52

彼が「お父さん」になることは、彼女を「お母さん」と呼ぶことよりもずっと簡単だった。

彼とあたしの間には、言葉も時間も足りなかった。他人と呼んでも差し支えない距離だった。
おそらく、月に一度しか会わないあたしとマリーとの距離の方が近かっただろう。それ程の遠さだったのだ。
そうした「他人」の位置から「家族」に近付くこと、「男性」から「父」に変わることはそう難しいことではなかった。ただ、新しい領域に足を踏み入れればいいだけの話だからだ。
恐ろしい、と怯える彼の手を、あたしが笑いながら引くだけでよかったからだ。根拠のない「大丈夫」は、けれど彼を安心させることができていたのだった。

けれど彼女は違う。あたしはずっと彼女と一緒にいた。何もできない彼女の代わりに、掃除も洗濯も料理も全てあたしが請け負い続けていた。
あたしにとって、この針金細工の身体を持つ女性は最早あたしの「娘」であり、
すっかり逆転してしまったその立場をぐるりと戻して、今更彼女を「母」とすることなど、どう足掻いても不可能であるように思われた。

彼女とあたしの間には、飽きる程に長い時間があり、あまりにも近い距離があった。
お姉ちゃんよりもずっと近い位置に彼女はいた。距離が詰まり過ぎていたのだ。あまりに密着しすぎていて、少しでも力加減を間違えれば、双方が粉々になってしまいそうだった。
彼女は彼以上に臆病で、怖がりで、頼りなかった。彼女を「母」と呼ぶべき要素を、あたしはどうしても見つけることができなかったのだ。

そういう訳で、あたしは彼のことを「お父さん」と呼びつつも、彼女のことは「お母さん」と呼べない、などという、とても残酷な時間を迎えることとなってしまった。
……もっとも、その残酷さに彼女が気付いていたかどうかは、定かではない。
そもそもの問題として、彼が朝8時に起きた頃にはあたしは既に家を出てカフェにいるし、彼が戻って来る深夜の頃にはあたしは既に眠っている場合が多かったからだ。
働きに出ている彼とあたしが顔を合わせる機会など、週に2、3回くらいしかなかった。
そして、彼とあたしが会話らしい会話をする日はそのうちの1回、彼に料理を教わる水曜日の夜だけであったのだ。

腕利きのシェフとして多忙に働く彼にだって、休日はある。それが毎週水曜日だったのだが、彼はこれまで、その水曜日もレストランへ通い、料理の腕を一人静かに磨いていた。
故にあたしは、シェフという仕事は年中無休なのだと、つい最近まで本当にそう思っていたのだ。
けれどもあの約束を交わした日、あたしが数年振りに彼の料理を食べたあの日から、彼は水曜日の夜だけ、仕事を少し早めに切り上げて、夕方から家に帰ってくるようになった。
あたしに料理を教えるために、修行を早めに切り上げてくれたのだ。
彼があの日「教えます」と告げた、あの約束を彼は守ってくれた。

「この痴れ者が!!」

ただし、彼のその誠意というのは、この上なくおどろおどろしい形をしているのであった。

「キュウリの皮を全部剥いてしまう奴があるか!飾り切りが映えないだろうが!」

「だってトゲがあるじゃない。こんな痛いところ、そのままにしておけないわ」

彼は大きな溜め息と共に、板摺りも知らないとは、などという弱々しい呆れの文句を唱える。
このようなことが1回の調理において少なくとも1回、多い時は3回、起こる。
最初こそ、静かだと思っていた彼の突然の怒声に、あたしは顔を青ざめさせて包丁を取り落とし、震えながら思わず涙を零しさえしたのだが、
それが3回、4回と続けば、流石にその怒声を恐れることも、驚愕に泣き出すようなこともなくなった。時の流れの中に生きる者は、良くも悪くも「慣れ」を覚えるのだ。

