53

週に一度、父と料理をする習慣はまだ続いている。彼女のピアノに耳を傾ける時間もまだ続いている。

あたしは平日の朝早くから夕方4時頃までカフェにいて、子供達と遊んだり、彼等に勉強を教えたり、ポケモンバトルの相手をしたりしていた。
フォッコはとある少年とのバトルでテールナーに進化した。より頼もしくなったあたしのパートナーは、以前よりもずっと大きな炎を作ることができるようになっていた。
ポケモンに関する知識も、ポケモンバトルの技術も、まだオーナーには遠く及ばない。彼の積み上げてきた「100分の1の永遠」に、あたしの16年間が敵う筈がない。
それでも子供達はあたしのことを「お姉さん」と呼んで慕ってくれた。それがどうにも嬉しくて、たまに泣きたくなってしまうのだった。

お姉ちゃんも相変わらず、ミアレシティのポケモン研究所で働いている。
オーナーからお給料を正式に頂き、このカフェのスタッフとして認められたあたしは、
このカフェとポケモン研究所が、これまでも「ポケモントレーナーへの支援」という同一の目的に向けて協力し合っていたことを、オーナーから知るに至った。
今はもう博士の席を下りているそうだけれど、研究所の博士とオーナーは友人関係にあったらしい。
今まさに研究所でキャリアを積んでいるお姉ちゃん、その友人であるあたしがこのカフェの引き継ぎ役に選ばれたのには、そうした理由もあったのかもしれなかった。

あたしとお姉ちゃんに、オーナーとその元博士のような立派な働きができるかどうか分からない。
あたしは自分の働きぶりに満足しているけれど、それがオーナーの期待に足るものであるのかどうかに関しては、あまり自信がない。
……それでも誠心誠意、尽力するつもりだった。気持ちだけではどうにもならないことだってある。そんなことは解っている。それでも、諦めてしまうよりずっといい。
あたしは生きるのだ。足掻きながら生きるのだ。だからこれが正しい。これでいい。

小さなポケモントレーナーを支援し送り出す、ささやかな、けれどとても大事な仕事。
働く、ということは、どうやら単にお金を稼ぐということ以上の意味を持つらしい。そうしたことに、あたしは仕事をする中で少しずつ気付き始めていた。
社会の中で動くこと、社会の一員として未来のために尽くすこと。流れ続ける時に置いていかれないように、社会を動かし続けること。
その対価として、あたし達は社会の流れからお金を受け取っている。社会が流れているから、お金も流れてくる。そのお金であたしは生きている。

不思議な世界だと思った。とても難儀だと思った。流れに置いていかれた人間は、本当に生きていかれないのだろうとさえ思えた。
流れに乗ること。流れの中に生まれてきた人間にとっては驚く程に簡単なこと。息をするように流れの中に在る。当然のこと、些末なこと。
けれど静かに凪いだ水しか知らない人間にとっては、その強すぎる流れというのは、身を切るような苦痛であるのだろう。流れの中では息ができないのだ。惨たらしいのだ。

『生きるってとても恐ろしいことね。惨たらしいことね。やっぱりわたしは生きていかれないんだわ。生きていたって、仕方がないのよ。』
彼女だって何も間違ってはいない。生きていかれない、と嘆いた彼女のあの心もまた、きっと正しい。

彼女はずっと時を止めている。彼女はずっと息を止めている。

「いい匂いがするわ。何を作っているの?」

けれどもそうした彼女の時が、少しずつ動き始めている。あたしはそのことに、誰よりも早く気が付くに至っていた。
長く止まっていた歯車の軋む音はとてもぎこちなく、聞いていられるようなものではなかったけれど、あたしはその、キリキリと鼓膜をつんざく音さえも嬉しかった。

プリンを作っているの、あなたの分は作っていないけれどね、と意地悪を言った。彼女はクスクスと笑いながら、あら、残念だわと珍しいことを告げた。
あたしは驚いたように目を見開きつつ、小さいものでよければ今からでも用意できるわ、と告げれば、彼女は更に珍しいことにふわりと微笑んで頷くのだった。
彼女が花以外の何かを「欲しがってみせる」ところを、あたしは初めて見た。

