったようで、並木道の水溜まりに降り積もった花弁は、その下にあるアスファルトの色を忘れさせてしまう程の眩しさで人の目を鋭く穿ち、一気に散ってしまった桜を惜しむ彼等の溜め息を、一瞬にして感嘆のそれに変えてしまった。勿論、私だって例外ではなく、歓喜の声を上げてそちらへと駆け出し、水溜まりを埋め尽くす桜色を、言葉すら忘れてただ茫然と見つめていた。
「花筏か」
少し遅れて私の隣に並んだ彼は、赤い隻眼をすっと細めて、水溜まりを彩るその桜に私の知らない名前を付けてみせた。花筏、と彼の言葉を反芻すれば、彼はいかにも説明が億劫だというように大きく溜め息を吐いてから、しかし淀みなく饒舌に「花筏」の説明をしてくれた。
「水面を埋め尽くす桜をそう呼ぶ人もいるらしい。もっとも、本来は川を筏のように流れる花弁を指す言葉であるようですが。
……人というものは、命の短く美しいものには必ずと言っていい程に、何かと名前や理由を付けて慈しまずにはいられない、忙しない生き物だということですよ」
「ふふ、でもそんな『忙しない』言葉を、私は知りませんでしたよ、ゲーチスさん」
貴方はどうして知っていたんですか?
そう告げれば彼は見るからに不機嫌そうな顔になって、私の、まだ乾ききっていないセミロングの髪を左手で掻き乱した。それは先程の雨空の下で為された行為に酷く似ていたけれど、もう彼は子供のように屈託なく笑うことはしなかった。彼の子供のようなあの笑顔を引き取るように、彼の屈んだアスファルトは春色の方舟を描いていた。
「しかしお前もこれから『忙しない』ことをするのでしょう? 相変わらず強欲なことだ」
そうして彼はいとも容易く私の心を読む。私は肩を竦めて微笑み、鞄からその「忙しない」行為の象徴である、スケッチブックと色鉛筆を取り出して、近くのベンチへと駆け出す。彼はいつもの溜め息を落とした後で、少し遅れて付いてきてくれる。
<サイコロ番外「葉桜の目は赤」の後にあったかもしれない話>