もうあたしは「この痴れ者が!!」に怯んだりしない。平然と受け止め、そして言い返す。
けれどもリビングでその様子をそっと窺っている彼女の時は相変わらず止まったままなので、彼女はその怒声を何度聞いても慣れない。
いつもびくりとその薄い肩を跳ねさせて、目に涙を浮かべるのだ。
怒鳴られているのはあたしなのだから、そんなに震えなくてもいいのに、と思いつつ、けれどあたしも彼の指導に食らいついていくのに忙しいから、彼女の涙を拭うことができない。
あたしの手は2本しかないし、あたしの口だって1つしかない。だから仕方ない。

貸しなさい、と告げて、彼は残っていたキュウリをあたしの手からさっと奪い取る。
塩を振って、まな板の上でコロコロと転がすそれが、彼の言っていた「イタズリ」であることに気付くまで、あたしはしばしの時間を要した。
こうすることでトゲが取れて、しかもキュウリの緑がより鮮やかになるらしい。理屈は……彼も知らない。「そういうもの」だと教えてくれた。
おそらく知識に貪欲なマリーに尋ねれば、すかさず調べて教えてくれるのだろう。けれど別に知らなくてもいいかな、と思った。
難しい知識による裏付けなどなくとも、あたしは父の言葉を信じられたからだ。

そうして何とかそれらしい料理が出来上がる。3人分の食器を用意して、3人分の食事を並べる。
彼は「美味しい」という時もあったし、「香辛料が足りない」とか「ニンジンの表面に焦げ目を付け過ぎている」とか、詰めの甘さを指摘することもあった。
あたしはそんな彼の言葉に相槌を打ちながら料理を口に運んで、確かにもっとコショウを入れるべきだったわ、とか、あたしはこれくらい焦げているのが好きよ、とか、
正しいことも正しくないことも、臆することなく口にして、彼を喜ばせたり怒らせたりした。

あたしの父はとても饒舌な人であるのだということを知った。あたしの父は微笑むと幼く見えるのだということを知った。
毎日、大勢に大量の料理を振る舞っているにもかかわらず、父自身はそこまで大食いではなく、どちらかというと小食の部類であるのだということを知った。
そしてあたしは、父よりもずっと大食いであるのだという、あまりにも少女らしくない事実に気付いてしまったりもした。
父が書いたらしいレシピのノートは読めたものではなかった。字がとても汚いのだということを知った。
プライドの高い人であることは前々から知っていたけれど、それは父の元来の気質である「臆病」の裏返しであるのだということを知った。

彼女は何を食べても、美味しいわと言ってくれた。
父の作る料理が美味しくない筈がないのだけれど、あたしが作った料理は美味しくない時だってあっただろうに、彼女は全くそんな素振りを見せなかった。
……いや、それ以前の問題として、あたしは彼女が、あたしの作った料理を食べているという、ただそれだけのことにひどく驚いていた。
この人は、父の作った料理だけを食べて生きていた筈であったからだ。
だから、あたしは彼女が何かを「食べている」ということ、そしてその「何か」があたしの料理であるということにただ、満たされていた。
おそらく彼女に、ちっとも美味しくないわと言われても、あたしは喜ぶことができただろう。つまりはそういうことなのだった。感想など、さしたる問題ではないのだった。

もうすっかり成長しきってしまった子供と、子供のままのような彼女と彼。そんな三人が同じテーブルを囲んで料理を食べる姿は、まるでままごとのようだった。
いや、ような、ではなくきっとままごとそのものだったのだろう。あたし達は滑稽な遊びを続けていた。3か月が経ち、4か月が経っても、この滑稽な遊びは途絶えなかった。
この家族めいた遊びが遊びでなくなるのが先か、彼女か彼が死んでしまうのが先か、どちらだろう。
あたしはもうすっかり習得したラディッシュの飾り切りをしながら、彼の隣でふと、そんなことを思うのだった。