容量にして70cc程度の、エスプレッソのカップにプリン液を注いで冷やした。
プリンは作るのに時間が掛かるのね、と告げながら、冷蔵庫の前に立ってじっと待とうとしている彼女に、
そんな風に待っていたらプリンが恥ずかしがってしまうわ、とからかうように口にして彼女の手を取った。
ピアノを弾いていれば2時間なんてあっという間に過ぎるから大丈夫よ、と告げれば、彼女は安心したように歩幅をぐいと大きくしてピアノの小部屋へと飛び込むのだった。

ああ、これが、今年46歳になった女性の挙動だというのだから笑ってしまう。
彼女はプリンを作ったことがないのだ。あたしが10歳の頃には既にできていたことが、彼女にはできないのだ。お姉ちゃんに教わって覚えたプリンの作り方を、彼女は知らないのだ。
だから彼女は美しいのだろう。死んでしまいたい程に美しく思えるのは、彼女が「こちら側の世界」において、無知と無力を極めているからかもしれなかった。

構わない。彼女がプリンを作るところなど、似合わない。彼女が聡明で博識で力強いところなど、想像もつかない。それはもう彼女ではない。
彼女は花を買っているところが似合うのだ。彼女はお洒落なビーンズローフにフォークを刺しているのが似合うのだ。彼女は死の旋律を奏でているのが似合うのだ。
父はそんな彼女を愛している。あたしはそんな彼女に生きてほしい。

あたしはピアノの小部屋に大きなクッションを持ち込んでいた。
彼女の死の旋律に引き寄せられるようにして此処に入り、クッションの上にぽんと座って、ピアノの音を聴きながらうとうととするのが好きだった。好きになった。
たまに楽譜を覗き込んで、その五線譜というものを解読してみようと試みるのだけれど、やはりあたしには黒い流れ星が飛び交っているようにしか見えなくて、
それが音楽で言うところの「文字」であるという事実を、あたしはまだ上手く飲み込むことができずにいたのだった。

けれども彼女はたまに、あたしに楽譜の読み方を教えてくれることがあった。
「ト音記号」も「ヘ音記号」も「ドレミファソラシド」も、全て彼女が教えてくれた。
ドのシャープとレのフラットは同じ音であることに驚き、ト音記号とヘ音記号では「ド」の位置が違うことにもまた、驚いた。新しいことを知るのはやはり、楽しかった。

彼女が教えてくれたことは、マリーやお姉ちゃんがあたしに教えてくれたことに比べれば、本当に些末な、微々たるものでしかなかった。
ピアノが弾けたからって生きていけない。楽譜が読めたからってお金は手に入らない。けれど、それはあたしの世界の尺度だ。時の流れる世界での価値観だ。
彼女はそんなところには生きていない。誰が「下らない」と揶揄しようとも、楽譜というのは彼女にとって最も重要なことだ。彼女はこれがなければ生きていかれないのだ。
あたしは彼女の最も大事なものに触れられているのだと、彼女の世界を理解する権利を与えられているのだと、そう思えばにわかに嬉しくなった。
五線譜に踊る流れ星を追いかけているとき、あたしは掃除のことも洗濯のことも忘れられた。本当に、この小部屋では時が止まっていたのだった。

けれどもあたしは時の流れる世界に生きているものだから、時計の針が2時間後を示していることに気が付くと、ピアノを弾いている彼女の手を取ってしまう。
プリンが出来たみたいよ、と告げるけれど、彼女はその言葉を直ぐには理解しない。彼女の止まった時は直ぐには動き出さない。彼女は「プリン」を直ぐには理解してくれない。
ややあって、ああそうだったという風に微笑んでから席を立つ。紺色の布を鍵盤の上にそっと被せて、ピアノの蓋を閉めて、小部屋を出ていく。
あたしもそれを追いかけて、冷蔵庫の中からすっかり固まっているプリンを取り出し、カラメルソースを上からかけてテーブルの上に置く。
コーヒーを淹れようかと迷ったけれど、今日はいいかな、と思った。

