易題「月花の簪」

(大論判三部作のその後にあったかもしれない話、もう少し加筆して短編化するかも)

 清涼湿原に咲く青や白や赤の花々の名前をセイボリーは知らない。花はすべからくエレガントであり、愛でる対象には違いなかったが、それに関する知識を有することに彼はあまり意義を見出せない。それは水辺の脇に咲く黄色い花においても同じことであり、名前も品種も、一年草か多年草かも彼は知らない。名前がなければ区別ができない。区別ができなければ、人の記憶に刻まれない。覚えておかれないものは、忘れゆくしかない。
 故に彼はその黄色い花の名前を知っておきたいと思った。この場所が、そしてこの花が、彼にとって特別な意味を持つことを、その花を特別たらしめたあの日のことを、彼は「名前の所有」という正当性をもって彼の記憶に留めおこうとしていたのだ。

 花を知るにはその特徴を掴むことが必要だ。彼女が後日「悪趣味で残忍な花占い」と称して笑いながら責めたあの愚行、あれだけの犠牲を強いたこの花に対する情報をセイボリーはろくに持っていなかった。ただ「黄色い」ということしか知らなかった。そのため、再度確認に向かう必要があった。

「あの、もし。……ユウリ?」
「……」
「こんなところで眠っていてはまた風邪を引きますよ。ミセスおかみの『実力』をまたしても見せつけられたいのなら止めはしませんが……」

 そう、セイボリーはあくまで花の情報を得るために来たのだ。まさかこの場に彼女がいるなどということ、予想できたはずもない。セイボリーが先日惨たらしくむしり取った花々、その緩やかな再生を見守るように、水辺の傍で体を丸めて横になり、そのまま眠ってしまったと思しき彼女を揺り起こす羽目になるなど、予見できたはずもない。彼には残念ながら「みらいよち」は使えない。
 ……ああでも、予想できるだけの「情報」はあったはずだ、とセイボリーはあの夜のことを思い出しながら目を伏せる。二人が同じことを同じように考えていると気付くに至ったあの夜。私はずっと前から君のことを好きだった、などと、とんでもない優位性を振りかざして泣きそうに笑った彼女の、喉の奥から押し出すようにして紡がれたあの震える声。同じような喜び、同じような困惑、同じような懇願、同じような好意。それらを示し合った二人はやはり同じようにくしゃみをした。あの日は何もかものそうした揃いがただどうしようもなく喜ばしかった。同時に起こったくしゃみでさえ、全ての正解に思えた。

 なるほど、それならばこの現象もまた生じて然るべきだ。セイボリーの向かうところに彼女の足も向かってしまうのは、別に稀有なことでも偶然でも何でもなく、二人の思考が似たところに置かれている以上、いっそ必然のことであるに違いない。そのような、ひどく浮かれた驕りがセイボリーの頬を僅かに染める。ゆるい確信が口元まで緩めてしまう。
 花が咲くようにゆっくりと目を開ける彼女を見ながらセイボリーは思う。あの日はどうかしていた。ワタクシも、彼女も、お互いに。そう、それだってほら「同じように」どうかしていたのだ。

「おや、おはようセイボリー。どうして君がこんなところに」
「ハイハイ、おはようございます。さてその台詞は『ミラーコート』待ちと捉えてよろしいか?」
「ふふ、どうぞ? 君が此処に来た理由と同じものしか返ってこないと思うけれど、ね」

 そう告げてクスクスと笑いながら彼女は起き上がる。セイボリーは自らの頬が更に赤くなるのを自覚し眉をひそめる。そんな彼を見て彼女はいよいよ声を上げて笑い始める。彼にはまだ笑える程の余裕がない。
 この子はどうやら自らが抱く想いを隠すつもりがついぞないらしい。セイボリーのように「告白」などと気合を入れずとも、それこそ「おはよう」と挨拶をするような気軽さで、彼女はそれを告げてしまえるのだ。流石にあの夜は多少の照れを見せたものの、互いに一度その心を開き合ってしまえばその後は随分とあっさりしたものだった。彼女はセイボリーへの好意を隠さないし、セイボリーが彼女に寄せる好意について微塵も疑っていない。その安定は彼女の強さを益々強固なものにした。白状するなら本日の特訓においても、セイボリーはこの妹弟子に惨敗であったのだ。
 どうにかして一矢報いてやりたい、という思いは、あの夜よりも前から彼の中でくすぶっている。目の前で楽しそうに、幸せそうに笑う彼女を見て、その悔しさはより一層強くなる。

「ねえセイボリー、今から一緒にエンジンシティへ行こうよ」
「エンジンシティですか、何かご用事でも?」
「植物図鑑を買おうと思っているんだけれど、私一人じゃどれを選べばいいか分からないからね。先輩の知恵を借りたいんだ」

 そしてセイボリーと同じく質の悪い彼女は、このような形で彼の悔しさに「ダメおし」までしてくる始末だ。

「来てくれるよね、セイボリー。君もこの場所に咲く何かしらに相応の愛着があるようだし?」
「……ああもう! ハイハイ! 行きます、行きますとも。あなたって本当に質が悪い!」
「何を今更。分かりきったことじゃないか! そうと決まればさあ、早く駅へ向かおう。夕食の時間までには道場へ戻らないとね」

 至極楽しそうに笑う彼女のニットベレーが傾いていたので、指先でひょいと持ち上げ位置を整えてやる。彼女は音さえ聞こえてきそうな程にぱちぱちと二回ほど瞬きをしてから、その目をふわりと溶かしつつ「ありがとう」と口にして、駆け出す。花を踏むリスクを無くすため、彼女は水辺をばしゃばしゃと走ることを好む。靴が濡れるのもお構いなしだ。あの夜だってそうだった。セイボリーはその小さな背中を追い掛けようとして、そしてふいにあることを思い付いた。

「……」

 あの夜とは似ても似つかぬ丁寧な手つきで、セイボリーはその黄色い花を一輪だけ摘んだ。指先の指揮に従うようにふわふわと浮き上がったその花は、彼が更に指をくいと曲げることにより、恐ろしい程の従順性をもって指定の位置へと飛んでいく。水辺を駆ける彼女の髪を飾るべく、音もなくこっそりと、密やかに。

「……セイボリー?」
「はい、今行きますよユウリ

 ああ、どうか気付いてくれるな!
 祈るように彼女の名前を呼びつつセイボリーは一歩を踏み出した。彼女の真似をして水辺を歩く必要はなかったが、もうここまで来たらいっそ彼女の歩く場所をそのまま同じように辿るのが「らしい」ようにさえ思われた。歩幅を大きくしてその背中に追いつく。濡れた靴で隣に並びそちらを伺う。彼女はセイボリーを見上げて、右の口角を上げて笑う。彼の笑みを鏡映しに真似た表情だと気付いてしまえば、花の悪戯でこっそりと一矢報いて得たはずの達成感など、一瞬で、呆気なく、ものの見事に吹き飛ばされてしまう。
 彼の仕掛けた黄色い花は、彼女のこめかみを隠す位置に彩られ、淡い水色の光を纏って瞬いていた。彼女がそれに気付いていてもいなかったとしても、どちらにせよ、彼の敗北は覆らなかったに違いない。

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