褪せた色よ、褪せない私をどうか見ないで

(桜SS 5/10)
(Methinksのネタバレに容赦がない)

スケッチブックを広げている。視線の向こうには八分咲きの桜がある。足元の芝生には水彩色鉛筆が無造作に転がっている。
小さなコップに水が満たされている。絵筆をそこに浸す。水をたっぷり吸いこんだその毛先がスケッチブックの上を踊る。水彩色鉛筆で描かれた桜の彩度がぐっと上がる。
ああ、いつか、その筆で私を書いてくれたことがあったような気がする。あの絵はあまりにも綺麗だった。私じゃないみたいだった。
水彩色鉛筆で描かれたそこに水をたっぷり含んだ絵筆を置く、その瞬間が好きだった。魔法のようで、その魔法に私が彩られていくことが誇らしくて、嬉しくて。

「そんなことをして何の意味があるの?」

「!」

少女は振り向く。海の目が緩慢にぱちぱちと瞬きを繰り返している。右手から絵筆がぽとりと落ちて芝生に埋もれる。強い風が吹く。水彩色鉛筆がコロコロと遠くへ走る。
口を開く。何か言っている。でもよく聞こえない。風のせいだ。風が彼女の声を掻き消しているのだ。

「貴方は有名なアーティストでも、芸術に長けた画家でもないでしょう? なのにそんなものを描いてどうするつもりなの? そんな、貴方だけが満足できる拙いものを、描いて」

少女の声は聞こえない。私はそれをいいことに更に続ける。

「そんなもので過ぎる一瞬を永遠にできると、貴方は本気でそんなことを思っていたの?」

本気でそう思っていた。「私」がそう思っていた。
彼女の指先には、彼女の言葉には、彼女の信託には、彼女の命には、過ぎる一瞬を永遠にする力があるのだと、私は信じて疑わなかった。
ところがどうだろう。永遠を得たのは彼女ではなく私だった。そのような指先も言葉も信託も持たないはずの私が、彼女のあれ程焦がれた永遠を呆気なく手にしてしまった。
そしてこの彼女は、どんなアーティストよりも心を揺さぶる一瞬を紡ぎ、どんな画家よりも美しい絵を描く彼女は、何も持たなかったはずの私を置いて、先に。

「その桜もきっと、私がほんの少し眠れば枯れて無くなってしまうのに」

「それでも貴方は見てくれた。この綺麗な桜を、私と一緒に。だからもういいの。その一瞬があれば、桜も私も救われる」

急に聞こえてきた彼女の音に私は驚く。凛としたメゾソプラノが私の鼓膜に突き刺さって、抜けない。
音は毅然としていた。笑顔は太陽のように眩しかった。海の目は花のようにただ美しかった。私は、見ていられなくなって目を背けた。

「でも、その一瞬なんかで私は救われないよ」

「……」

「どうして、一瞬なの。どうして、永遠じゃないの。どうして私の永遠に貴方はいないの!」

そこまで口にしたところで、垂れ幕が降りるように視界ががらりと変わる。完全に下りた垂れ幕はすぐさま私の目蓋に置き換わり、そうして私は目覚めるのだ。
白い天井と、苦いコーヒーの香り、本を閉じる音。ゆっくりと体を起こせば、私の寝言に気付いた彼が、読んでいた本を置いてこちらへと歩いてくるところだった。
腕時計を見る。前の数字から2年、進んでいる。今回はあまり長く眠れなかった。私にとっては、2年など深い眠りのうちに入らなった。
だからこのような夢を見たのかもしれない。だから、こんなにも寂しいのかもしれない。

「おはよう」

「……いいえ、もう一度眠ります。今度は深く、長く。今度こそ夢を見ないように」

私の永遠を分かつ相手、彼女のようにいなくなることも、桜のように枯れることも、私にこのような寂しさを植え付けることもない唯一の相手は、
そうした私の相変わらずの逃避を「そうだな、君がそう望むならきっとそれがいいのだろう」と、優しく微笑んで許してくれた。

300年目くらいかな?

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