オーキッドニャスパーは浮果を見せたがる

 あっ、と男の子が小さく声を上げる。そちらへと視線を遣れば、ダイニング、細長いテーブルの奥の方、コップが滑り落ちていくのが見えてしまう。これでは止めようがないだろう、硝子製のコップだから怪我が心配だ、という諦めと不安の気持ちと、さてここで救世主が指揮を執ってくれはしないかという、最早神に祈るそれに似た期待の気持ちとが、席に着き欠伸を噛み殺していた私の頭の中に二つ、ぽっと湧き出る。
 あわや粉々に砕けて大惨事、となるところだったのを救ったのは、果たしてそのコップを瞬時に覆う淡い水色の光だった。畳の広間から目を擦りつつ現れたセイボリーが、まだ意識さえ覚醒していなさそうなのに、右手の人差し指だけはピンと伸ばし、ダイニングの奥へと突き付けている。床上10cmのところでピタリと制止し破壊を免れたそのコップは、ふわふわとテーブルの上に戻って来た。中の水さえ一滴も零れていない、という徹底ぶりだった。

「わわっ、セイボリーさんありがとう!」
「ああ、はい……」

 コップを落とした男の子が、歓喜の声と共に彼へと駆け寄る。彼は眼鏡を覚束ない手つきでかけつつ、ほとんど動いていない口でぼんやりと相槌を打つ。やっぱりセイボリーさんはすごいや。朝からいいものを見たなあ。そうした声がダイニングに満ちる。彼はその言葉全てに律儀に「ええ」とか「ありがとうございます」とか「そうでしょうとも」とか、眠そうではあるけれどもぽつりぽつりと返している。彼のことがその能力ごと受け入れられていることを、この上なく平和に証明してくれる光景であった。そのことが純粋に喜ばしくて、嬉しくて、私は小さく笑った。
 彼は緩慢な足取りでダイニングを歩き、私の隣の椅子を引く。心なしか、シルクハットを旋回するボール達の勢いがない気がする。いつもピンと伸ばされた背筋が僅かに曲がっている。随分と眠そうだった。朝に強い人、という印象は前から持っていなかったけれど、此処まで眠そうな状態で現れたのは初めてではなかろうか。

「やあおはよう、硝子コップのヒーローさん」
「……ああ、ユウリ
「随分と眠そうだね。夜通し特訓でもしていたのかい? それとも、何か気掛かりがあって眠れなかった?」

 困っているなら言ってほしい、いつでも協力するよ。そう付け足そうとしたのだけれど、それより先に彼が水色の目をくいと細めた。いつもの、挑戦的に私を見るときの目ではない。そうしたアクティブな眼差しの色ではない。そうしたことを察せてしまった。そうした察しができる距離だったのだ、この、ダイニングテーブルにおける「隣」の位置というのは。

 寂しがっている?
 そのような仮説を立てた。随分と突飛な仮説ではあったけれど、あながち間違いでもないようだった。何かの機会を逃した子供のようにも見えるその目で、彼は口元だけはいつものように笑いつつ、こんなことを言ったのだ。

「あなたは……褒めてくれないんですか?」
「褒め、る」
「これを好きだと、いつも言ってくれているじゃないですか。好きだって、凄いって、羨ましいって……」

 とうとう完全に目を閉じてしまった彼、その頭上、6つのボールのうちポケモンが入っていない空のものがふわふわと私の手の中に落ちてくる。私の好きなボールだ。彼の言う通りだ。
 別に私が「ボールマニア」であるという訳ではない。ただ、彼のテレキネシスの加護を受けたそれが、彼の指揮の下にあることを誇るように淡く光る水色のそれが、どうしようもなく好きだというだけ。羨ましくなってしまう程の感慨を、彼を見る度に覚えてしまうだけ。
 私は怯んだ。彼のリクエストに応えることは造作もないけれど、私が此処で本当に褒めてしまったら、完全に意識を覚醒させた彼が慌てふためいてしまうのではないかとも思ったのだ。けれどもその逡巡も僅か2秒程度しか持たなかった。その後の彼のことなど知ったことか。私には「みらいよち」は使えない。だから今の彼のことだけ大事にしていればいい。そうしたい。それでいい。

 彼の長い髪、耳の後ろの後頭部あたりに手を回してそっと撫でた。本当は頭のてっぺんに手を置くくらいの方がよかったのかもしれないけれど、生憎、彼の頭にはいつだってシルクハットという先客がいる。故にこうするしかなかった。それに、こうしたかった。そう軽い気持ちで「褒める」訳ではないのだということを、この眠たげな兄弟子にはしっかり覚えておいてもらいたかった。

「凄いね、セイボリー。本当に凄い。あんなに遠くのものも浮かせられるんだね、びっくりしたよ」
「ええ、まあ、ワタクシはエレガントですから……」
「朝から素敵なものを見られて幸せだなあ。君のおかげでいい日になりそうだよ、ありがとう」
「ああ、そうですか。それはよかった……。あなたにそう思ってもらえる……」

 左手には先程、彼が寄越してきたモンスターボール。右手には彼の髪。随分と素敵な朝には違いない。世辞を言ったつもりは更々ない。
 彼は目を薄く開けた。そして私が彼の後頭部に手を伸べていることに気が付くと、その手首にこめかみのあたりをそっとすり寄せて、そのまま口元をふわりと崩して笑った。そんな、いつもの彼らしくない間抜けな表情でさえ、私の目にはとても綺麗に見えてしまった。
 そして、彼にそんな顔をさせてあげられたことを喜ばしく、誇らしく、ただただ嬉しく思いつつも、私は赤面せざるを得なかった。何故なら此処はダイニングである。十数名が毎日修練を重ねる道場の、朝のダイニングである。道場の門下生たち、ミツバさん、更にはやってきたマスタード師匠までニコニコとしている始末だ。これはもう取り返しがつかない。後悔は先に立たない。ならば貫き通してやろうと、私は彼の綺麗なブロンドをわしゃわしゃとしながら思いっきり笑ってやった。

「ねえセイボリー、早く起きてくれないかな。私だけがこんなにも恥ずかしい思いをするなんて、不平等だよ!」

(浮果:戦果や釣果にかけた造語であり間違った単語です。「浮かせた成果」の意味)

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