6/23、雪村さん

 こんにちは、雪村さん。遊びに来てくださりありがとうございます。
 そして重ねてのお礼になりますが先日は素敵すぎるセイボリーのご紹介をどうも……ウオォッ! あと虫唾のランニングパーティもお褒めいただき本当に光栄で……ウオォッ!

 早速ですが【底なし沼で喋ってるだけ】の感覚について密かに「うれしみの深さ」を覚えた(セイボリー語録は汎用性が高すぎて素晴らしい)ことを報告させていただきますね。
 私は24で喚き散らしているように感情の落差というのがとても激しく、外的ストレスに対する脆弱性があると過去に判定された身なので気持ちとして落ちるときはどこまでも落ちていく傾向にあるのですが、その先で時折「あ、あれはまさか雪村さん!?」と、光を見つけたような心地になれることは私にとって勿体ないくらいの幸福です!

 愛についてのお話、こちらこそあのような長々としたものにお付き合いくださり本当にありがとうございました。雪村さんのお気持ちを少しでも軽くできるものであったこと、喜ばしく思います。
 【生きることを望んでしまうのは分かりみが凄くて】という言葉に、とてもほっとさせられてしまいました。生きていてほしい、を【傲慢にも】とするご認識も私のそれに重なるところがあります。けれども傲慢だと分かりつつ祈りたくなるこれを、私は「私らしい愛」として大事にとっておきたいなあと思っています。辛いけど! ままならないけどなぁ! 一緒に生きるんだよぉ! という気持ちです(一気にスパルタの匂いが……昨日ご紹介いただいたレオニダスさんの影響でしょうか)

 それから私がよく気にしている「夢小説としての糖度を欠いている」という点についてのご言及もありがとうございます。流石サクラダ作者様、見事に私の経験と重なる内容のことを、しかも押しつけがましくなくあっさりと、仰る!
 「そのつもりで書いたけれど」「一般的にはそうではない」という認識、非常に覚えがあります。たとえば今回の大論判三部作なんかはこれ以上ないくらいのラブコメとして書いたはずなのですが、全体として見るとその要素はやはり10%か15%か、それくらいしかありません。
 この認識の差というのは糖度に限ったことではなく、たとえば私は「爪」に色っぽさや心の美しさみたいなものを見たくなる人間なのですが、別の方にとって爪は「ミンチを捏ねるのに邪魔なものでしかない」とか「髪と同じく感覚がないので亡骸に近い感覚」とか「隠すことの難しい『手』というパーツの先に付いており、ファッションの一部として生来の形がそのまま評価されがちなのでコンプレックスの象徴として認識している」とか、本当にいろんな解釈があり、「な、成る程!」と感激のあまり口を閉じるのを忘れてお聞きした(お読みした)ことが何度かございました。
 この認識の差は、お話をする上ではあればあるほど楽しいところではあるのですが、需要と供給の一致が望ましいとされるエンターテイメントにおいては、その「齟齬」をどうしても恐れる気持ちになってしまいます。だからこそ「大丈夫ですか、こちらにある話にお砂糖はほとんど無糖に近い状態ですがお飲みいただけますか」としつこく念押ししたくなってしまうのですが、様々な形の夢小説が、甘いものもダークなものも破廉恥なものも捏造過多なものも沢山出回りつつある昨今、過剰な警告を敷き続けることはサイトのすわりを悪くするだけであるかもしれないな、という気持ちに自然となれました。
 とはいえなんだかんだで「いや、これは夢小説……? いやいや」などと気にしてしまいがちだとは思いますが、それを他者にくどく警告していくことは控えていきたいですね。

 2世様の新聞については、いらっしゃったら素敵だな、手に入らなくても2世様が新聞デビューしているという事実だけで十分すぎる程だな、というくらいに思っています。楽しみですね。
 そして福岡の分がお相手様のご実家に到着したとのこと、おめでとうございます! それはもう早めに受け取って、感謝の気持ちをたっぷりお伝えなさった方が、お相手様もご家族様も「新聞があってよかった」と喜んでくださることと思いますよ。新聞で好きな人を幸せにできるなんて、素晴らしい世界だ。まだまだジャパンは捨てたもんじゃないですねフフフラダリ

 では、ありがとうございました。またお会いしましょう!

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