つるぎの蝶の舞う常盤

(本編から2、3年後くらいを想定)

風が吹いている。霧のように濃い温風ではなく、暗がりから押し寄せる夜のような寂しい冷風に男は驚く。
肌を撫でる空気、木漏れ日から差し込む太陽、全てが控え目で、静かで、あまりにも弱々しい。常夏のアローラに構えられた樹海とは、何もかもが違い過ぎていた。

この森の中では、いくら彼が目を凝らしたところで、アローラを想起させる要素を見つけることはできない。此処は真にカントーであり、アローラではない。
同じように、アローラの森に身を置いた少女がその中にこのようなカントーを見つけることもおそらく不可能だろう。あの場所は真にアローラであり、カントーではないのだ。
……だから彼女は、自らが「排斥」されているように思ったのかもしれなかった。だから彼女はマラサダを吐き、海の水を飲み、黒い砂の上で踊ったのかもしれなかった。
あのような馬鹿をやらかしたのも、あのような悲しみを背負ったのも、全て、この森があまりにも涼しく、あの森があまりにも暑いからなのではないかと思えてしまった。

「おい、何処まで行くんだよ」

この涼しい森における「異分子」である男の手を強く握った少女は、そのまま森の奥へと早足で向かっていく。
道、と称するのも憚られるような細い場所を抜けて、ツタが作った自然のトンネルをくぐる。森は益々暗くなり、益々涼しくなる。
遠くに見える大きな木が目の前を覆わんとするほどに近くへやって来た頃に、少女の足はようやく止まる。どうした、と尋ねかけた男の口を、少女は振り向きざまに両手で塞ぐ。

「?」

「ほら、あの木の下のトランセルがもうすぐ羽化するよ。バタフリーになって、この暗い森を出ていくの」

目を凝らせば、確かに暗がりにその姿を見つけることができた。5匹……いや、6匹いる。
少女はにっこりと笑い、お気に入りのワンピースが汚れるのも構わず草の上に座り込んだ。どうやらあのトランセルの羽化を見届けるつもりらしい。
男もそれに倣い、どっかりと腰を下ろす。

隣から小さな声で「寒くない?」と尋ねてきたので、肌寒さに嘘を吐き「平気だ」と同じく小さな声で答える。
少女はその嘘を知ってか知らずか「ふうん、そうなんだ」と楽しそうに呟いてクスクスと笑い、「でも私は寒いなあ」と肩に凭れ掛かってくる。
出会った頃に比べれば随分と成長したが、それでもこの少女は「少女」であり、まだ子供だ。
子供の体温は高い。故にこうして寄り添うことで温もりの恩恵を受けるのは間違いなく男の方だ。少女は分かっていて凭れ掛かっている。
だから男は「そうかよ」とだけ告げて、左肩に受ける少女の質量をぶっきらぼうに許す。

「トランセル達、きっとびっくりするね」

「何がだ?」

「だって目が覚めたら背中に綺麗な羽が生えているんだよ? この暗い森から飛び出して、ずっと遠くへ飛んでいけるの。
彼等はそれを分かっていて、その自由を手にするために眠ったのかな。それともただ、キャタピーの姿でいることに疲れたから眠っただけ?」

疲れたから眠る、なんて、まるで以前の少女のようだ。男はそう思ってしまい、微笑んで「さあな」と答えた。
その微笑みか、あるいはその短い相槌かは分からないが、とにかくその反応で少女は、男が以前の少女を想起したことに気が付いたらしい。
その認識の共有を喜ぶように少女は笑う。その喜びを許すように男も笑い返す。

嬉しそうに肩を竦めて目を細めて「いいなあ」と零す少女の背中に羽はない。代わりに小さな、30cm程度の騎士がいつでもそこに控えている。
ワンピースと同化するようにあしらわれたそのリボンは少女を抱えて風のように宙を舞う。望めば、彼女はいつだって蝶になれる。
……だから、羽を持たないことに絶望する必要も、羽を宿して目覚めるトランセルを羨む必要も、きっとない。

長い時間をかけて、少しずつ殻が開いていく。宝石のように美しい羽が、その隙間からゆっくりと伸びていく。
殻を脱ぎ捨てたその蝶は、パタ、パタと羽を瞬かせて、薄暗い森の空気を震わせる。何度か繰り返したのちに、徐にふわりと飛び上がる。

「見ていて、グズマさん」

少女が立ち上がりそう告げる。
その背中で小さく鳴いたカミツルギが、少女の腰にそのやわらかい鋼を巻きつけて舞い上がる。大きな木の方へと静かに飛び、羽化したばかりのバタフリーの傍へと寄る。
バタフリーは仲間を得たことを喜ぶように、ふわふわと木の周りを飛んだ。

少女とカミツルギはその少し前を飛び、時に高く舞い上がったり、薄暗い中でダンスを踊るようにくるくると舞ったりしてみせた。
それはまるで「こうやって飛ぶの」とバタフリーに指南をしているようであった。初々しい羽を導いているようであった。
空の高さを初めて知るバタフリーの羽も、少女の背に生えているつるぎの羽も、グズマには同じように眩しく見えた。あまりにも綺麗であった。美しかったのだ。

「ただいま」

けれども初々しい羽を持つバタフリーは常盤から空へと飛び立ち、つるぎの羽を持つ少女は再び男のもとへと帰ってくる。
ただそれだけの違いであった。それが、それこそが、男がこの少女を想う理由であったのだ。

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