彼女には少し、植物に厳しめなところがあった。
大通りに植えられた常緑樹の葉っぱを笑顔のままにむしり取り、手の中でぐしゃぐしゃに潰してから少し冷たい風に流していくのだ。さわさわとアスファルトに散る緑を青年は少し憐れに思う。そうしたささやかな残虐性で己を装飾する彼女のことを、誰よりもその死臭に囚われてしまっている存在のことを、青年はその緑よりは強く、憐れに思う。
「僕は、何か気に障ることをしているかな」
「いいえ、そんなこと。急にどうしたんですか? 私がこの通りを歩くときはいつだってこうしていること、貴方はもうずっと前から知っているはずなのに」
まだ彼女に馴染んでいない白衣は、華奢な彼女の肩を少し大きく見せている。デート、などと浮ついた言葉を免罪符にしてこの町へと頻繁に訪れ、彼女が魂を削るように書いている論文の経過を見るのはとても楽しい。下手な小説や漫画よりずっと、彼女の論文は「生きている」と感じる。科学的根拠に基づく書物はもっと無機質で在れと多くの人が説くだろうが、青年は彼女の文章の節々からにじみ出る「祈り」が、どうにも人間らしくて、嫌いではなかった。彼女のそうした人間性を愛した身としては、その魂を引き継いだ文字の一言一句さえ、愛おしくないはずがなかったのだ。
「そうだね、少し驕りが過ぎたようだ。今日くらいは忘れてしまってもいいだろうに、と思ってしまうあたり、僕はまだ貴方への理解が足りないのだろうね」
研究を愛する科学的で人間的な精神は父譲り、誰かを導く人になりたいという思いは母譲り。どちらも優しい人だから、あの子もとびきり優しくなってしまうに違いないわ、と眉を下げつつ歌ったのは青年の母である。事実彼女は優しかった。この年下の少女に青年が傷付けられたことはただの一度もなかった。苦しめられたことは……まあ、あったかもしれないけれど、それだって彼女の救いようのない優しさに比べれば、可愛いものだと言わざるを得なかった。
「……それはもしかして、焼きもちですか? 誕生日くらい自分のことだけ考えていればいいのに、まだお前は心の中にあいつを招くのか、って、貴方は暗に私を糾弾しようとしている?」
彼女は足を止めた。すぐ隣にはまたあの木があった。愛と死を象徴するこの花は、今年の寒波と大雨により既に散ってしまっている。本来なら彼女の記念日に一番、濃い香りを放つはずだった。だから今年の誕生日は真に、彼女だけのものだ。カロスの救世主に奪われることのない、あの死臭に塗り替えられることのない、彼女だけの誕生日。
どうか喜んでくれないか。今日は貴方が生まれた日なんだ。一緒に楽しんでほしい。喜んでほしい。今日が「あいつ」の命日であることなど、思い出しもしないで。
「貴方を責めるつもりはないよ。でも貴方がこんな日にさえ、純粋に、愛されることだけを喜んでいられないというのは少し悔しいね。この場合、責められるべきは、……ああ、ならば僕もこうすべきかな?」
彼女のすぐ隣にある葉っぱに手を伸べて、ぐいと握りしめた。ガサガサと乾いた葉の擦れる音を大きく拾いすぎたらしく、彼女は肩を大きく跳ねさせて左耳を塞いだ。青年はその手を取って、引き剥がした。
「ほら、よく聞いて。これは今日の音だよ。貴方のために鳴らす音だよ」
「……や、やめませんかこんなこと。貴方らしくない」
「そうとも僕らしくない。僕は植物が好きだからね、本当は理由もなく痛めつけたりなんかしたくないんだよ。でも今日は特別だ。今日だけだよ、こんなことをするのは」
「……」
「貴方ならこの意味が分かるよね。僕を分析するのが得意な貴方なら」
貴方が一番であると、他でもない貴方に知らしめたいから、僕はこの葉を潰すのだ。
貴方が生まれてきてくれたことを喜ぶだけでなく、「お前がもう二度と蘇ってくれるなと祈る」ために、小さく砕いてアスファルトに散らすのだ。
この木のことも、カロスの救世主のことも、僕は嫌いではない。でもそれらの存在が、今日という特別な日にさえ優しい貴方を苦しめるなら、僕も同じだけこの木のことを、あいつのことを、苦しませてみせよう。そうしたことを優しくない心で想える程度の愛であるのだと、どうにかして貴方に伝えてみせよう。
いつか、届くときが来るのだろうか。それは次の瞬間であるかもしれないし、十年先かもしれないし、あるいは永劫届かないままであるかもしれない。早ければ早いほどいいと思った。けれど今この瞬間でなくてもいいかな、とも思った。不可視の想いの伝達がそんな生易しいものであるはずがない。易しくない方がきっといい。
「やさしくありませんように」
大きく見開かれた目いっぱいに、微笑む青年が映り込んでいた。海の中に留まることのできる己が空色を、彼は少しだけ誇らしく思った。
「誕生日おめでとう。今日は貴方が一番幸せになる日だよ」
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【13:17】(「青年」は24歳くらい、「あたし」がカフェで働き始めた直後のこと)