(塵)いつか死んでほしい

「貴方には想像が難しいかもしれないけれど……私にとって、800年目を迎えたあの日はつい先週くらいのことのように思えるんです。だから次の100年だってきっとあっという間に過ぎる」
「やはり壮大な話だ。僕などは80年を生きるのがやっとだったというのに」
「だから私はこれからも、大勢の人とすれ違い、大勢の人とほんの一瞬だけ生きて、そして別れて、忘れていく。貴方の子供や孫のことだって、忙しない時代の流れの中、きっと見失ってしまいます」

 しわの増えた僕の手を握り、天使様はそう仰いました。永遠の命を持ち、あらゆることを見聞きしてきたはずの彼女。同じく死ぬことを忘れた相棒であるサーナイトと共にもう何百年と生き続けてきた彼女。知らぬことなど何一つなく、できないことなど数える程しかなさそうな彼女。
 けれどもそんな彼女は、僕の崇敬する天使様は、ああ、ああ、たったこれだけのことさえ叶えてくださらない。その全知全能に近しい頭脳のほんの片隅に、僕という存在を置くことさえ許してくださらない。

「だから約束はできない。貴方のことは連れていけない。私は今日限りで貴方とはさようなら、思い出さえ全て此処に置いていきます」
「……」
「貴方のことを嫌っている訳じゃないんです。私は誰に対しても、こうします。今までも、これからも」

 冷たい話だと思う。死の床で視界を眩ませている僕に対してなんと非道なことかとも思う。期待の一切を抱かせないその切り捨て方はほとほと天使様らしくない、とも思う。ああ天使様、永遠を生きるカロスの女神よ。貴方の記憶に留まれないことのなんと悲しく辛いことか。
 けれどもそれも仕方のないことなのかもしれない。だって彼女は天使ではあるが神ではないのだ。全知全能に思えるがきっと本当はそうではないのだ。出会った人、別れ行く人のことを全て覚えておくことなどできないのだ。その小柄な体に蓄えておける記憶には限界がある。僕では「そこ」に入れない。きっと他の誰にも入れない。彼女の「そこ」はきっともう一杯だ。おそらくは、彼女が天使様になるずっと前の段階、死の運命をまともに抱え込んでいた人の頃にはもう、既に。

「どうしても叶いませんか」
「ごめんなさい」
「声や姿までとは望みません。せめて名前だけでも憶えて、持って行ってくださいませんか」
「……ごめんなさい、本当に」

 ああなんて頑固な天使様。でもそんな貴方が看取ってくださるのなら今日限りそれも許しましょう。きっと貴方の仰る通りだ。僕には想像も付かないことではありますが、永遠を生きる貴方にとって「覚えておく」というのはとても、とても辛いことなのでしょうね。貴方はきっともう十分に辛いのだ。これ以上の辛さを抱えてはおけないのだ。であるならば僕は喜んで忘れ去られましょう。僕を手放すことが安息となるならば喜んで消えてみせましょう。

「じゃあ、いつか死んでいただけますか。僕のもとへ、来ていただけますか」

 でも許されるなら、いつか、いつか、貴方にも僕のように、消えるという安息が訪れてほしい。死ぬことさえ忘れた彼女、次の100年さえあっという間だと語った彼女に、千年先、万年先でも構わない、どうかこの平穏が訪れてほしい。

「……ふふ、そんなことを誰かに望まれるのはとても久しぶり」

 老体の駄々捏ねに、天使様は存外機嫌を良くされてしまった。はっきりとはもう見えないが、貴方の笑顔はいつだって美しく、今もほら、光のようだ。その光、死の向こう側にある平穏で、僕はずっと天使様のことを待っています。そんな人、きっと僕の他にも沢山、沢山、いらっしゃいますよ。

 ガラリ、と扉の開く音がする。不思議な音で誰かが誰かのことを呼ぶ。彼女はそれまでずっと天使様だったから、この地では誰に対してもずっとそうであったから、僕はその男の声が紡いだ「シェリー」が他ならぬ女神様の名前であるということに、最期まで気付くことができなかった。

 850年目くらい

© 2024 雨袱紗