そういう訳であたしはすっかり彼を父と見ることができていたのだけれど、彼女を母と見ることを拒んでいた訳ではなかった。
ひどく難しいことだと分かっていながら、何度か彼女を母としようと試みたことがあった。
けれどもあたしは馬鹿正直な人間だから、思ってもいないことは口にできない。だから自分のための言葉しか紡げない。彼女のために「お母さん」などという音を選びようがない。

だから「仲良く」なるしかなかった。
彼女から離れることも、彼女を母とすることもできなかったあたしは、彼女の何もかもを許す位置に回るしかなかったのだ。
そうすることしか、彼女の世界に踏み入る術を思い付かなかった。

彼女の死の旋律に耳を傾けた。ドロドロに溶けた花を一緒に眺めた。彼女の希死念慮に笑顔で相槌を打った。
それでも生き続けてくれる彼女に感謝の意を示した。そうやって彼女の良き理解者で在り続けた。
そうすると彼女は少しずつ、本当に少しずつではあったのだけれど、彼女自身のことを話してくれるようになった。
少女のまま大きくなってしまった彼女の、その小さすぎる心を開くには、ただ共鳴してあげればよかったのだ。
たったそれだけのことを求め続けて、彼女はもう40を超えてしまった。

可哀想だと思った。やはり生きている彼女というのは、どう足掻いても痛々しくていたわしくて、可哀想なのだった。

「あなたも弾いてみる?」

ピアノの部屋には彼女のためだけの空気が満たされている。余所者のあたしはずっとそこにいると、どうにも息が難しくなってくる。
だから勿論、あたしはその誘いに首を振るのだけれど、代わりにこんなことを尋ねるようになった。

「あなたが弾いているところをもっと近くで見たいわ。傍に行っていい?」

彼女は驚いたように目を見開いて、けれどすぐにすっと細めて頷いてくれた。針金細工のように細い腕が、ひらひらと子供のような手招きをするのだった。
あたしは彼女の隣にそっと立ち、彼女が10本の指を鍵盤の上で遊ばせている様をずっと見ていた。

白鍵と黒鍵のステージで軽やかに繰り広げられるダンスはとても美しくて、やはり、生きていないようであった。
彼女は飾りのように楽譜をピアノに立てかけていたけれど、そこにはあまり視線を向けていなかった。彼女もまた、白と黒の鍵盤をその目いっぱいに映して楽しんでいたのだ。
楽譜はメロディーを忘れた時にだけ見るのよ。彼女はそう告げて笑っていた。
ピアノの世界で生きる彼女にとって、譜面というのは覚え書きのようなものであり、
その曲の全ては彼女の頭の中にあるのだから、楽譜を食い入るように見つめる必要などなかったのだろう。
父が、料理のレシピを手に持ちながら料理をしたりしないのと同じように、彼女も、曲のレシピを見ながらピアノを弾いたりしないのだ。きっとそういうことなのだ。

料理も掃除も洗濯もできない彼女だったけれど、花を美しいままに留めおくことさえできない彼女だけれど、ピアノを弾いているときだけは誰よりも機敏で聡明だった。
どの指でどの音を奏でるべきか、どのように強弱を付ければ旋律の中に物語が生まれるのか、彼女はそうしたことを心得ているようだった。
まるでリビングで紅茶を飲んでいるときのような優しい笑顔でピアノに向き合っていて、けれどもその指先はちっとも易しくない動きをしているのだった。

時折、曲のとある局面で、折れそうに細い彼女の指が疾風のように動くことがあった。隣接する二音を、とんでもない速さで交互に叩くのだ。彼女はその技術を「トリル」と呼んだ。
あたしはその、目の覚めるように鮮烈な音に聞き入ってしまった。
死の旋律しか奏でられないと思っていた彼女の、あまりにも力強い音に驚いたのだ。生命の力を感じさせるその疾走感に、叩き起こされるような涼しさを覚えたのだ。

そんなピアノの隣にあるサイドテーブルには、あたしが購入した一輪挿しが置かれている。
色褪せてミイラと化したスターチスが、あたしと彼女のぎこちないおままごとを嗤っている。


2017.4.18
【16:-】(46:56)

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