いただきます、とあたしが先に手を合わせる。彼女はそんなあたしを見て、真似るように手を合わせ、同じ言葉を唱える。
ああ、本当にどちらが母でどちらが娘なのか分かったものではない。けれどその混乱はもうあたしを絶望せしめなかった。あたしの心はただ静かに凪いでいた。
プリンをそっと掬い上げて口に運ぶ。蒸すときの温度加減を間違えると「す」という泡が出来てしまうのだけれど、それは見当たらなかった。どうやら成功したらしい。
よかった、と安堵の息を吐くのと、彼女が息を飲むのとが丁度、同じタイミングであった。首を傾げて、どうしたのと尋ねれば、彼女は驚いた表情のままに口を開いた。

「ズミさんが作ってくれるのと同じ味だわ」

「だってそれ、お父さんに教えてもらったんだもの。お砂糖やミルクの分量も、蒸す時間も、全部、言われた通りにしたの。同じにならない筈がないわ」

これには若干の嘘が含まれていた。確かにあたしは父の教えに忠実に料理を作っていたけれど、だからといって彼の味を完全に再現できるわけではなかったのだ。
同じ材料、同じ分量、同じ時間、全てを揃えても尚、やはり何かが決定的に違っているのだった。一流シェフのレシピは盗めても、一流シェフの腕は盗めないのだ。
けれどもプリンだけは、彼の味をほぼ完全に再現することができていた。プリン自体は10歳の頃から作っていたから、私の手はこの作業に随分と慣れていたのかもしれない。

そういう訳で、数えきれない程に作ったプリンが「美味しい」ことは、あたしにとって驚くべきことではなかった。まあ当然よね、と得意気に微笑める程度のものでしかなかった。
けれども彼女にとって、この「美味しい」プリンを父以外の人間が作っているという事実はとても驚くべきものであったらしく、
その目はまるで初雪を見た子供のように、ぱちぱちと、キラキラと、瞬いていたのだった。

「お父さんとの料理は、楽しい?」

「!」

……ああ、違ったのだ!
あたしはあまりのことに戦慄した。自らのしでかした致命的な失敗に眩暈がした。

どうして彼女の前で「お父さん」などと言ってしまったのだろう。あたしはまだ、この女性を「お母さん」と呼ぶことができていないのに。
これではまるで、一人と二人が二人と一人になっているかのようではないか。あたしと父が彼女を弾いているのかのようではないか!

それでもあたしは、楽しいわ、などと震える声で、正直な思いを残酷にも告げてしまった。
彼女や父が嘘を吐けないように、あたしも上手な嘘の吐き方を知らなかったのだ。だから、優しい嘘を吐くことが叶わなかった。
そういう意味ではあたしも、生き辛い人間の一人であったのかもしれなかった。
でも、と付け足してあたしは完全にスプーンを置いた。彼女は穏やかに微笑みながら首を傾げていた。その儚い表情があまりにもいたわしかった。
いや、彼女がいたわしくなかったことなど、これまで一度もなかったのだけれど。

「でもあなたのピアノを聴くことだってとても楽しい。あたしも早く、あなたの書いた楽譜を読めるようになれたらいいのに」

時を止めた彼の料理の世界と、時を止めた彼女のピアノの世界は、あたしにとって等しく尊いものなのだと、あなたの世界を軽んじている訳では決してないのだと、
そうしたことをあたしははっきりと、一音一音を強調するように告げつつ、……ああ、それでもやはり彼女を「お母さん」と呼ぶことはどうにも難しいのだった。

「ズミさんのように、上手に教えてあげられたらいいのだけれど……」

「上手じゃなくてもいいの。あなたが教えてくれるだけでいいの。本当よ」

あなたでなければいけないのだと繰り返す。「お母さん」ではなく、彼女に繰り返す。


2017.4.19
【16:20】(46:56)

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