葉桜と魔法

(桜SS 4/10)

「ほら、見てくださいゲーチスさん」

女性の指差した先にはまだ齢十にも満たないであろう子供達がいる。大きな桜の木の下で、甲高い声と共に走り回る7人の子供だ。
煩いことだと呟けば、隣から小さな微笑みと共に「そっちじゃありませんよ」と返ってくる。
それを受けて男は再び桜の木へと視線を戻し、彼女の「見てください」が示す本当のところをその隻眼で探す。

……走り回る子供達から少し離れたところ、太い幹の四角になっている日陰の場所に、5歳程度の幼子がいた。
彼は自らの背よりもずっと高い桜の枝へと手を伸べて、何かを掴もうとその両手を宙にひらひらと泳がせていたのだ。
あの背丈では、どう足掻いても桜の枝を掴むことは不可能だ。あのくらいの年齢の子供はさて、その程度のことも分からない程に稚拙であったろうか。
そこまで考えて、男は気付いた。あの幼子は桜の枝を掴もうとしているのではない。桜の枝から離れた花弁を握ろうとしているのだ。
その、あまりにも小さな手の中に、あの「ひらひらしているきれいなもの」が飛び込んできたならどんなにか嬉しいだろうと、そうした期待の元に手を伸べているのだ。

「幸福とは往々にして、求める人のところにはやって来ないものですよね。追いかければ追いかける程、手を伸ばせば伸ばす程、幸福や運命は逃げていってしまう」

「……」

「あれ? ……ふふ、どうしたんですか? そんなに驚いて。まるで貴方が同じ言葉を、誰かに言ったことがあるみたいな、顔をして」

その「誰か」をこの女性は既に知っている。知っていて、敢えてそのような物言いをしている。
男は左肩だけを軽く竦めて隻眼を伏せて眉をひそめて、その不可思議な彼女の不気味な言動を許す。
過去も未来も別世界での出来事も、この不可思議で不気味な女性にとっては一冊の本のようなものでしかない。彼女はその本を「読んでいる」に過ぎない。
だからきっと、その言葉を受けて男がこれから為すことだって、彼女にはとうに見えている。既にその物語は、読まれている。
故に男が躊躇う理由など、きっとあるはずもなかったのだ。

歩を進める。満開の大樹の下へ向かう。女性はその足取りを少し離れたところから眺めている。
桜の大樹に若葉が生える。男の後ろ姿が、その背に流れる緑の髪が、満開の桜に溶ける。葉桜と化す。葉桜の一つ目は、満開の桜を見上げるその目は、赤い。

幼子は隣に立った長身の男に驚き目を見開く。その男がそっと左手を宙へと差し出せば、ほら、そこに桜の花弁が一枚だけ落ちてくる。
男は花弁を望んでいない。花弁を求める気にはなれない。それでも手を伸べた。だから花弁は男の手を選んだ。それだけのことであった。
戯れに膝を折る。戯れにその左手を幼子へと差し出す。戯れに「これが欲しかったのでしょう」と言ってみる。戯れに、微笑んでみる。

「おじさんは魔法が使えるの?」

けれども純な眼差しを向けられて、そのようなことを尋ねられてしまっては、男はもう「戯れ」を続けることができずに、眉をひそめて沈黙するしかない。
クスクスと、男の背後から笑い声と共に足音が聞こえてくる。女性が駆け寄ってきているのが分かる。
さて、彼女はこちらに助け船を出すつもりなのだろうか。それとも、更に深みへと突き落としにかかるつもりだろうか。
男は女性へと振り返り、「早くしなさい」と急かすように睨み付けた。女性は楽しそうに笑いながら、男の隣にしゃがんで幼子と視線を合わせた。
……そして、男は大きな溜め息を吐く準備をするために呼吸を止めた。これは、自分ではなく幼子の味方をする顔だと気付いたからだ。

「そうよ、この葉桜さんは魔法が使えるの。貴方のところに幸せを届ける、優しい魔法。ね、素敵でしょう?」

個人的に大好きな太宰さんの短編「葉桜と魔笛」のタイトルを意識しました。

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